第54話 8回裏 白球の罠①
《松濤視点》
『鬼手』
青海に油断はない。
そのことはベンチを見たらすぐわかった。
三振を喫し意気消沈しているかと思われた佐山はふとベンチの奥に移動し、置鮎に何事か頼み、
すると置鮎が近づき『やれやれ』といった顔をしてその場で左拳を相手の頬に叩きこんだ!
口端に流れた血をぬぐうと佐山は自分で両の頬を叩き、グラブをもってベンチを飛び出していった。これで悪い流れは切ったと。
そして青海の監督は二塁手と左翼手を交代させる。
「ナポレオン曰く『もっとも危険な瞬間は勝利の直後』。鍛えられた兵士であろうと本能には逆らえない。長期間のストレスから解放された人間は肉体的にも精神的にも無防備になるのだよ。大量リードした直後に動けなくなりそうな選手を発見し早めに対処したな」
これは俺。
「軍隊もスポーツも勝利を目的にするという意味では同じか。屋敷おまえ軍オタだったのか?」
これは勢源。
「夙夜の蔵書を読んで覚えてたの」
夙夜に後ろから優しく叩かれた。
「ゲームに集中して」
「うい」
「この打席で決まっちゃうかもしれないことくらい理解してるでしょ?」
この劣勢でリードされたチームの10割打者が打ちとられれば、二度と流れをつかむことができない。
「ゲームの流れによって評価すべき指標は異なる。投手戦なら一点確実に入る(風祭と泡坂が打ったような)ホームランの価値は大きいが、打撃戦に持ち込みたい現状、単打や四球の価値のほうが大きくなってる」
「わかってんじゃねぇか」
これは勢源。
そしてチームのみんながうなずく。
「条件が緩和されたことはいいんだけどプレッシャー」
もう泡坂からは3本ヒットを重ねている。もう俺個人の目的は達成された。
だがもうこんなにもあいつを打ちたい。
泡坂の第1球、アウトコースに外したボールを俺は見送る。
「こりゃ威力偵察だな。泡坂に俺のリアクションを観察させてリードを決めるつもりか?」
「ペラペラなに喋ってんねん……!!」
今村はピリついた反応をする。自軍のリードなど意識にない。
「さっきのホームランは関係ないよ。お前を打ちとって初めて仕事をしたことになる」
泡坂はそう俺に話しかける。
俺は狙いを定めてから打席に入った。こちらの意図がバレていなら、これはかなりの確率で成功する。これとはすなわち、
バント。
(!?)
超高速のカットボールをバットの下部で上手くあわせ、その運動エネルギーを抹消した。キャッチャーが捕る位置に転がし、グラブで確実に拾った今村が一塁に投げる――だが間に合わせない! 俺は勢いよくベースを踏み抜き優先、送球が劣後した。
セーフティバントで出塁!!
