第6話
夏季賞与が支給され、少しだけ気持ちが浮き立つ金曜日の夜。智明は会社近くの居酒屋で、同僚たちと慰労を兼ねて軽く飲んだ。
ほろ酔い気分で居酒屋を出てから二次会に向かうメンバーとは別れ、智明は各駅停車の総武線に乗車した。
ラッシュ時程ではないが、混雑している車内で運良く空席を確保し心地良い冷房の中、新小岩駅までひと眠りするために眼を瞑った。
次の代々木駅に近付いて電車が減速した時に、智明の膝辺りに何かが当たった。 特に気にすることなく眼を閉じたままじっとしていると、再び膝の辺りを人の膝が軽くぶつかるような感触があった。
意思を持ってぶつかっているような感じがしたので、智明は薄く眼を開けて様子を探った。
視線が細身のジーンズを捉えたが、年齢は判別できない。靴の大きさとデザインから女性らしいというのは分かったが、何か抗議を受けるようなことをした記憶はない。
少し恐怖感はあるが智明は意を決し、女性の顔を確認しようと、吊り下げ広告を見るふりをして視線をゆっくりと上げた。
「しばらく……」
頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「あ……み……。え?なんで……」
吊革に掴まりながら自分を見下ろしている笑顔を見て、智明は頭が混乱した。
「そんなに驚かないでよ……連絡が取れなくて苦労したんだから」
三か月ぶりに見る、屈託のない碧の優しい表情に引き込まれそうになった。
智明はそれを悟られないように一旦視線を足元に落し、表情を引き締めてから再び視線を上げた。
「どうして……なんで?偶然……か?」
「偶然なわけないでしょ。それより、少し話……できない?」
笑顔を消し、生真面目な表情で碧は訊いた。
「話って……俺は別に話すことなんてないけど」
智明はそう言って、再び床に視線を落とした。
「お酒飲んでたんでしょ?私も喉が渇いてるから少し付き合ってよ。今、どこに住んでるの?トモの家の近くでも構わないわよ」
「いや、そっちの帰りが遅くなっちゃうから……次の駅で降りるか?店とかは知らないけど」
千駄ヶ谷駅に近付き、電車が減速するのを感じながら智明は言ったが、胸の中で、なんで断らないんだと自分を叱責した。
「私もこの沿線はよく分からないわ。じゃあ、アキバまで行く?今、どこに住んでるのかは知らないけど、アキバならどの方向でも、帰りの電車は困らないでしょ?」
千駄ヶ谷駅に停車し、野球観戦を楽しんだ乗客が乗り込んできて急に騒がしくなった車内を見渡しながら碧は提案した。
「……ああ、分かった」
智明は短く応え、腕を組んで無理やりに眼を瞑った。
それから二人は会話をすることもなく、混雑し始めた電車に揺られてから秋葉原駅で下車した。
お互いにぎこちない距離感を保ち、昭和通り方面に出る。
数人の客引きが勧誘する中、二人は手を振って断りながら通りを歩いた。
智明は多くの居酒屋の看板が目立つ雑居ビルの入り口で立ち止まり、碧に了承を得るように視線を向けた。碧が小さく頷くのを見て、二台あるエレベータを待っている数人の客の後ろに並んだ。
降りてきたエレベータに、他の客に続いて乗り、三階のボタンが押されているのを確認した。
軽い振動と共に止まったエレベータから、学生らしい若いカップルに続いて智明と碧も降りた。
エレベータホールの前に二軒の居酒屋があり、智明と碧はカップルとは違う和風居酒屋に入った。
出迎えた法被姿の若い男の店員に、指を二本立てて二人だと告げる。
「カウンター席へのご案内になりますけど、よろしいでしょうか?それから本日は混雑していますので、お時間は二時間までとなっています」
早口で店員は訊いてきた。振り返って碧を見ると軽く頷いたので、智明は店員に「軽く飲むだけなので……」と応えた。
二人は入口に近いカウンター席に案内され、おしぼりを差し出す店員に智明は生ビール、碧はカシスオレンジを注文した。
案内をした店員の言う通り、店内は満席に近い。会話のない智明と碧を圧し潰すように、嬌声混じりの騒音がそこかしこから聞こえてくる。
智明と並んで座った碧は、カウンターの中で調理をしている従業員を見ているのか、視線を真っ直ぐに保って固い横顔を見せていた。
碧の方から話しをしたいと言ってきたのに、一向に話が始まらない雰囲気に智明は焦れてきた。
居たたまれない重い雰囲気から早く解放され、シャワーを浴びてベッドに潜り込みたいと思い始めた時、注文した飲み物が届いた。
「ポテトサラダと枝豆をお願いします。そっちは?」
