第57話 8回裏 白球の罠④

《松濤視点》


『纏』

「ホームラン!」

 打球は――右方向に流れ――ライトポールの右1メートルという位置に突き刺さった。

「じゃなかった!」

 3塁コーチャーをしていた俺は飛び上がって喜んでしまったが未遂。

 逸乃の同点ホームランは幻と消えた。

 嵐のような歓声は一瞬で吹き荒れ、一瞬にして凪いだ。

 救援リリーフしその初球を女性選手に捉えられた久世の心境はいかに。

 比叡は言う。

「私たちの世代で間違いなく最強ピッチャーよ。シニアの全国大会で対戦して3三振だったもの。もっとも試合は私たちの勝ちだったけれど」

 勢源が補足する。

「ランナー3塁に置いて暴投サヨナラ負けだったな。いくら才能があるっつってもこの窮地に1年に任せるとはな。置鮎になにかあったのか?」

 華頂は逸乃の表情を観察している。


   *


「私は逸乃の兄だ。5つ年下の妹が野球部でなにをしているのかが気になって毎日監視してたんだ。なにか文句でもあるのかね?」

「ありませんけれど?」

「私たち一家はみな芸術に関わる仕事をしている。芸術家アーティストなのだよ。美を理解しない庶民と混じって野蛮なスポーツになど現を抜かして……父は藝大の教授、母はマンガ家、そして私は見てのとおりモデルをやっている!」

「見てもわかりませんでしたけれど?」

「そんな一家に育った感性に優れた妹がどうして野球を……野郎どもに交じって汗水流して……将来のことをもっと考えてもらいたいものだ」

「そうですね、そう僕も思いますが?」

「君もそう思うの? というかなんで疑問文みたいな話し方をするのだね……逸乃はだね、小学生のころなんとかという野球選手に夢中になったんだ。今は現役の選手ではないというが、それは有名な選手でね、スタープレイヤーとでも言うべきか……君も知っているかもしれない

「きいてもいないのに語りだすんですね?」

「妹は彼の真似ばかりするようになって、しまいには野球を始めるようになったのだよ。ポジションは外野ではなくショートだが。あんな小さくて可愛らしい生き物が夢中になって……。私は野球が憎い」

「はい?」

「確かに妹があこがれているという選手のプレーは優美だった。だがしょせん男の世界だ。彼女の人生になんのプラスがあると思うね?」

「人生は損得勘定なんですか?」

「だがここしばらく観察している限り、このチームは……悪くないんじゃないのかね。打倒セイカイとやらを掲げ本気になっているとか。いいことじゃないか! 応援するよ」

「無理です?」

「どうして君があきらめるんだね!? そんなことでは逸乃にも悪影響が……」

「僕はあの人が嫌いですから? それに逸乃さんに素敵な家族がいると知ってショックを受けました。あの人は僕と同じ側だと思っていたのに……結局言葉だけなんだ。家族の反対を押し切って上京したとかなんとか」

「実家からここまではかなり遠いからね。僕も同じマンションに住んでいるから親元を離れて暮らすことができているんだ。それより君の話していることをきくと、逸乃とはかなり親しいようだが……」

「あの人のことですか? 僕に勝手につきまとってくるんですよ。止めてもらえませんか?」

「な、なにを言うのだね君は……」

「僕は被害者なんです。あの人ほら、すごく考え方がすごくポジティヴでしょう? 自分に不可能はないみたいな口ぶりで。――」


   *


 2分間。


 逸乃は久世が投げるボールを4球続けてファウルした。

 久世の球種はストレート、スライダー、チェンジアップ、カーヴ。

 ストレートはあまりコントロールが良くない。スライダーは2種類、速く小さく曲がるものと、ブレーキが利く大きく曲がるもの。チェンジアップとカーヴはコントロールが利く。

 球速は1年生ながら140㎞/h半ばに達している。その速さがイメージとしてあるが、本質は変化球ピッチャーだと勢源は分析していた。同学年にはまともに打てるバッターはいないだろうと。

 そのスライダーをカットし続けている逸乃。

 本人にも投げわけ不能のスライダー、どちらがきても対処してきた。

 相手は同学年の女、どのピッチャーも相手を格下とみなすだろう。

 今村がサインを送る。少し間を空けて投手が首を縦に振る。

 6球目の球種は……、

「気づけよ逸乃……」

 久世が送られたサインに対してうなずくのが遅かったということは、

 高めのボール、逸乃はスイングしにいかない。見送ってボール。

 これでワンボール。

「久世は意地になってスライダーで仕留めたかったんだろう。高めの釣り球に反応なし」

 今村は1球でも早く打ち取りたかったはずだ。後続のバッターが久世のボールの動きを観察している。

 不気味……。

 遊び球はなしだ。怖い打者ではあるが、

 7球目、アウトコースにドロンと落ちるカーヴ、逸乃はひっかけるが無理やり引っ張った!

