第58話 8回裏 白球の罠⑤

《青海視点》


『白球の罠』


   *


  俺「地味に地道に」

  夙夜「公式戦に限っては泡坂さんと置鮎さん、両名が登板しているすべての映像を入手しこうして通して観ましたが」

  俺「弱点らしい弱点は発見に至らず……」

  夙夜「青海と接戦を演じている間はこの二人さえ攻略すればいい。球種ごとの投球割合や投げるコースのデータは得られましたがその程度の調査、過去の対戦相手もしていますね」

  俺「同じデータから違うやり方を見出すのが頭脳の違いだけど……もっとこう即物的にさ、抜本的にさ、『球種ごとの投げるときの癖』がわかったら勝確かちかくだったのに」

  夙夜「あの人たちも人間です、投球時に癖がでて打たれることもありましたが……」

  俺「今村がすぐさま見抜いて修正させてたし、点差に余裕があるときはわざと打たせて自分から気づくまで待つこともあった。それであんな好成績残してんだから頭が痛くなるね」

  夙夜「今村さんの観察眼には要注意ね。味方の癖を見抜けるということは、桜君と片城君の癖を見抜いて狙い撃ちにする可能性もある……。結局何十時間もビデオを見続けたことは無意味だったかも……しれない」

  俺「俺はそう思わないよ。なんとなぁくだけど、睡魔と戦いながら観たこたぁ無駄じゃなかった気がするのよね」


   *


 堂埜の選択はまさかの『泡坂再臨』。

 レフトからピッチャーのマウンドに復帰した泡坂が投球練習に入る。の様子を平等に見守る俺。

 いつまでも置鮎の監督への嫌悪感をレクターよろしく摂取している場合ではない。5度目の対決に集中しなければ。

 ……試合再開。

 エースがマウンドに上がるということは、俺を敬遠する選択肢はないということ。

 苦笑しながら俺は打席に入る。

「最高のコーヒーでも立て続けに5杯は飲めないな」

 俺コーヒー飲まんけど。

「こいつ……っっ」

 2年生打者をいさめようとした今村だったが、俺の横顔を見た瞬間、彼の表情は凍りつく。

(俺はこいつに負けたことがある!!!)

 今村の脳内にある記憶が雪崩れこんでくる。


   *


 4年前のあの日。


 今村萌は完全敗北を喫した。

 青海大学付属中等部、軟球でプレーする部活動の野球に、

 硬球でプレーするシニアのチームが硬球で練習試合を行いそして負けたのだ。

 当時まだ12歳の屋敷慎一に。数週間後に野球を辞める打者の『魔性』に敗れ去った。

 4回表、今村は先頭打者を不運な当たりで出塁させてしまう。

 送りバントを狙う2番打者国枝は、今村が2球目に投げた曲がるボールをバットに当て損ね指にぶつけてしまう。負傷した打者はそのまま退場し病院に送られることになる。

 ベンチから代打が送られた。-S《2》のバッター不利な状況を引き継ぐことになるその打者こそが『屋敷慎一』。身長150㎝程度の小柄な少年がゲームに登場する。

 すでに3番泡坂、4番風祭との対戦に意識がむいていた今村はその打者を見て驚く。

 その少年の〈意〉を読みとることができない。

「……せやけど」

 気にすることはない。すでに2ストライクに追いこんでいるのだ。有効領域ストライクゾーンで勝負する必要はない。このバッターはほぼ確実に打ちとれる。

『正着』の配球であるアウトコースに逃がしたカーヴを、

 振りにいった屋敷、大きく左足を踏みこみ、

 遅いスイング、フォローが途中から左手一本になるほどの『当てただけのバッティング』、

(よぉ当てたけど100パーファウルや)

 余裕をもって振り返った今村は眼を細める。レフト前にボールが落ちていた! 浅く守っていた外野手がファウルゾーンを転がるボールを追いかけている。

 状況は無死1、3塁に悪化した。

「逃げていくボールにバットで回転をあたえ落ちる位置を調整した?」

 今村を含めシニアチーム全員が驚愕した屋敷慎一のこの技巧は、青海野球部にとって日常にすぎない。プレーが止まると屋敷に対し味方ベンチから野次が飛ぶ。

「うっせえおまえらあいつからまともなヒット打ってなかっただろ!! いい加減俺を認めろよ!!」

 ライトが打球を誤りライト線のファウルゾーンに転がっていった。1塁に止まらず2塁まで進むことができたはずの屋敷の怠惰な走塁が責められ、今村のボールを打ったことなど少しも褒められていない。

