第5話 勇気
誠司とひかりは市バスに揺られて、美味しいと噂の店のある駅前までやって来た。
たった三つしかバス停の区間を乗車しなかったが、狭い二人掛けのシートに、誠司とひかりはお互いの近さを意識せずにはいられなかった。
あまり気の利いた話もできないまま、今も緊張して駅前通りを肩を並べて歩いている。
しばらくして、誠司は予め調べていた可愛い雰囲気の店の前で足を止めた。
「ここだよね」
「うん」
以前ひかりが部活の友達から、美味しいと勧められた店だった。
「俺、こういう店、あんまり入らないから緊張しちゃうな」
誠司は素直に打ち明けて、恥ずかしそうに笑った。
「私も高木君と一緒」
ひかりもつられて笑顔を見せる。
ゆっくりと白いドアを押して店内に入ると、よくエアコンが効いていて、汗ばんだシャツがひんやりと心地良かった。
そして店の中いっぱいに甘い匂いが立ち込めている。その匂いだけで今から口にする物の美味しさを測れそうだった。
奥にいたにこやかな女性店員に声をかけられて二人は席に着く。
店内は殆どいっぱいで、席に座れたのは幸運だった。
「ついてるね。最後の席みたいだよ」
「うん。良かった」
二人は窓に近い二人掛けの席に座って一息ついた。
店員が運んできたテーブルの上のグラスに二人は手を伸ばす。
そして二人とも冷たい水を半分ぐらいグッと飲んだ。
「私、喉乾いてて」
「そう。喉乾くよね」
八月の暑さと過度な緊張で、二人の喉はカラカラだった。
そして誠司が手に取ったメニューを二人で一緒に見る。
ひかりはすぐに感嘆の声を上げた。
「これすごい」
ひかりはメニューの写真を見て目を輝かせる。
宝石箱のようにフルーツが散りばめられた二段のパンケーキに熱い視線を注いでいる。
「ホントだ。なんだかひときわキラキラしてる」
「そうなの。美味しそうというかメルヘンチックというか……」
「じゃあ時任さんはそれでいい?」
「いいのかな……」
ひかりはキラキラしたパンケーキの写真に惹かれながらも、遠慮しているみたいだった。
「勿論だよ。じゃあ俺はこっちかな」
誠司はもう少しシンプルな、チョコレートソースのかかったものを選ぶ。
「それとアイスコーヒー。時任さんは?」
「私は、えーと、わあ、いっぱいある」
ひかりは無邪気にどうしようか迷っている。
誠司はそんなひかりを見て、何をやっても可愛い人だとつくづく感心してしまう。
「私、これにします」
そう言ってピンク色のソーダを指さした。
「ピンクグレープフルーツソーダだね。注文するね」
注文し終えて一息つくと、誠司はまた一口水を飲んで喉を潤す。
向かい合わせに座るひかりを、どうしても意識してしまう。
気を紛らわそうとして何気なく周りを見まわすと、あることに気付いた。
この店、カップルばっかりじゃないか……。
二人掛けの席が異様に多い。みんなデート中といった感じのカップルばかりだった。
誠司はチラリとひかりの様子を窺う。
どうやらひかりもこの店の雰囲気に気付いたようだった。
なんとなく二人は落ち着かない空気になってしまう。
お互いに目が合うと、二人ともえへへと微妙な笑顔を浮かべた。
「ちょっと思ってた感じと違うけど、あんまり気にしないでね」
誠司は小さな声で、なんとなく落ち着かなさそうなひかりを気遣った。
「ううん。私、全然気にならないから大丈夫」
そう言って両手を振ったひかりは、どう見ても内心めちゃくちゃ気になっている様にしか見えなかった。
そしてこの時、二人とも同じことを頭に思い浮かべていた。
なんだかデートみたい……。
二人ともどきどきしていた。
注文したパンケーキが運ばれてきて、やっと気持ちをそちらに逸らせることが出来た。
ひかりは自分の注文したものに手を付けず、誠司の前に置かれた皿に手を伸ばす。
「食べやすいように、先に切ってあげるね」