飲み物を運んで来た女性店員につまみ類を頼み、ついでのように碧の注文を訊いた。
「今は……あとで頼みます」
碧は軽く手を振って、店員に注文がないことを告げた。
店員が下がると、智明は乾杯の仕草もせず、ジョッキのビールを呷るように飲んだ。
それを見て、碧は静かにカシスオレンジのグラスに口をつけた。
「で、話って何?」
ジョッキをカウンターに置き、智明は碧に視線を向けずに訊いた。
「そんな怒ったように言わなくても……。久しぶりに会ったのに、他に言い方ないの?」
テーブルに戻したカシスオレンジのグラスを両手で包み込むようにして、碧は言った。
「別に怒ってなんかいないって。早く用件を言ってくれ。疲れてるから早く寝たいし」
吐き出すように言って、智明は再びジョッキを口に運んだ。
「そんな風に言われたら何も言えなくなっちゃうよ。いろいろと話したいことがあって、何から話せばいいのか分からなくなってるのに……」
グラスに視線を落したまま、碧は戸惑うように言った。
「本当に疲れてるんだ。会社の人たちと飲んでたけど、二次会を断って帰るとこだったんだ。だから、なるべく簡潔に話してくれると助かる……」
「ポテトサラダと枝豆です!ご注文品は以上です。何か他にご注文は?」
女性店員が智明の話を遮るように、注文の品を二人の前に置きながら訊いてきた。
「あ、じゃあ、揚げ出し豆腐と、焼き鳥の盛り合わせをお願いします」
碧が注文すると、女性店員はハンディターミナルに注文の品をインプットして、それから智明のジョッキを一瞥した。
「……生ビールもお願いします」
長居はしたくなかったが、智明はつられる形で生ビールを追加注文した。
「……分かってる、お店を出たところを見てたから」
女性店員が離れると、碧は智明に向けて言った。
「店?店って、新宿の?店の前で見たのか?……偶然じゃないって言ってたけど、なんで俺があの店で飲んでるって知ってた?」
枝豆を口に放り込んで残りのビールで流し込んでから、智明は碧の方に身体を向けて訊いた。
碧は一呼吸置くように、カシスオレンジを飲んでから口を開いた。
「連絡が取れないから会社の前で待ってたのよ。西村さんにも口止めしてるみたいだし……。他に方法がないでしょ?会社に電話しても、個人情報だからトモの住所を教えてくれるわけないしね」
「え、会社を出たところから?あんなところで、どれくらいの時間いたんだ?」
ちょうど追加の生ビールが届き、クリーミーとは言い難い泡に口をつけ智明は碧の方に向き直った。
「多分、今日はボーナスが出る日だろうから、早めに会社を出ると思って……六時過ぎにトモの会社の通用口を見てた。そしたら、十分くらい経った頃、他の人たちと一緒にトモが出てきたので後をつけて、居酒屋に入るのを確認して……。二時間は出てこないと思ったから、いろんな店を覗いたりお茶して、八時前に居酒屋に戻って、店を見張ってた」
「お前は探偵か!たまたま今日は早く会社を出られたけど、俺が残業だったり外出先から直帰してたらどうしたんだ?そんなにしてまで話したいことってなんだ?」
智明の会社が夏季賞与を七月の第一金曜日に支給することを、碧は知っていた。
「一時間くらい待って、会社から出てこなかったら、また別の機会にしようと思ってたけど、もう営業じゃないから早く退社できると思って……」
女性店員が揚げ出し豆腐を運んで来たので、碧は話を中断した。
「で、店から出てきたトモがみんなと別れて駅に向かうので慌てて追っかけて、電車に乗るのを確認してから同じ車両に乗ったの。そしたら眼を瞑って寝そうになったから……」
「お前、興信所か探偵事務所に勤めた方がいいかもな。全然気が付かなかった」
智明は呆れたように言って、少しだけ表情を緩めた。
「そうしようかな。今の会社もつまらなくなってきたし」
碧は揚げ出し豆腐に箸を伸ばしたが口に運ぶことはせず、俯いたまま吐息混じりに、言葉をそっと吐きだした。
「何か会社であったのか?でも、俺には関係ないだろ?」
「そうね、トモには関係ないわね……」
「なんだよ、その突っかかるような言い方は。怒られるようなことはしてないし。そんな関係じゃないだろ……もう」
碧の顔を見ずに言って、智明はジョッキを口に運び、枝豆を手に取った。
「まだ怒ってるの?あれはトモの誤解だよ。ちゃんと話を最後まで聞かないで出て行っちゃうし、ラインと電話は拒否するし。どうしたらいいのか……ずっと、ホントに我慢してきたけど、一度会ってちゃんと話を聞いて欲しかったの。だから迷惑かなって思ったけど、西村さんに連絡を取って……」
