第55話 8回裏 白球の罠②
《松濤視点》
『火を入れる』
状況は一死一、二塁。むかえる打者は比叡。
キャッチャーの今村はタイムをとりマウンドの泡坂に声をかける。
「すまん。(スピードを殺して)コントロール重視のピッチング試すのは止めよう」
手を縦にして謝る今村。
「まだ無失点だ。焦らなくていい」
「真ん中に全力で投げ自然にバラけさせるスタイルに戻す。2番3番にいい当たりが出たのは――」
「どっちもバットを振り切れてた」
「普通負け始めた『格下』っちゅうのは怖じ気づいて安全策をとりだすものなんやが(恥をかきたくないので無難なプレーに終始する)、あいつらにはそれがない」
まだなにも起こっていない。
6点差という長大な距離感、松濤からすれば青海の背中は地平線の遥か向こう側にある。
チャンスで打てるか打てないか、ヒット一本がデカい。
その大きさを埋める役割を託されたのは比叡。
松濤の四番は勢源のサインを見た。
左打席に立った比叡は、バットを一度肩に乗せてから天空に高く掲げる。
伸ばした両腕とバットがほぼ同一直線上に。
この試合比叡は初めて全力でバットを振る。
空振りをすればフィールドに片膝をつくほどのフルスイング。
共鳴している。中原の前の打席の我欲に、一発狙いに。
空振りを恐れない本来の比叡が蘇る。
バッテリーは気づいていたようだ。
その構えが形象するものは刀剣による横に薙ぎ払う斬撃だ。
今村の選んだ球種は、
初球急襲、
「泡坂さんのフォークはコントロールが利かず
「だと思うやろ?」
「初球フォーク……」
「策に溺れたな今村」
「そのフォークを待ってたわ」
打開。
低めの球をすくい上げた。
その大飛球はライト線上ギリギリ内側に入る弾道だ! 守る3年生は流れを信じていた。直前の芹沢のファインプレー、その流れのまま自分もあのボールを奪取できると。
瞬足、落下点にスライディング、数百億の価値がある財宝を守るがごとく優しくキャッチ――
俺を含め松濤ベンチ全員が叫ぶ。
「落ちろッッ!」
走りながら比叡自身も叫んだ。
「落ちろオラッッ!!」
できない! グラウンドに叩きつけられた。
だが後ろに逸らさない。身体で止め運動エネルギーを殺した。素早く立ち上がり素手キャッチ、2塁ベース前で待つ
一塁ベース上の比叡を指さす。
「おまえも
「あんたと違って私はちゃんとヒット! それにランナー還したわよ!」
2塁ランナー華頂がホームに到達している。
一二六日ぶりに青海のエースが公式戦で失点。
たった一点とはいえ青海野球部の関係者全員はある事実を思い知らされた。
わずか一点を奪っただけでスタンドの空気が一変している。判官贔屓の声援。
表の攻撃とは正反対の掌返し。
甲子園4連覇青海大学附属高校が負けるところを見られる可能性を感じた。
戦慄にも似た感覚に襲われるナイン。例外は一人泡坂だけだった。
青海00000006 |6
松濤00000001 |1
華頂が涙を流しながらベンチに戻ってくる。その涙は得点の喜びからではない。殺してもらえなかったことを未だ悔いているからだ。
「最低の帰還ね」戻ってきた華頂を叩きながら逸乃がつぶやく。
「あの人のことは絶対許さない」華頂は悪びれずにこう言った。
どういう思考回路してんだ華頂。
状況は一死一、二塁。
「魔物が召喚されてる」
俺は夙夜にささやいた。
「流れを変える手段が
アダムが打席にむかう。
『問題児』
今村は流れを変える。
(パワーピッチや。それがこの場面の『正着』(将棋や囲碁でいう正しい一手)。ボールが多少荒れようと問題ない。球種をストレート、カットの二種類に絞る。球種がわかっても泡坂のボールは打てへん)
内外野の守備陣から指示やかけ声が飛ぶ。状況に呑まれている選手はいない。まだ五点差もあるのだ。そして彼らには甲子園連覇という経験がある。
全員が百戦錬磨の強者だが、
「泡坂が打ちこまれたら正気でいられないだろう。なにが悪いと指摘はできない……」
中原のヒット性の当たりを含めれば実に4連打だ。ついさっきまでは考えられなかった現実を生きている。
「泡坂さんを攻略できている理由があるんですか?」
夙夜はベンチほぼ全員が抱く疑問を口にする。
そう、この回になってなぜだ? 奴の球は死んでいない。俺ならともかく他の打者は余裕をもってあしらわれてきた。
レフト前ヒットを打った華頂はなにも言わない。
ちょっと黙考。
「……理由はなんとなぁくわかった。うん、俺が言うのはなんだけど俺が理由なんじゃないの?」
二秒後に俺の解答に夙夜が、そして勢源が追いついた。
「あ! 第一打席と第二打席、慎一は泡坂さんのボールをフルスイングせずにヒットにしました」
ボール球をゴルフスイングで打った第一打席、速球をわざと詰まらせて打った第二打席。
「……それを参考に残りの八人が軽打を無意識のうちに真似してしまった。だが泡坂のストレートやカットボールは、全力で打ってやっと外野まで運べるもの……」
「俺の技能あっての『軽打』だったからおまえらが真似ても付け焼き刃でしかない」
『打球操作』が有能すぎた。