「あ、ありがとう……」
片手だけしか使えない誠司の代わりに、ひかりはパンケーキにナイフを入れて食べやすい大きさにしていく。
「これぐらいでいい?」
「うん、ごめんね。気を遣わせて」
ひかりの顔をじっと見つめていた誠司は、さっと視線を皿に戻す。
戻って来た皿のパンケーキには優しい切れ目が幾つも入っていた。
そして、やっと自分のパンケーキにナイフを入れ始めたひかりに、また胸の奥が熱くなってしまうのを誠司は感じていた。
フォークの先にある柔らかなパンケーキがひかりの口の中に消えていった。
口の端にほんの少しだけ生クリームを付けたまま、ひかりは目を丸くした。
「なにこれ。すごいおいしい」
ペロリと唇のホイップクリームを舐めとってから、ひかりは不思議そうにパンケーキをじっと見つめる。
「どうやって作ったらこうなるの? 魔法?」
想像以上に喜んでくれているひかりに、誠司はこの上ない幸せを感じてしまう。
そしてどのくらい美味いのか、誠司も一口確かめてみる。
口に入れたパンケーキの生地が舌の上でフワッと溶けた。
「ホントだ。時任さんの言うとおりだ。来た甲斐があったね」
「うん。誘ってくれてありがとう」
もう一口、フォークの先のパンケーキがひかりの口の中に消える。
んー、と唇を結んで、ひかりは幸せそうに目を細めた。
美味しいものを食べた時はこんな表情をするんだ……。
誠司はそんなひかりの特別な表情に目を奪われてしまう。
想像すらしなかった憧れの少女との特別なひと時が、今こうして現実に起こっているのだとあらためて気付かされた。
「良かった。時任さんに気に入ってもらえて」
「うん。幸せ。いつも体重のこと考えて、甘いもの控えてるから余計に美味しいのかな」
幸せそうにパンケーキを口に運ぶその可憐さに、誠司はあまり見過ぎないようにと気をつけていたのに見とれてしまっていた。
「あの、ひょっとして、甘いもの体重のこと考えるとまずかった?」
誠司はアスリートの一面を持つひかりのことを気遣った。
「ううん。いいの。明日はその分練習するから。私、気を抜くとすぐついちゃう方なんだけど、楓はいくら食べてもぜんぜんつかないの。不公平でしょ」
「楓ちゃん?」
「うん。私の友達。同じ幅跳びしてる子なの」
「へえ、でも時任さんすごくスマートだと思うけど」
「うん。頑張ってるの。大変なんだよ」
ひかりは誠司にいっぱい話した。
部活のこと、友達のこと、今まで頑張ってきたこと。
主に自分がずっとやってきた幅跳びのことをひかりは楽しそうに語った。
誠司はひかりのことをもっともっと知りたいと、楽しそうに話すひかりを時間を忘れて見続けた。
ずっとこうしていたいな。
誠司はこの目の前ではじける笑顔を見せる可憐で可愛らしい少女をもう放したくないと願ってしまう。
美味しかったはずのパンケーキ。後でその味を思い出そうとしても、きっとこの目の前の少女のことばかりが浮かんでくるのだろう。
窓から見える外の明るさがまた少し弱まる。
ゆっくりと、そして留まることも無く、時間は流れてしまうものなのだ。
「やだ、もうこんな時間」
ひかりは壁に掛けられてある時計を見て、びっくりしたような顔をした。
「自転車取りに高木君の家に戻らないといけないから、そろそろ帰らないと」
二人はお互いに、この甘い香りの漂う店内で、まだもう少し同じ時間を過ごしたいと思っていた。
いつの間にかまばらになり始めた店内で、名残惜しさを小さなテーブルに残したまま二人は席を立った。
ふと、誠司は席を立った何気ないひかりの姿を、じっと見てしまっていた。
また来ようよ。もしそんな風に言えたなら。
誠司は包帯が巻かれた右手に目を落とし、少し首を横に振った。
きっと手が良くなればこのような時間は終わってしまうだろう。
いつしか焦がれるようになってしまったこの少女のいる未来に、手が届くことは無いのだと言い聞かせる。