 誰も相手エースのことなど見ていなかった。

 3回まで無失点に抑えてきた今村の好投もここで終わる。青海の止まらない連打。

 センター越え権利付与エンタイトルツーベース、ライト線スリーベース、センター前ヒット、ライト線ツーベース、センター前ヒット、レフト前ヒット、レフト前ヒット、ライト線ツーベース。

 10連続被安打。

 今村はワンアウトも奪えないまま降板した。

 終わってみれば4回途中9失点の大炎上、

 ベンチに下がりチームの敗戦を見守るしかなかった。


 この日今村は投手としての自分の才能を見限り捕手に転向、1年後の青海への推薦入学を志望するようになり、


 屋敷は野球に見切りをつけ違う競技に転部することになる。


「俺の顔になにかついてる? イケメンついてた?」

「どうしてあの日のことを忘れてたんや? ……俺はおまえに打たれた。打順が1巡しておまえに2度目の打席が回ったそのとき、ベンチに降板を志願したんや。

「ごめん、覚えてない」


(忌まわしいのは、泡坂が屋敷に打たれることやない。忌まわしいのは俺自身が屋敷に打たれた記憶を四年間封印し、今日奴に勝つための最善手をとるための準備を怠ったことや)


 心的外傷後ストレス障害PTSDという表現は言いすぎか。

 敵と味方の〈意〉を見る今村の能力は、自分自身にむかって使うことはできなかった。

 今村は無意識のうちに俺から逃げていた。

 俺というバッターをキャッチャーとして観察しきれていない。だから過去4打席俺から被安打を許してしまっているのだ。

 泡坂は今も俺から逃げていない。

「今度は絶対に」

 チームのために今こそ屋敷慎一を抑える。

 シングルヒット一本で勝ち越しのランナーが還ってしまういまこそ。

 スタンドで見守る部員、生徒、選手の家族、大勢のファンが手を組み祈る。宗教的な光景ですらある。

『絶対』は我らだと。

 おおきく振りかぶるエース。

『10割』が泡坂の投球に襲いかかる。

 投げられた、遅いカーヴを、俺は待って待って打とうとするもスイングをキャンセル。

っ」

 俺は右手でバットの真ん中をつかみ見送った。

 外に決まってストライク。

「やるじゃない」

 ランナー有りの状況であえてワインドアップすることで、スピードボールがくると思わせた。

 今までで一番遅いボールだった。目先を変えてきたな。

「ひょっとしてサインだしてるのベンチ? 堂埜は現役時代キャッチャーだったよね」

 今村は俺ともう会話をしない。わずかに震えながらベンチを見ている。

 どうやら図星のようだ。

 次弾。低めにきたカットボールを痛打。

 真下に打ち下げられた打球がピッチャーの前に転がる。

 これを拾った泡坂は――

 ゴロを打ったのではない。自打球だ。

 ――今村に投げ返す。

 左足の甲にぶつかったが痛みはない。思ったよりボールが浮かなかった。今のは失投っぽい。

「楽に打てるボールだった、もったいないねぇ。それはそれとして2スト。けっこうピンチか?」

 後輩たちがここまで懸命につないでくれたのだ。俺が打てなかったら困ったことになる。

 ベンチの堂埜は前のめりになって頭をふりしぼっている。まるで自分がプレーしているみたいに汗だくで。

「若者が成長している機会を奪っていると気づかない老害だな。。有能だと思った俺の判断は誤りだった。どこにでもいる無能だなあいつ」

 堂埜はサインを出し終わった。

 それを見た今村が、泡坂にサインを送る。うなずく泡坂。コースはともかく、 。決め打ちで外野まで飛ばせば俺たちの勝ち。

 投球モーションにはいる泡坂。

 ここまで無反応だった今村が電撃を喰らったかのように頭を揺さぶる。

(!! こいつ、投げるボールがわかっているのか!?)