静まる松濤ベンチ。
「うん、マジでごめんね」
全然気づかなかった。
部外者としてチームを客観的に見る役割を与えられた夙夜ですら状況に呑まれ指摘できなかった。
俺のプレーが打線を湿らせた一因だった。味方にデバフかけるクズ。
「……今日の泡坂だ、それがなくてもヒットが一本か二本増えるだけだっただろ?」
そうフォローしてくれたのは意外にも中原だった。
「アダムは心配しなくても強振する。ただ問題はアダムの今の状態がよろしくないっつぅことだな」
恐い顔で俺を見る勢源。
「うーんだからあの悪癖はあいつ自身の問題だろ。2番から打順落として5番だし」
アダムのここまでの成績は25打数5安打。打率は.200。
1番や2番を任せるには数字が悪すぎる。準決勝まで放ったヒット5本のうちホームランが2本というのは意味がわからない。足の速さという長所はあるがこの打順は妥当かと。
「あいつに悪い癖がついてそのままなのも間接的にはおまえのせいだろ?」
また俺かよ。まぁ事実だからしょうがないけど。
「悪球打ちなんて
*
アダム「できねえことをできるようにがんばってんだ。なんで応援してくれねえんだよ!?」
勢源「ボール球は打つな」
アダム「ヤシキは悪球ヒットにしてるだろぅ?」
勢源「あいつは例外も例外なの」
アダム「オレなら多少ゾーンから外れようが対応できる」
勢源「野球の
アダム「えっえー……」
勢源「打ちやすいボールを打て。それが野球の
アダム「打てるのにい?」
勢源「単純に確率が低い。というか今までボール球打ったのはどこにでもいるようなド三流のピッチャーのクソボールだろ? おまえの悪球打ちは雑魚専のゴミみてぇな技術だ。全国クラスには絶対通じねぇ」
アダム「うちの監督口悪……ちょっと辞めていい?」
*
1球目、泡坂の高めに外したボールをアダムは剛振。
頭を抱える勢源その他。
(また『悪球打ち』に戻った。なら
今村はボールがミットを叩く音に気づく。三塁側のブルペンだ。もう一人のエース、置鮎と1年生ピッチャー久世が投球練習を始めた。『左殺し』霜村はまだベンチに待機している。
(あいつらには9回以降頼ることになる。この回は締めるで泡坂……)
泡坂は全力で
アダム相手に置きにいったボールでは『悪球打ち』が成功しかねない。
アウトコース、変化の幅が大きなカットボールを右足を大きく踏みこみ――打ちにいったアダムは――ぎりぎりのところでバットを止める。
「そんな喰いつくようなボールかよ……」
これで
内野席からかすかに失笑がきこえてくる。
アダムの奇癖は周知の事実だ。これで結果さえ残せば黙らせられるのに。
3球目はカットボールが
力対力。だがバッターはボールとはまったく無関係な空間をスイングする。
続いて低めにストレート。
際どいコースだがボールの判定だ。
「チーム戦術もあるけど、結局プレイヤーが自分で考えるのがスポーツというものだよ」
自己判断が大事。
「前の打席でしたバントの構えは?」と夙夜は口にする。
「いや、華頂から続いているフルスイングの流れを断ち切りたくないんだろう」
それに空振り三振なら
ネクストバッターズサークルに移動せず口を隠しなにか考えている勢源。
……松濤のパワーヒッターは5番までだ。6番以降はフルスイングして泡坂のボールに事故的にぶつかってもヒット性の当たりが発生しないのではないか……。
アダムが凡退すると残りのワンアウトを有効に使えない。
泡坂が一塁に牽制球を入れる。比叡が戻ってセーフ。
「フルカウントにはしたくない。アダム相手だがストライクで勝負するはず……」
俺の発言とほぼ同時に勢源が、
「アダム! 打てるボールだけ打て!!」
泡坂はセットポジション、次こそ打者に投げる。
今村はアダムがバットを握りきしませる音をきいた。
(! 乱れた!!)
アダムの胸元目がけその豪速球が飛びこんでいき、
それでも打ちにいったアダムのバットはボールにぶつからず、
右腕直撃!!
「打てるはずがねぇ……」
160㎞/hのフォーシームが上腕に激突した。顔をしかめ泡坂をにらみつけるアダム。
泡坂はすぐさま野球帽を外し謝る。
わざわざ悪球で勝負しにいったわけではない。泡坂の全力のストレートはアダムの手に負えないのだ。
一塁コーチャーの片城が治療のためコールドスプレーを持って近づいていく。
「あん
「正気じゃないですよアダム君。今のを打ちにいくとか……」
右腕をかばいながら1塁へ歩いていくアダム。そして泡坂にむかって、
「今度はあのボール打ってやっからな泡坂! もう一回勝負すんぞ!!」
「なにがしたいねんあいつ……試合の流れわかっとるのか……」
この勝負、内容ではバッテリーの完勝だが、結果を手にしたのは打者のほうだ。
出塁しチャンスを広げた。
そう俺は思ったのだが――
青海ベンチから堂埜監督が飛び出してきた。
状況は一死満塁……のはずだ。
どうやら球審の判定に文句がある……みたいだ。
「ひょっとしてアダムがスイングしたから?」
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