第12話 窓からの眺め
放課後の美術室。開け放たれた窓からはこの学校の自慢である広いグラウンドが見渡せる。
奥には幅跳び用の砂地があって、丁度陸上部の幅跳びの選手が手をあげてスタートを切ろうとしていた。
長い黒髪を後ろに一つに束ねたその少女は、迷いのない一歩を踏み出すと跳ねる様に駆けてゆき、あっという間に加速する。
そして今日もまた、遠目に憧れのまなざしを向ける少年の前で、少女は一瞬の輝きを見せるのだった。
誠司はスケッチブックに走らせていた手を止めて、その美しさに目を奪われていた。
怪我をしてからしばらく休んでいた美術部に先週から顔を出した誠司は、島田の勧めで固定具をしていない左手で鉛筆を持って、スケッチブックに線を描いていた。
「たかぎー。聞こえるかー。おーい」
島田が窓の外にくぎ付けの誠司を現実に引き戻す。
「何見てんだ?」
分かっているくせに、島田は誠司の脇腹を小突いた。
誠司は平静を装う振りをして、またスケッチブックに向かう。
「おっ? あれに見えるは女子陸上部じゃないか」
さらに島田はわざとらしい口調で、美術部の他の部員に聞こえる様にアナウンスした。
「えっ? 先輩何見てるんですか?」
一年の女子生徒が何人か手を止めて、窓際に集まってきた。
誠司はニヤつく島田をひと睨みして、後輩の女子生徒たちを諭す。
「みんな集中して描こうね。コンクールまでそんなに余裕はない筈だよ」
そんな誠司の先輩らしい指摘は、好奇心溢れる女子生徒らの耳には届いていないようだった。
隠しきれない動揺を見せた普段大人しい先輩に、怪しいものの匂いを嗅ぎつけた少女たちは、我先にと窓の外に顔を出した。
「あ、時任先輩だ」
一年生の間でも時任ひかりの知名度は凄かった。
夏休みが終わってすぐに、インターハイの成績で表彰されていたこともある。
しかしそれ以前に、あの少女漫画のヒロインさながらの容姿に、男子のみならず女子からも少なからず人気があったのだった。
「先輩が見てたのって、時任先輩なんでしょ」
女子生徒の一人がニヤニヤしながら訊いてきた。
島田は誠司が怯んでいるのを見て、いやらしい笑いを口元に浮かべた。
「へーそうなのか? 全然気付かなかったなあ」
それはそれはわざとらしく、必死で無視しようとする誠司を島田はあおった。
「そう言えば高木先輩って、前からキャンバスのセッティングを窓の近くでばっかりしてたよね」
「そうそう。いっつも私達より先に来て陣取ってた」
「なんだか怪しいな」
多感な年ごろなので仕方ないのだが、この一年生の仲良し三人組は、集まると大概恋の話で盛り上がっていた。
島田はそれを承知の上で焚きつけたに違いなかった。
誠司はあまりの居心地の悪さに耐えられなくなりつつあった。
「さーて、そろそろ帰ろうかな……」
誠司は仲良し三人組と目を合わさない様に気をつけながら、スケッチブックを片付け始めた。
美味しい獲物を逃がすまいと、少女たちは誠司に追いすがる。
「えー。これからいいところなのに」
「先輩もうちょっとお話ししましょうよ」
「なんだか怪しいな」
必死で平静を保ちながら、誠司はもう一度最後に島田をひと睨みして、「じゃ」とだけ言い残して教室を出る。
「先輩が逃げた!」
「やっぱりなにか怪しいわ」
「明日問い詰めようよ」
背後に聞こえてきた声にため息をつきつつ、誠司はひかりの練習が終わる時間まで、どうやって時間を潰そうかと頭を悩ましていた。
夕日の射し込む校舎の玄関を出て、誠司は白いコンクリートの柱を背に耳を澄ます。
しばらくすると、廊下を駆ける足音が誠司の耳に聴こえて来た。
誠司はしゃがんで靴ひもを直す。本当は靴ひもは解けておらず、直す必要などないのだが……。
そして待ち望んでいた涼やかな声が聴こえてきた。
「高木君」
部活終了のチャイムが鳴ってからしばらくして校舎を出て来たひかりは、髪を後ろに括ったままで誠司のもとに駆け寄ってきた。