 泡坂は俺と対戦しているときに限り癖がでる。俺個人への意識が強すぎるのだろう。他の打者と対戦しているときはその癖が消えているのに。

 球種ごとの違いは俺にしか判別できない。ストレートのテイクバックにスピードがつきすぎるとか、

 フォークを投げるときは握りを確かめるためにグラヴの位置が数センチ高くなってしまうとか、そういった些細な手がかりから球種がわかる。

 くるボールさえわかれば狙い撃ちにできる。

 確実に打てると断言はできないにせよ、泡坂の各球種のコンビネーションを無効化し、スピード差も変化量も無視し一つのボールとむきあうことができれば、

 この決戦においてさえ10割を継続できる。

 相手のミスに乗じるなど勝負においては当たり前の行為だ。相手にない武器を手にし実戦に投入し好成績をものにする。ゲームを進化させてきたのは知と無知の非対称性である。

『正々堂々』とかどこの国の言葉だよ。

 気づかないおまえら青海関係者全員が悪い。

 俺は卑怯にも相手の投げる球種を察知したうえでバットを振る。

 泡坂の左足の動きにシンクロし(合わせ鏡のよう)自分の左足を蹴る。

 投球直前、泡坂の左腕がやや高い。シュートだ。泡坂が気付いているのならその動作自体をフェイントに使うことも考えられたがそれはない。

「球けがれなく――」

 手元にむかって喰いこんでくる121㎞/hのシュートを、

 強制流し打ち、ライト前に速い打球を落とした。

 桜が還ってくる。勝ち越しタイムリー確定。俺は1歩、2歩と1塁ベースに向かって駆けだしたところで転ぶ。

(あの自打球か!)

 神経伝達物質アドレナリンが切れ左足の痛みが襲いかかってくる。

 それでも立ち上がり、これまで公式戦で30回踏みしめてきた白い強化ゴム製のベースに触れようと、全身で駆動することを再開する。

 風祭が叫んでいる。

 ライトが1塁に送球する光景が俺の眼に映った。

「道険し?」



 そのとき右翼手ライトを守っていた青海大学付属高校野球部三ツ谷たかふみ選手(3年)はのちにこう語っている。

「間違いなく人生最高のプレーでした」


「中学でも全国でプレーして、もちろん甲子園、それに大学でも野球は続けますよ。でもきっとあのときの守り以上の瞬間は訪れないんじゃないかな。自分が野球をやっていた意味が理解できた瞬間でした。屋敷を自分の送球で仕留めたんですからね……」


「少し浅めに守っていましたが、ダイレクトでキャッチできないことはわかってました。屋敷の打球ですからね。あえてスタートを一歩遅らせ、最高速でキャッチして、動作を止めずにそのまま送球につなげました」


「最初から狙ってたんですよ、ライトゴロを」


「屋敷がつまずいてるのは見えなかったな。風祭が俺にむかって投げろと叫んでいた。俺が投げるのとほとんど同時だった。きわどいプレーになるかなと思ったのは投げたあとで……風祭がキャッチしたあと、審判が手を挙げているのが見えてやっと実感しました。アウトになったんだと。観客もなにがあったのか最初はわからなかったみたいで、少しずつとまどう声が大きくなって、それからどっと気が触れたみたいに盛り上がって……不思議な気持ちのままベンチに引き上げました。あのときはもう、点差もアウトカウントも誰が投げてるかもよくわからないままプレーしていました。それくらい異常なイニングでしたから……」


「ビデオで見返すとあのプレーは俺と風祭の合作だったと思います。俺の思い切りのいいスローイングと風祭のキャッチング。風祭は他のポジションもやるから本職のファーストとはいえないんですけれど、あのときはライトからきた送球を足曲げて最短距離で捕ってました。難しいところにいったのに簡単に捌いて、ミットを浮かせる『残心』、すぐに審判にアピール……。パーフェクトなキャッチング、演技力こみの守備だった。今見たらあざといプレーですけれど」