 セカンドゴロ、慎重にさばく野手、全力疾走するも間に合わない。その間にランナー勢源が3塁へ進んだ。

「内容は悪くない。最低限、どころかマウンドに上がったばかりのピッチャーの決め球を4回も見せたんだ。満足してもいい」

 彼女は思いつめた顔をして次の打者片城の元へ駆け寄る。

「見ましたか?」

「素のキャラが出てますよ逸乃さん。ストレートのあとにスライダー4球、そのあとはストレート、最後はカーヴですね」

「無駄にしないでね、私の打席」

「僕と桜君で試合をひっくり返します。あとは任せてください。プレッシャーはこの鍛え上げられた分厚い胸板で受け止めてみせますから」

「全然筋肉ついてないけど……」

「正直早く横になりたいです(疲労)」


『自分を消した男』

 片城がバットを構える。


   *


「一振りで屠るしかありません。長い都大会の決勝戦の終盤ですよ。一般人の僕にそんな体力ありません。ベストスイングは1回が限度、ベストスイングじゃないと久世君のボールはヒットにできない」


   *


 俺と片城の二人は大会中点滴を打つほど消耗していた。夏場の大会はそれほどまでに過酷だ。片城はこの状況を想定し、普段の練習でも打撃練習にかける時間をあえて減らし、一振り一振りを磨きこんできた男だ。窮地にだけ強くあればそれでいいという思想。1試合に1度だけある好機を活かせるならそれでいい。

 その構えが象形するのは『確実性』、『絶対にボールに当てようとする意志』を具現化したかのように、短くもったバットはスイングの途中で固まってしまったかのように、自分の顔のすぐそばに携えられている。

「まるでドス構えたヤクザ」

 あれじゃ大ダメージは期待できない。ゴロが内野のいいところに転がればヒットになる。実際大会中のヒットもそういう形だった。

 迅速な動きを見せる青海の内野陣四人は2歩、立ち位置を前に詰める。

 これで野手間の幅は狭まり、片城にとってのヒットゾーンは狭まる。

 8番打者は単一能、速いゴロを打つしかもとより勝ち目はないのだ。

 片城は――


「僕にとって桜君は良血馬なんですよ。彼の身体能力の高さに賭けた。彼ならきっと中学時代無名でも、高校にいけば活躍してくれる。僕はおこぼれにあずかろうとするハイエナです。だから彼の練習につきあうことにした。中学時代部活にもシニアなどのリーグに所属しないことは逆に良かった。変な指導者にあって潰されるリスクを考えたらそれがベストの選択ですらあった。初めて彼のボールを受けたときからこうなることを望んでいたような……ねぇ君島さん。桜君はあなたの真似事をしてみんなの前では黙るようになったんですよ。不要なトラブルにまきこまれたくないとか意味のわからないことを言って……。ええそうなんです。彼は僕らと一緒のときみたいに笑わなくなった。君島さんのまえでは変わってない風を装っていますけれど。相手が相手ですからね。あの泡坂さんですよ。もう二年くらい思い詰めてるんです。あれはもう世界一になれるかどうかって選手だと思います。史上最高の高校生でしょう。青海高校は彼抜きにしても冗談みたいなラインナップですし……もし仮に都大会を突破して彼らとぶつかったら僕は……勝ち目がないと思ってしまうんです。同学年ならともかく……相手は3年で、余裕をもって勝ち上がってきますからね。どう考えたら勝機が見いだせるか。僕は桜君やチームメイトの足を引っ張りたくない。桜君の夢を邪魔したくない。じゃあなんでついていったのかって話になりますけれど、それは彼が僕の手を引っ張ったからですよ。……ええ、そう君島さんがおっしゃるのはわかります。もっとポジティヴに考えようとは思っていますよ。でも、僕の実力っていうのはその、良くて平均ですよ。高校一年生の男子の平均です。運動部に一度も所属してなかった人間が、これより上がないって相手になにができるのか……そのことはずっと考えています。授業中だって、寝る前だっていつだって……。僕だけの長所は……そんなものがあるとしたら、やっぱり考える力なのかもしれない。チームで一番能力が低い僕だからこそできることがあるはずなんです」

 2球目、ストレートに絞りすべてを賭ける。

 久世の長所は走り込みで鍛えられた下半身。軸足となる右足がマウンドにそびええ立つ。安定した体重移動、鞭のようにしなる剛腕が最弱相手に全力投球、

迎える片城は全身全霊のスイング、

(たとえストレートを読んでいてもおまえには打てへん! 片城っ!!)

