第16話 雨の帰り道
突然の雨。
下校時刻、グラウンドを使えない陸上部のミーティングを終えてひかりと楓はそのまま下校しようとしていた。
高木君もう帰っちゃったかな……。
ひかりはそんなことを考えつつ、少し急ぎ足で階段を降りて靴箱に出る。
「あれ、高木君じゃない?」
ひかりよりも先を歩いていた楓が声を上げた。
視線の先、ガラス扉ごしに物憂げな鉛色の空を眺めている誠司は誰かを待っている感じだった。
二人に気付いた誠司は、雨の降り続いている景色から目を移し、笑顔で軽く手を振った。
「やあ時任さん、橘さん」
「高木君も今帰るところだったんだね」
ここで会えたのを嬉しく感じつつ、ひかりは靴を履き替えて傘立ての自分の傘を探す。
楓は鞄の中から折り畳み傘を出した。
「今日降るって言ってなかったのに。スカート濡れちゃうじゃない」
楓は恨めしそうに雨音のする外を眺める。
傘立てから自分の傘を取り出してから、ひかりは誠司の手に傘がないことに気付いた。
「高木君は傘大丈夫?」
ひかりの言葉に誠司はちょっと困った感じの笑顔で返した。
「ひょっとして傘忘れちゃったの?」
「うん。勇磨に入れてもらおうと思って待ってるんだ」
楓はそれを聞いて首を傾げた。
「あいつホームルーム終わってソッコー帰ったみたいだけど会わなかったの?」
あっさりとそう言われ、頼みの綱が切れてしまった誠司は分かり易い程落胆した。
授業が終わるとさっさと帰るのが常の勇磨は、誠司の予想よりも早く下校してしまっていたらしい。
ガラス扉から見る限り雨は先刻よりも強く降っている気がした。
誠司は苦笑いと共にため息を一つついた。
そんな誠司に楓は自分の傘を振って見せた。
「大丈夫だよ。私たちの傘に入ったらいいよね。ね、ひかり」
「え、うん。そうだね」
軽くそう言った楓の言葉に、ひかりは内心ドキッとしてしまう。
楓は手に持った折り畳み傘でもう一方の掌をポンポンと軽く叩いて、ここにいない勇磨に毒づいた。
「でもホントあいつ肝心な時にいない癖に、どうでもいい時に限って周りをうろうろしてるのよね。高木くん、もういっそあいつ切っちゃおうよ。ね」
無邪気な笑顔とは裏腹に、楓は本気とも取れる雰囲気だった。
「いや、傘を忘れて勇磨にあたるのはちょっと……」
「ふーん、高木君優しいのね。それだからひかりも高木君のこと……もごもご」
ひかりは少し怒った顔をして楓の口を慌てて押さえた。
「かえで!」
「へへへ」
楓はこうなるのを少し楽しんでいるように見えた。
ひかりは誠司に自分の傘を差しだした。
「私の傘使って。私、楓に入れてもらうから」
傘を渡そうとしてひかりは気付いた。誠司は左手に鞄を持っている。傘をさすと鞄が持てないのだ。
ひかりはそうだったと少し考えるような仕草をした。
「ねえ、ひかりが高木君と一緒の傘に入ればいいじゃない」
「えっ?」
楓の提案にひかりはびっくりしたような顔をした。
「そうすれば雨も鞄も問題ないでしょ」
楓の言うとおりだった。
「いや、時任さんに悪いし、俺もう少し待って誰か入れてくれる人探すよ」
遠慮して笑顔を見せる誠司に、ひかりはなかなか一緒の傘に入りませんかと言いだせない。
そうしているうちに下校しようとする生徒たちがポツポツやって来た。
「あれ、高木君。傘持ってないの?」
声をかけたのは誠司のクラスの女子生徒だった。
慌ててひかりは誠司の袖を掴むと、そのまま外のひさしの下まで連れ出した。
誠司は声をかけてきた女子に「じゃあ」と言い残す。
ひかりは誠司の袖を放して、口ごもる。
「あの……」
ただひと言を言うだけ。それなのに頬のあたりがどんどん熱くなってくる。たったひと言を躊躇う自分にひかりは必死に抗った。
「私の傘で良かったら入りませんか?」
ようやく口にすることが出来たその声はとても小さかった。
「高木君、そうしなさいよ」
後ろから楓に声を掛けられ、二人とも心臓が止まりそうになる。
「は、はい。お願いします……」
誠司の声も最後は聞き取りにくいほど、か細かった。
なかなかお互い言い出せなくてじらされていた楓に、二人は背中を押された格好になった。