「悪魔や……!」
今村が口走る。
俺は四度一塁ベースに辿り着いた。迎える風祭はもはや驚嘆の色をしめさない。
しかしだ。
(今まで巧打でヒットを重ねとった屋敷が初のバントヒット、この意味は――)
俺としてはリスクを侵したバントヒットで出塁することで味方を鼓舞した――つもりだ。
俺はチームに貢献することを今になって覚えた。確実さを捨て派手さを選んだ。
1塁ベースに到達したあと俺は、最初に彼を見ながら指を立てこう挑発する。
「狂えよ、華頂」
状況は無死一塁。華頂は死んだ眼をしたままバッターボックスへ足を進める。
泡坂が俺以外の打者に全力投球したのは5回裏、肩をつくるために7番逸乃~9番桜の下位打線に投じたあのときだけだ。
松濤の上位打線は本気の泡坂を知らない。
そもそも公式戦ですらこの1年間、堂埜監督は泡坂、置鮎のダブルエースに『球種を限定』、『投球するコースを限定』、『投球数を限定』かつ『読心術を有す今村の配球ではなく投手自身が考えた配球』という4つの
今日の泡坂にその縛りはない。
泡坂はこの俺を追いつめた5回裏の投球再現する。おそらく9回裏を置鮎に託すことも念頭に、スタミナの温存も考えず、かつフラットな精神状態で、一つのアウトをとることに全力を出せる守備陣をバックに、
完全な泡坂のピッチングが襲いかかる。
客観的に見てヒット一本も難しいこの現状だが、
俺は知っている。
華頂は野球選手云々の前にまともな人間ではない。
打席に立った華頂の人形のような表情を見よ。
人間の本能が現れるプレー中にあってこの無表情――これは、
「なにかする気だなあいつ……」
『なにもない』
華頂は2球見た。
2球ともストライク。立て続けに158㎞/h、160㎞/hと豪速球が
あの速度でストライクがとれるといよいよ手がつけられない。プロでも9割は手がでないだろう。
華頂が凡退しようとそれはあいつの無能を証明しない。
3球目のカットボールがインコースわずか外に。今村がフレーミングするもボールの判定だ。
ここまで牽制球はない。俺も盗塁は考えていなかった。
最悪なのはもちろんゲッツーだ。俺も2塁にはいきたいが、ここぞというときに牽制球が飛んでくるのが恐い。そして今日まだその機会はないが今村の強肩も恐ろしい。
ここまでの動きを見る限りファースト風祭の両膝に問題はない。
バントが上手い華頂に一塁ランナーの俺が今いる手前の
ベンチは強行を指示。そうでなくては。
第四球。異変に気づいているのはどうやら俺だけだったようだ。
華頂は言った――
*
逸乃「どうして死ぬだなんて言うんだよ……!!」
華頂「僕に生きている価値なんてないからですよ。母さんは言うんです。ピアノを捨てた僕に価値なんてないと。だから見捨てる。たまに口を開いても罵詈雑言ばかり。家にいてもいない者あつかいされる。しかたなくご飯をつくるってくらいで。野球をしている僕になんて関心がないんです」
逸乃「そんな最低の母親のことなんて尊敬する必要がない。自分のことだけ考えてればいいんだよ!」
華頂「他人の家庭の事情に口出ししないでください。母さんに認められない僕なんて無意味なんです。僕が死を選んでも世間からの目線を気にするだけです。誕生日を祝ってもらったのは何年前だったかな」
逸乃「……ならどうして私に教えたんだ。本当は止めて欲しいんだろ!?」
華頂「逸乃さんは特別だからです」
逸乃「……もうやめにしよう。《今度死ぬなんて言ったら必要なところに相談する》!」
華頂「言葉が軽いですね。僕は嘘なんてついてないですよ。死ぬときは本当に死にますから」
逸乃「もうやめよう。お願いだから……。君に死なれると私が困るのに……」
華頂「それを言われると正直意志がグラつきますね。逸乃さんのことは嫌いじゃなかった。……残念ですけれどもう死に方は決めてますので」
*
「どうして僕を殺してくれなかったんですか?」
華頂は心底悲しそうな顔をして泡坂を見ている。
(カカシかこいつは? なんでバットをピクリとも動かさん?)