そして甘い匂いのするこの場所で、特別な人と過ごしたひと時を、最後に目に焼き付けたのだった。
店を出て二人は並んで歩く。
日が傾いて少し暑さが和らいだ時間帯。店に入る前よりも駅前に人通りは多かった。
ひかりは横を歩く誠司を見上げる。
「ご馳走様でした」
「どういたしまして」
ほんの少し火照った様な二人の頬は、あの空調の良く効いた店を出たせいだけではないのだろう。
「なんか、あっという間だった……」
並んで歩きながらひかりはそう呟いた。
「そうだね。気が付いたらこんな時間だった」
「ごめんなさい、私ばっかりしゃべっちゃって」
ひかりは少し反省していた。よく考えたら誘ってくれた隣を歩く少年はそれほど話してなくて、いつの間にか自分が話すのに夢中になっていた。
おしゃべりな子だって思われたかな……。
さっきまでいたパンケーキの店のようには話せずに、二人はお互いの近さを感じながら帰路についたのだった。
茜色だった空がまた色を変え、ゆっくりと夏の一日が過ぎゆこうとしていた。
ひかりはほんの少し顔を上げて、まだ明るさの残る遠い空に目を向けた。
「もうすぐ日が落ちそう」
二人の頭上には少しずつ明るい星が見え始めていた。
マゼンタから深い紫色に移り変わろうとしている美しい空は、こんな特別な一日の終わりにふさわしかった。
「ごめんね遅くなって」
黄昏時を少し過ぎて誠司の家に戻って来た二人は、この特別な一日の余韻に少しのぼせている様だった。
「ううん、まだ明るいから大丈夫」
ひかりはゆっくりと自転車のスタンドをあげる。
そして今日のお礼を言っておきたくて口を開きかけた時に、僅かに早いタイミングで誠司の口から声が出た。
「あの、時任さん」
先に口を開いた誠司に、ひかりは言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
しかし声を掛けた誠司は、なんだか言いにくそうにそのまま口ごもる。
「どうしたの?」
ひかりは自転車に乗らずに誠司の言葉を待つ。
躊躇いを隠せず、なかなか思いを口に出せない目の前の少年を、ひかりはゆっくりと待ちたかった。
夕闇が迫る中、その躊躇いが言葉になるまで待ってくれている少女の気持ちに応えるかのように、やがて少年の口から今日最後の勇気が溢れだした。
「宿題終わったけど、その、もし予定がなくて、すごく暇で、何もすることがない時でも良かったら……」
少年はどうしても伝えたい最後のひと言を言葉にしようともがいていた。
ひかりはそんな必死さに応えたくて、はにかむような笑顔を見せた。
「私、またここに来たい」
誠司の必死さに手を差し伸べる様に、ひかりの唇から一言が滑りだす。
誠司は口を開いたままひかりの言葉を受け止める。
「部活のある日は難しいけど。私、何かできることがあったら高木君を手伝いたい」
ひかりが頬を染めていることを夕闇の迫った蒼が隠してしまう。
「いい……かな……」
最後の言葉は蚊の鳴くように小さかった。
今日最後の勇気は誠司ではなくひかりのものになった。
「ありがとう……また時任さんに甘えてしまうね」
ひかりに助けられ、思わぬ返事をもらえた誠司は胸に手を当てて深い息を吐いた。
安堵の表情を浮かべる少年と同じように、少女も内心ほっとしていたのだ。
ひかりはそのまま自転車に跨った。
「今日はありがとう。すごく楽しかった」
さよならの代わりに「またね」と言い残し、少女は特別な一日を惜しみながら少年と分かれた。
ひかりは頬にあたるほんの少し涼し気な夕方の空気を感じながら自転車を走らせる。
もうすぐ夏が終わるんだな。
まだ薄明るい高い空。ひかりは夏の残り香を胸いっぱいに吸い込んだ。
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