ひかりが開いた傘に誠司が手を伸ばす。
「傘、持っていい?」
「うん」
ひかりは誠司の鞄を手に取る。
それほど大きくないひかりの薄紫色の傘は、二人が歩き出すとポツポツと雨音を立てる。
さっきより少しだけ雨脚は弱まったようだ。
言葉もなく二人は並んで歩き始めた。
何も話すことなく歩き出した二人のほんの少し後ろを、楓はもどかしさを顔に出したままついて行く。
楓の視線の先で、少しひかりのほうに傾いた薄紫色の傘が歩みと共に揺れる。
校門に差し掛かった時点で、夏服の誠司の右肩は肌が少し透けて見えるほどもう濡れていた。
「どう見ても恋人同士にしか見えないのにな……」
気の利いた話もままならない二人に楓はそう呟いた。
そんな楓の視線を気にする余裕もない程、ひかりは緊張していた。
ひかりの肩に時々誠司の上腕が触れる。その度に少し胸が苦しくなる。
お昼休みの時のようには話せずに、お互い口数少なく並木道を歩く。
もっと話したいのに。そう思う。
高木君も同じなんだ……。
ひかりは一生懸命言葉を探す。
こんなに近くにいるのにと、ひかりはもどかしい思いを募らせる。
「あのね、高木君……」
「うん……」
「あの……お弁当のおかず、何か食べたいものとかあったら言ってね」
「うん。ありがとう。でも、時任さんの作ってくれるもの、みんな美味しいんだ。だからその、もう思いつかないっていうか……」
「ほ、本当に? あ、でも思い付いたら言ってね」
頬の辺りが熱くなるのを感じてしまい、ひかりはそのまま下を向いてしまった。
それからまた少しの沈黙のあと、今度は少年の方から口を開いた。
「ごめんね」
「えっ?」
「お弁当も作ってもらって、こうして傘まで貸してもらって鞄まで持たせて、時任さんに甘えっぱなしで本当にごめん」
ひかりが見上げると、少年は少し伏し目がちに、申し訳なさそうな顔をしていた。
「そんな、そんなこと無いから。高木君はなんにも気にしなくていいんだよ。私すごく楽しいの。お弁当作りも、こうして一緒に帰るのだって、好きだからやってることなの」
口に出してからひかりはすぐ気付いた。
今、ちょっと違う感じにも取れるような発言をしてしまったことに。
「いやいやいや、違うの。高木君には本当に感謝してて、お手伝いを出来るのが嬉しいって言うか、なんというか、もうそんな感じだから、本当に気にしないでね」
「うん。ありがとう」
大慌てで訂正したひかりは、耳まで熱くなっている自分に戸惑いを覚えていた。
胸の鼓動が速い。
足元がフワフワするこの感覚はいったい……。
不思議な浮遊感に包まれていた時、段々と傘に当たる雨音が弱くなってきた。
並木道の先の遠い空が次第に明るくなってくる。
そして雨脚がさらに弱まる。
ひかりは雲の切れ間にわずかに射し込んだ陽光に目を向けた。
ああ、どうして。
最後の一滴が傘に落ちて細かい光のプリズムをつくる。
「止んじゃったね」
誠司が見上げる空には雲が切れて青い空が見え始めていた。
「うん。止んじゃった」
ひかりも空を見上げる。
まるで二人の気持ちをくすぐるかのようにすぐに止んでしまった通り雨に、ひかりは少し残念そうな顔をする。
そして夏服の肩を濡らした少年もまた、少し残念そうに空を見上げたのだった。
「ねーひかり聞いてる?」
部活が終わった帰り道。土曜日の練習は午前中だけだったので、ひかりは楓と時々立ち寄る喫茶店でお昼ご飯を食べていた。
狭い店内には挽き立ての珈琲の香り。
美味しい珈琲を淹れると評判のこの店には、何時もそこそこの常連客がいて、ゆったりとした時間を愉しんでいた。
「なんかぼーっとしてたけど、ひょっとして高木君のこと?」
図星だった。的外れなことのほうが多いけれど、たまに楓は核心をついてくる。
「いや、もう九月も半分終わったなと思って」
「そうだね。はやかったねー」
楓は目の前で湯気の立つナポリタンをモリモリ食べている。
この店の看板メニューである鉄板にのって出てくる具沢山のナポリタンは楓のお気に入りだった。
山盛りの炭水化物を気にすることなく、美味しそうにズルズル言わせているのを前に、よくそれで太らないものだとひかりはまた感心していた。