今村はサイン決めたようだ。
(欲をかくで泡坂。こいつは打たせてとる。シュートでえぐって左方向にゴロや。サードかショートにさばかせて併殺や)
うなずく泡坂。
第四球、
「気づかなかったのか今村?」
ここまでの3球、華頂が眼をつぶっていたことに。
死球覚悟でスピードボールに眼を慣らさなかった。
これなら遅いボールに身体が泳がない。
華頂は近づいてくる変化球に対応した! 勢いのある打球は三遊間の右寄り、ショート百城のグラブを掠め転がり外野へ抜けた!! 一塁ベースに立つ華頂は泡坂に邪念を放つ。
「これは罰だです? 僕を殺してくれなかったあなたへの?」
華頂の意味不明な発言を風祭は理解しない。
「眼を閉じていた……やと? あの豪速球が顔近くにきて避けなかったのはそのため……」
俺はつぶやく。
「高めの速い球を見なかったことで低めの遅い球に対応。華頂の命懸けのプレーだと普通は思うわな。でも実態は――」
自殺志願者が公式戦、数万人の観衆の前で死のうとして失敗。今のつないだヒットは副産物にすぎない。
この異常事態に気づいているのはほんの数名だろう。俺は数ヶ月前華頂と逸乃の立ち話を偶然きいていたからわかっているだけだ。
グラウンドレヴェルで青い顔をしているのは逸乃と今村だけ。
「華頂!! 試合だからな。これ以上の奇行は避けろよ!」
ここでヘルメットを脱いで試合会場から姿を消しかねない精神状態だろう。なにしろ死ねきれなかったのだ。俺も止めるべきだったか……いやどんな言葉をかければいいかわからん。
華頂は納得がいかないのか歯噛みし、薄らと涙を流し、そして言った。
「今今今今今の打席やり直しできませんか?」
華頂の狂気を含んだ懇願は無視される。
あいつに注意しておくのは試合が終わってからでもいいだろう。あるいは逸乃が気づいているか。見るとすでに逸乃が噛みついていた。
「どうして!! よりにもよって今ここでそうしようとしたの……?!」
「大人しく野球ごっこしてましょうよ逸乃さん。あなたと話すことなんてなにもないですから」
この会話の意味をなにもわかっていないその他大勢。
俺は二塁手に話しかける。
「試合中隕石が降ってきたんだけど誰も気づいてない系?」
「なに言ってるんだおまえ。試合中話しかけるんじゃねえよ」
「はいすいません……」
人の死に敏感になってはいけない。俺は華頂の行動に呑みこまれない。
泡坂相手にこの試合初の連打。
状況は無死一、二塁。次の打者は中原だ。
『無用の長物』
ベンチで華頂のプレーを見守る中原に勢源が話しかけていた。
「前の打席同様俺が相手の球種を読みベンチからサインで伝える」
それをきいた中原は答える。
「泡坂のボールは狙い球を絞りを強振してやっと外野まで飛ばせる」
「基本路線はそれで」
「……6回裏も甘い球打って内野安打がやっとだった。あのショートはヤバい。ほとんど外野かって遠い位置で捕球してアウトにされかけたからな。バズーカみたいな肩だった」
青海の不動のショートは三年の百城だ。全国最高の
「思ったよか足速ぇよな中原」
「ナメんなよ! 小六のときにはもう親父より速かった。《親父の証言だから確かだ》」
少し考える勢源。
「……まぁそれはそれとして! 青海はピッチャーだけじゃなくて
「ホームランぶっ放せば守備なんで関係ないだろ」
冗談めかした口調で中原は言った。相手はホームランを一度も打たれたことがない甲子園優勝投手だ。
「いいぜフェンス越え狙って。六点差だからってつないで一点ずつ返さないといけないルールなんてねぇよ。
「なんか恐いぞ勢源。なんか裏があるのか?」
「ねぇよんなもん。お前に勝算があるからだ」
「……ほんとに打つからな!」
「クリーンヒットだった」
「たまたまバットにぶつかっただけやで。問題は中軸だ。1点も獲られたくねぇ」
今村は笑顔の仮面をまだ外していない。
(屋敷はともかく華頂に打たれることは予想しとらんかった)
ストレートで追い込んだあとに際どいコースの変化球を痛打された。眼を閉じるだなんて奇策を次の打者が続けるはずがない。
7回までの絶好調なピッチングに変化があったようには思えない。泡坂がらしさを発揮すれば次の打者は確実に仕留められる。一人一人確実に始末する。進塁打を許しても問題ない。4番比叡は犠牲フライありの攻め方をして2アウト、5番アダムは扇風機。1失点で切り抜け最終回は6番――下位打線から始められる。
(という仮定は甘いか?)