碧は少し湿った声で話し始めたが一旦話を止め、グラスの残り少ないカシスオレンジを飲み干した。そして、揚げ出し豆腐を器用に箸でつまんで口に入れた。
「怒ってるも何も……お代わりは?」
空になった碧のグラスに気付き、智明は訊いた。
「白ワイン、グラスで」
頷いた智明は、丁度傍を通った店員に碧の注文を伝えた。
「で、話って?」
何回目の問いかけになるんだろうと思いながらも、智明は碧に訊いた。
「ああ、うん。荷物まだ預かってるから、住所教えて。明日、宅配便で送るよ」
「荷物の件か……別に捨ててくれても良かったのに」
やはり、碧の部屋に届いた荷物の件かと思い、智明は不自然にならない程度に素っ気なく言った。
「そんなことできるわけないでしょ!」
碧は感情を露わにして言った。
「どうして?邪魔なだけだったろ。段ボールで三箱もあるのに」
「だったら、なんで早く連絡をくれないのよ!捨てろとか、ここに送れとか言ってくれればいいでしょ!」
突然の碧の剣幕に、白ワインを運んで来た女性店員が一瞬身体を強張らせた。
「聞こえてるから、そんなに大きな声を出すなって」
智明が宥めるように言うと碧はワイングラスを口に運び、喉を鳴らせて飲んでから俯き加減の姿勢になった。
「勝手すぎる……」
「え?」
くぐもった声で言う碧の言葉が聞き取れず、智明は碧の表情を窺うようにして見た。
「勝手に誤解して、勝手に怒って出て行って……。一緒に暮らすのを楽しみにして、準備していた私のことをちっとも考えずに、一切連絡を絶って……。もちろん誤解を与えるような行動をした私が悪いってことは分かってる。でも、ちゃんと私の話を聞きもしないで、自分勝手にしているのはどうなの?トモには全然悪いところはないの!」
絞り出すような声で言って、碧はワイングラスに口をつけた。
「な、なんで俺が悪いんだよ!俺のどこに問題があるっていうんだ?それこそ、お前の勝手な思い込みだし、責任転嫁だろ!」
吐き捨てるように言って、智明は枝豆を口に入れた。
「もうやり直す気持ちはないって……ことだよね?」
テーブルの上のおしぼりをつまむようにして指を拭いながら、碧は沈んだ声で言った。
「そんなの当たり前だろ。お前にも言い分はあるのかもしれないけど、今更聞きたくないし、俺の中ではもう済んだことで……どうでもいいよ」
智明の言葉を聞きながら、碧は肩を上下させるようにして大きな溜息をついた。
何か反論があるかと思い、少しの間、智明は前を向いたままジョッキのビールをゆっくりと飲んだ。だが、碧は黙って俯いたままで微動だにしない。
このままでは仕方はないので、智明はテーブルの下に押し込んだ通勤用のバッグから手帳を取り出した。そして、手帳のポケット状のところに挟んでいた付箋の束から一枚を剥がした。
剥がした付箋にシンビオシスの住所を書き、付箋と一緒に一万円札を碧の手元に置いた。
「じゃあな。手間をかけて悪いけど、荷物はそこに書いてある住所に送ってくれればいいよ。ここの勘定と宅急便代はそれで払ってくれ」
立ち上がりながら智明は言った。
「え?まだ話があるのよ。それに、まだ焼き鳥がきてないよ」
碧が引き留めるのを聞かずに、智明は碧の後ろを通って店を出た。
湿り気を帯びた生温い風が吹く雑踏の中、ささくれだった気分と酔いが醒めてつまらない現実に戻ったことを呪いながら、人波をかき分けて駅に向かった。
総武線のホームは酔客で混雑していた。
入線してきた電車に後ろから人波に押されるように車内に入った智明は、目の前の吊革に掴まった。
秋葉原駅を離れた電車の窓から暗い外を見ると、表情が抜け落ちた能面のような自分の顔が映っていた。
何故あんなに冷たい態度を取ってしまったのか、自分でも理解ができない。
心の奥底では会いたくて仕方がなかった碧と会えたのに、どうしてあんな残酷な態度で接してしまったのか。
未練たっぷりな気持ちを気付かれたくなかったというのはあるが、せっかく碧の方から近付いてくれたのに……。またもや自分の自信のなさからくる、腰の引けた逃げの姿勢が出てしまった。
さっきの態度は最悪だったな、と後悔しても、もう遅い。
一大決心で会いに来た碧は落胆し、そして怒りさえ覚えただろう。
あの寂しげな横顔は暫く頭から離れそうにない。
窓に映る無表情を装った卑怯な自分を、智明は思い切きり殴りたくなった。
※最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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