「ごめん、何の話だったっけ」
「進学のこと。私たちはスポーツ推薦だからいいよねって。ひかりはともかく私はギリギリやばかったけど」
インターハイでいい成績を残したひかりと楓は、同じ大学に推薦が決まっていた。
「またひかりと一緒で嬉しい」
「そうだね。私も楓と一緒だから心強いよ」
「ほかのみんなは受験だね。大変だ。新は馬鹿だから行くとこないと思うけど、高木君は美大に推薦でしょ。試験は少しあると思うけど」
進学が決定しているひかりと楓は部活を卒業ギリギリまで続けるだけだった。
それに比べ、美大の推薦はスポーツ推薦とは違い、誠司はまだ年末に試験が控えていた。
「あの絵観た? 校長室のある廊下の突き当りに飾ってある高木君の絵。一年の時に大賞を獲って一時話題になってみんな観に行ってたもんね」
一年の時、誠司の描いた絵は大賞を獲った。ひかりはその絵を何度も観たが瑞々しくてとても綺麗で少し
「一年の時大賞を獲った実力なのに、二年の時どうして出品しなかったのかな。ひかりはなんか聞いてないの?」
「高木君とそんな話しなかったな。なんでだろうね」
確かに楓の言うとおり大賞を獲ったコンクール以降、誠司は一度も自分の作品を出品していなさそうだった。
今度訊いてみようかなとひかりは思った。
「それでさ、高木君の手のことなんだけど」
楓はひかりが一番気になっていたことを話し始めた。
「今日だったよね、固定具外せるって言ってたのって」
「うん」
「順調だって言ってたし、明日からもう指動かせるのかなと思ってさ。って、いきなりは無理だよねさすがに、リハビリとかあるのかな」
楓の言葉は途中からひかりの耳には入っていなかった。
きっともうすぐ高木君の手も良くなる。
そうなったらこれからはどうなっていくんだろう。
お弁当を作るのも、もう必要なくなるのかな。
鞄を持ってあげて一緒に通学路を歩いたり、授業でついていけなかった所を訊いてくれたり、私を頼ってくれることはもう無くなるのかな。
もう、あの美術室でお昼休みに会えないのかな。
目頭が熱くなる。
あっ。
「ひかり、どうしたの」
勝手に頬を涙が伝っていた。
「なんでも、なんでもないの。目にゴミが入っただけ」
ひかりが自分の本当の気持ちに気付いた瞬間だった。
誠司は病院で診察を受けて自宅に帰ってきていた。
薄暗い自分の部屋で明かりも点けずに、カーペットの上に膝を抱えて座り込んでいる。
長い間右手を締め付けていた固定具はもう外されていた。
誠司は少し瘦せた右手をじっと見つめる。
薬指と小指がぎこちなく動く。
誠司は病院の診察室で言われたことを思い出していた。
「薬指と小指は使っているうちに、もう少しはスムーズに動くようになります。でもほかの指は完全に神経が切れてしまっているのであきらめてください」
担当医の淡々とした説明を最後まで誠司は黙って聞いていた。
父は知っていたらしく、今まで黙っていて済まなかったと帰りの車の中で重いものを吐き出すように言っていた。
もう、動かないのか……。
誠司の瞳から大粒の涙がこぼれる。
膝を抱えてただうずくまる。まだ高校生の少年が受け止めるには重すぎる現実だった。
九月も半分終わった。朝の風は少し涼しかった。
晴天の並木道。誠司の歩く先、優しい風が葉を揺らす桜の木の下にひかりは立っている。
ひかりは誠司に気が付くとまっすぐに小走りに駆けてきた。
黒髪が光を集める。
「おはよう。高木君」
「おはよう」
二人はいつもの挨拶をかわす。
そしてひかりは誠司の右手に目を落とす。
「固定具外れたんだね」
「うん。そうなんだ」
「良かったね」
「うん」
誠司はひかりの笑顔を眩しそうに見る。
そして……。
「ずいぶん良くなったんだ。本当にありがとう」
自分の気持ちをはっきりと知ってしまった少女と、傷つきなお前に進もうとする少年はこれからどうなってゆくのだろう。
季節の移ろいとともに、このささやかな二人の恋は新しい風にさらされようとしていた。
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