それはともかく、今日の泡坂には考えすぎるところがある。
泡坂対中原。カウントは
走塁の判断材料としてバッテリーの考えを探る必要がある。
ここまで2球、中原にサインを送る勢源の思考は、あきらかに泡坂・今村バッテリーのそれを上回っていた。
球数がかさんでもいいから三振狙い→
ツーストライクになったら中原が苦手とするアウトコース→
ツーストライクをとるまでは内角外角の際どいコースを突くピッチング→
同じく右打者の華頂に打たれたシュートは使いにくい(以下略)。
「ここにきて今村の思考に追いついた。勢源けっこう切れ者だったのね」
インコースにそれがくる。泡坂最強の変化球カットボールが。
勢源が予想した球種だ。
わずかに甘い!
ニヤつく中原。奴がもっとも得意とするコースだ。上体を倒し気味にして無理矢理振り抜くスペースをつくる。
「
乾坤一擲の一振り。
引っ張った!!
恐ろしく速い打球、三塁線、これはフェアに――
スタートを切る直前、俺の眼にすさまじき野獣が跳躍している姿が映った。
三塁ベース直近、サード芹沢が真横に跳び――
差し伸ばしたグラブにボールが飛びこんでいった。
(三塁ベースが近いということは)
素早く立ち上がったサードがベースを踏み俺は
「憤死っっ!!」
「
今村の指示をきいた芹沢は間髪入れず一塁へ送球した。中原は、狂ったように火が点いたように走り、怒りの表情のまま激走、走り抜けて横目に球審をすごい眼でにらみつける。
「態度悪いとジャッジに悪影響あるだろうに――」と俺。
「セーフ!!」と一塁球審。
「――俺が最低限以下……」と中原。
放送禁止用語を喚きつつヘルメットをグラウンドに叩きつける。
これだけは避けたかった。エースからいいあたりがでたそのとき全国一の守備陣が容赦なく流れを変えるその事態を。
野球という競技において好守はランダムなイヴェントだ。
だが中原は併殺だけは回避した。
性悪で己の力を誇示することには熱心な中原だが、
この場面でビッグプレーを魅せたのはサード芹沢だった。両腕を開き大きく吠え、守るナインを、内野席の仲間たちを、球場全体を鼓舞する。
流れを我がものに。
青海は二年生ですら観衆を味方にする手段をもっている。
松濤ファンを増やした今日までの努力は無駄だったのか?
それにしても何十試合に一度のファインプレーがリードしている側に飛び出してくるとは……いやそれくらい想定していたんだけど現実に発生するとションボリするのよね。全一の投手陣を抱えたチームに最高に堅い守備陣をあたえるな。
このままベンチには帰れない。いくつか仕事をしておこう。
俺はベンチに戻る途中、泡坂に話す。
「実質3連打じゃん。急にどうした? お祓いでもしたら?」
「三人目は打ちとったでしょ。今は内容なんて関係ない」
泡坂は動じない。
まぁ確かに失点さえしなかったらヒットダース単位で喰らおうが完全試合だろうが等価だ。勝負のリアリティってやつか。
「いやお前じゃないよ。どう考えても
煽った今村の顔はあえて見ない。
そして1塁ベースへ。ランナーの中原の肩をつかむ。
「気にすんなよ中原。あんな守備まぐれだ」
「気になんてするかよ屋敷。触んな!」
一塁で
「おまえは流れをつくった。おまえはチームに必要なプレイヤーだった」
拳を差しだす俺。
仕方なさそうに拳をあわせる中原。
「華頂がホームに還ったらちゃんと喜べよ」
「あ”? なんで俺がんなこと――」
「チームだからだよ。それに比叡は絶対打つ」
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