 この打席まで捨てていたストレートは、

 片城が長所にしようと専攻していた球種、

 体ごとぶつかっていくようなスイング、激突したボールが転がり、ファーストのミットとセカンドのグラブの間をすり抜け、外野へ転々としていった。

 一塁ベースを踏んだ片城は、3万人が四方八方から発す歓喜と悲嘆に圧し潰されそうになっていた。

「小さな構えから確実に当てにいき、かつインパクトの際すべての力を集約したバッティング、いいものを見せてもらった」

 3塁コーチャーの俺は手を叩き褒めたたえる。


「1点差っ!!」「1点差ァ――ッ!!!」

 

 1塁コーチャーの中原はハイタッチしようとしてきた

「手! 手だよ!! バット持ってきたまま走ってくんな!」

 大仕事をやってのけた少年の右手には、バットが握られたままだった。

「気づきませんでした」

 そう言って片城はバットを手放そうとするのだが、それは貼りついたかのように離れない。

 片城は歯で指をむりやり開き、どうにかしてバットをもぎとった。中原に手渡す。

「初めて人を撃ったガンマンみたいなもんですよ。成し遂げたことが大きすぎる。神宮で青海が相手、これだけ人が集まっているところでタイムリーですからね。今さらプレッシャー感じちゃいました」

「おせえよ。それくらい覚悟して試合に臨めっての……」

 ホームに還った勢源はすでにベンチに引き上げていた。片城を指さす。

 松濤のキャッチャーは小さく手を挙げて応えるのみ。

「できれば目立たない方向でいきたかったんですけれどね」

「アダムとキャラ被るだろ」

 バッターボックスに9番打者を迎える。

「夏休みの宿題は最終日まで残すタイプなんだが……」別に意外性はないぞ桜。「どうやら9回裏は『×』がつきそうだな」

「……ここからは一人も打たせへん」

(『流れ』なんて曖昧なものは認めん。球場の松濤を後押しする声援も関係ない。俺たちは俺たちだ。普段の野球ができていればこないなことにはならんはずや。同じ1年でも久世とおまえたち二人じゃ立っているステージがちゃう!)

 今村は1年生ピッチャー久世に声をかけ、野手たちにアウトカウントの確認、および守備位置の微調整、ベンチからのサインの確認も怠らず、打者・桜の過去のデータをチェックし、走者片城の足の速さも念頭に、そして両者の〈意〉を見切ったうえで、慎重に慎重を重ねたうえでサインを送る。

 スライダーでストライクを奪った久世、大きく曲がったボールをキャッチした今村に、

『油断という怪物』

が潜んでいたと指摘するのは第三者からすれば容易い、しかし片城のタイミングが間隙をあまりにも見事に突いた。風祭の指示の直前に、今村は2塁に矢のような送球、セカンドのタッチ、その前に片城がベースを踏む、際どいが塁審は腕を横に広げる。

「ディ、ディレイド――」

 遅滞型盗塁ディレイドスティール

 キャッチャーが捕球してからスタートを切った! 片城の奇襲に対応できない。

 もはやこの試合に青海の常識は通用しない。松濤が望んだわけではないが、この異常な状況を青海に制することはできない。

 このグラウンドでもっとも足が遅い、そして疲れ切っていた男が走った。2度王者を刺した男がずれたヘルメットを被りなおす。「これで言い訳ができなくなりましたね桜君。もう体力残ってないんで歩いて帰れるのお願いします」

「やるじゃねぇか片城! だがわりー、今の盗塁はムダだ。俺がホームランで逆転させっからよ……!」

 桜はバットの先でホームベースを叩き、そして大きく構えた。



『夏への扉』


   *


「勝つつもりだった」

 そう桜はゲームの数週間後に述懐する。

「俺はすべての対戦で勝つつもりだった。決勝戦のピッチング、全部の打者をブッ倒すつもりだったし、全打席ホームラン狙ってたし……思うままにはならねぇな実際のゲームってのはよ。中学んときのイメージではもっと活躍してるはずだった。5月の練習試合もよ、置鮎相手に投げ勝って、ホームランぶっ放してよ。それが理想だった。現実はあーなっちまったが。全力で戦うことがいい経験になる。そうしねぇと自分の立ち位置がつかめないからな。。この俺ほどのピッチャーが8回途中降板、ヒットもたった1本、打点1とはよ。高1のときの泡坂と比べたらまだまだだ。……いつか泡坂も俺と比べられて困っちまうんじゃねぇか?」


   *


 四球目のインコースに入ってくるスライダーを叩いた。

「格が違ぇんだよ久世」

 左肩にぶつかるほどの豪快なフォロースイング、

 投げだされたバット、

 桜は打球が右翼ライトフェンスに直撃したのを見て「クソッ、これでも入んねぇのかよ!!」と言い捨てる。

 右翼貴船が打球処理に手間取る。ボールを受け取った佐山が三塁へまで一気呵成のスローイング! 無制限の体力を誇る桜が激走し、回りこみ、三塁手のタッチを掻い潜った。セーフ!

 片城がホームベースを念入りに踏みしめている。ピッチャー桜の同点となる適時三塁打タイムリースリーベースヒット!! 試合はふりだしに戻る。青海の勝勢は松濤の手によって引き戻された。


 青海00000006 |6

 松濤00000006 |6


「あーチクショウ!! 8回表さっきのがなければ最高のゲームだったのによ……」

 ベース上に立った桜はスラダンの試合終盤みたいな汗をかいていた。あれだけ投げてあれだけ走ればそうなる。桜はヘルメットを脱ぎ、まずライトの泡坂を、次いでブルペンの置鮎に視線を送る。

「還せよ屋敷」

「あの二人に劣っていないぜおまえ。それはそれとして次の打者なのに準備ゼロだった」

 久世がマウンドを降りる。

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