「今日は少し早かったんだね」
誠司が放課後美術部に顔を出すようになってから、何故かタイミングよくひかりと下校時刻が重なっていた。
だが実際は、ひかりは練習が終わると猛ダッシュして、誠司の下校するタイミングを見計らっては、偶然を装って一緒に帰っていたのだった。
そして今日も猛ダッシュしたせいで、括った髪を戻すのを忘れていた。
今日は誠司の方が図書室で時間を潰して、ひかりの出てくるタイミングに合わせた感じになっていた。
「あ、時任さん。また一緒になったね。すごい偶然だね」
しらじらしい感じになっていないか気にしながら、誠司は今帰ろうとしていた感を出してみた。
「うん。すごい偶然。もう四日も連続だね」
もしここに事情を知る第三者がいたとしたら、お互いのしらじらしさに赤面しそうだった。
そして誠司は、ひかりが現れてすぐに気付いたことを口にする。
「今日は幅跳びの時の髪型なんだね」
もじもじとそう言った誠司の言葉に、ひかりは「アッ」と言って後ろ髪に手を伸ばす。
「わすれてたー」
ひかりは括っていたゴムを外し、艶のある長い黒髪を手櫛で整える。
ふんわりと香った夏蜜柑の香り。
誠司はつい深く吸ってしまう。
「何だか恥ずかしい……」
並んで歩きながらひかりは少し頬を染めた。
ひかりは照れ笑いしたが、制服姿で髪を括っている姿は誠司にとって滅多に拝めないお宝だった。
もう遅いが、指摘しないでそのままもう少し眺めていればと少し後悔した。
夕日が照らす緩やかな傾斜の並木道を、二人は影を落としながらゆっくりと歩いていく。
ぎこちない二人の会話はそれほど弾むことはないものの、二人の距離を少しだけ近づける。
今日あった一日のこと。
誠司とひかりは、お互いに相手がどのような一日を過ごしたのかを聴くのが好きだった。
こんなに君の近くにいられるなんて。
誠司は夕日が照らし出す可憐な少女を、夢の様な気持ちで時々見る。
じっと見つめていたいけれど、そのような勇気を誠司は持ち合わせていなかった。
ひかりはそんな誠司の視線の先で、茜色の空を見上げる。
「明日もきっといい天気だね」
「うん。そうだね」
並木道の先の停留所で、タイミングよく入ってきた市バスに二人は乗り込む。
ひかりが降りる停留所までの間、二人は狭い二人掛けの席に腰を下ろしてほんの少しのおしゃべりをする。
時折肩が触れる度にどうしても意識してしまう。
そうしている間にも、さよならが近づいてくる。
「もうすぐ右手の包帯取れそうだって言ってたね」
ひかりは誠司の痛々しい固定具のついた右手に目を落とす。
「うん。今度の週末。父さんと病院に行ってくる」
「良くなってたらいいね」
「そうだね。ありがとう」
そしてバスが減速し、ひかりが席を立つ。
「高木君、また明日ね」
「うん。また明日」
そうやってまた会える約束をするかのように、バスを降りていくひかりを見送る。
そして誠司はまた明日が来て、何気ない約束が叶うことを願ってしまうのだった。
誠司を乗せたバスを見送った後、ひかりは暮れて行こうとする空を見上げながら帰路につく。
高木君の手、良くなってたらいいな……。
そう願いつつも、ひかりの胸には言い表せない複雑な気持ちが浮かんできていた。
大怪我を負ってしまったことで親しくなった、あの優しい笑顔を浮かべる少年と自分のこれからの未来について、どうしても考えてしまうのだった。
ひかりは頭に浮かんでくる余計な考えを振り払うように、頭を何度か振った。
「高木君の手が良くなっていたらそれでいい……」
小さく呟いたその言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
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