「映像では屋敷の足と完全に同時に見えますけれど、ともかく審判の方が『アウト』と言ったらそれが判定ですよ。覆りはしない。風祭のキャラクターがアウトにさせた、みたいなところもあるんじゃないですか? 人間性でうちのキャプテンが勝ってたんですよ」


「屋敷のことはみんな嫌ってなかったんじゃないですか? 頼りになる後輩だった。あのまま青海の野球部に残っていたらどんなチームになっていたか……。あいつこそ本物の天才だった。走塁さえしっかりしていればとんでもない選手になるってみんな言ってたんです」


「皮肉にもその走塁で失敗し勝ち越しの7点目を奪えなかった」


「屋敷との対戦に限って泡坂に癖が出てしまっていた……そのことに試合中気づくことができなかった俺たちにも責任があります。うちの投手は失点の責任を背負いたがるんですよね。そんなの嘘だと思います。ピッチャーの失点は俺たち全員の失点ですよ。ディフェンスの対応次第でどんな打球もアウトにできるはずじゃないですか。もっと俺たち守備陣を頼ってほしかった。そんなこと言っても仕方ないですけれど」


「そうですね。俺たちの世代のチームにかけられた圧力は並じゃなかった。大会で残した成績もそうだし、泡坂みたいな高校生なのにとんでもない知名度の選手が所属しているわけですし、おかしなことにもなりますよ。今まで学校の施設に侵入して捕まった奴が3人もいますしね(笑)、いや笑い事じゃないか。遠征先のホテルの周辺にファンがいっぱいいて夜中まで騒がしい。青海フィーヴァーの真っただ中にいた二年間でした」


「『俺たちは野球がしたいだけなんだ。競技だけに集中させてくれ!』って言いたくなりますよ。でも俺たちは無敗の青海に所属したことで恩恵を受ける側の人間ですからね。利益だけかっさらいたいなんて傲慢ですよ。不利益なことからも逃れられない。プロ入りしない奴らも進学や就職で有利になりますし、青海にいたって事実だけでモテますしね。みんな有名税は受け入れるつもりです」


「この1年間大会ではほとんど毎試合大差をつけて勝ってましたけれど、『勝って当たり前』って空気はナーバスになりますよ。大会の前後はテレビをつければ俺たちの特集ばかりされて、雑誌も新聞もネットもSNSも青海一色。他のチームなんて申し訳程度にしか紹介されない。俺たちだけが注目の的。甲子園4連覇っていうのはそういうことですよ。他にもプロ注目の高校生がいるのに、うちの5人に比べたら


「青海はときどき練習中に試合中の音声をスピーカーで流すんですよ。うちが大会で珍しく苦戦した試合の音声です。わかります? その試合は会場全体が相手側を応援するような異様な空気で……。絶対王者青海が負けそうになったらまた観客が相手側を応援するに決まっている。こっちがリードされているとき、青海の攻撃中だっていうのに相手に声援が飛ぶんです。わかりやすいですよね。青海は悪役ヒールなんですよ。俺たちがどんだけマジメな高校球児を演じても無駄なんです。一番強い奴は『一番強い』ってだけで嫉妬の対象になるんです。どれだけお行儀よくしててもね。開会式や抽選会で知ってる奴らと会っても口利いてもらえないんですよ」


「決勝のことですね。あのゲームは途中から……なんていうんですか? 。両チームに個性あるすごい選手が集まっていたのに、ゲームのもたらすプレッシャー、予想外な展開みたいなものがわあっと襲いかかってきて、状況を制御することができなくなってしまった。勝利への渇望だとか、選手としての成長だとか、プレーを楽しむだとか、そんなものが消し飛んでしまい、対戦相手の前に野球という競技そのものと対決することになった、みたいな?」


「たくさん練習するから戦術的なプレー、技術的なプレーを本番で再現できる。それがスポーツじゃないですか。でも途中から両チームともそんな当たり前のことができなくなったんですよ。原始的な戦いになってしまった。屋敷の凡退アウトはその象徴でしょう」


  青海00000006 |6

  松濤00000006 |6


 屋敷慎一第5打席結果:ライトゴロ

 連続打席ヒット記録は30でストップ。

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