第5話

 月末恒例の残業を終えた智明は、同僚の誘いを断り、新宿駅から各駅電車に乗って新小岩駅の改札口を出た。十時半を少し回ったところだが、万次郎で軽く飲んでから早めに寝るつもりにしていた。

 月末の金曜日とあって、万次郎は満席状態だった。だが、小原が智明に気付き、カウンター席の客に詰めて貰って智明の席を作ってくれた。

「お疲れみたいっすね。残業っすか?」

 おしぼりを置きながら、小原が訊いてきた。

「そう。第一四半期最終月だから結構忙しくて。あ、生とポテサラ、それと冷奴やっこ

「毎度!お母さん、生一つ!」

 小原は店員の顔に戻り、厨房にいる痩せた初老の女性に生ビールの注文を告げた。

「今日は遅いのね」

 細い腕で生ビールとお通しを運んで来た初老の女性が、自分の息子を労うように言った。女性は厨房で気難しそうな顔で調理をしている大将の母親だ。

 智明がシンビオシスに引っ越して来てから、早いもので二か月余りが過ぎた。万次郎には週一から二のペースで通い、小原と仲がいいこともあり、すっかり常連客の扱いを受けている。

「月末ですから。でも、明日は休みなんで久しぶりにゆっくりできます」

 生ビールを持ち上げてからお母さんに応え、喉を鳴らすようにビールを飲んだ。

「そう、でも飲み過ぎちゃ駄目よ。どうせ小原君と店が終わってから、何処かで飲み直すんでしょ?」

 お母さんは笑いながら言って、カウンターの中に戻って行った。

 大阪から東京に戻ってきての約二か月間半、想像もしていなかった出来事の連続だった。

 碧と一緒に住む計画が一瞬で潰え、智明はいきなり激流に放り込まれてしまった。だが、幸運なことにシンビオシスの部屋を借りることができ、慣れない本社での業務に追われながらも、どうにかこうにかやってこれた。

 碧との破局は未だに尾を引いているが、傷跡は徐々に小さくなっている気がする。シンビオシスの住み心地の良さが一番の理由だが、慣れない仕事で気を抜けない環境が、良い意味で気持ちを前向きにしているのかもしれない。

 もちろん、新たに出会った全ての人と上手くコミュニケーションが取れているわけではない。会社では関係者との様々な軋轢で、嫌な思いを毎日のように味わっている。

 だが、シンビオシスに帰ると必ず誰かがいて、少し話をするだけで、気持ちが軽くなる。

 不動産屋にシェアハウスを勧められた時は、見知らぬ人との共同生活は自分には絶対に無理だと思った。しかし、実際に住んでみると、危惧していた居住者との付き合いは苦になるどころか、プラスの面が多いと、今の智明は思っていた。

「お待ち!ポテサラは大盛になってるからね。あとでお母さんにお礼を言っといてよ」

 小原が冷奴とポテトサラダを、智明の前に置いた。

「了解!ホントに大盛だね。あ、翔さん、悪いけど滅茶苦茶疲れてるんで、今日は付き合えないけど……」

 智明が申し訳なさそうに言った。

「あ、いいっすよ、そんな。実は俺の方もちょっと用事があって……」

「彼女?」

「そんなんじゃないっすよ!」

 智明の問いに、小原は手を振って即座に否定した。

「今日はバンドのメンバーと打ち合わせがあるんすよ。店が終わったら、津田沼に住んでるメンバーの部屋に集合っす」

 小原はアマチュアのロックバンドのリーダーで、作曲とリードギターを担当している。

 先月、智明は重信を誘って、浅草の小さな会場でのライブを観に出かけた。

 パンクっぽい曲調のオリジナルナンバー中心の演奏だったが、中々聴き応えがあり、固定ファンも多くいるようだった。

 四人組のグループは、当面はインディーズでのデビューを目指していると、小原は飲むたびに熱く語っている。

「そうなんだ。じゃあ今日は泊まりだね。あまり飲み過ぎるなよ」

「トモさんも帰ってから、多佳子さんに捕まらないようにしないとね」

 小原は器用にウインクして、他の客の注文を取りにカウンターを離れた。

 翌朝、アラーム音に起こされることもなく、久しぶりの熟睡から目を覚ました智明はなんとも言えない充実した気分になった。

 目覚まし時計に叩き起こされないというのは、とても贅沢なことだと、改めて思う。

 スマホで時間を確認すると十一時を過ぎていた。

 空腹を覚え、部屋で食パンでも食べようかと考えたが、天気は良さそうなので朝昼兼用の食事を摂りに外出することにする。

 洗面をしてからTシャツに着替え、溜まった洗濯物を持って洗濯機置き場に向かった。

 三台ある洗濯機は全て空いていた。

 智明はいつも使う右端の洗濯機に、洗濯物と洗剤を放り込んでから一階に下りた。

 リビングのソファにはテカテカ頭が見えた。

「こんちは」

「あ、こんにちは。なんかすっきりとした顔ですね。いいことでもありました?」

 遠藤が上半身を捩じるようにして、挨拶を返した。

「いいことなんてあるわけないじゃないですか。でも、久しぶりに爆睡出できたから気分はいいです」

「熟睡できるっていうのはいいことですよ。私なんかの歳になると、寝てても疲れますから」

 遠藤は鼻の横の黒子を掻きながら言った。

 初対面ではお互いが人見知りだったこともあり、満足な挨拶もできなかった。

 だが、ハウスでの暮らしを重ねるうちに、自然と顔を合わせる場面が増え、挨拶を兼ねて短い会話をするようになった。時には、市川を交えて共用リビングでアルコールを飲むこともあり、お互いに胸襟を開くようになった。

 また、偶然、帰りの電車が一緒になった時は、どちらからともなく誘い合って、万次郎に行くこともある。

「そんな歳だなんて、まだ若いじゃないですか」

 多佳子が自分より歳が上だと思うと言っていたが、遠藤の年齢は多佳子より若い四十六歳だった。見た目、特に後退気味の頭髪と、覇気のない仕草が老けて見える要因なのかもしれない。

「いえいえ、四捨五入で五十ですから、立派な年寄りですよ」

「またまたそんなこと言って。ところで昼メシはどうするんですか?」

 智明は遠藤に訊いた。

「昼メシか……三龍亭にでも行きますか?」

 遠藤は壁時計の時刻を確認して応えた。

「あ、いいですね。結構腹減ってるんで、ラーメンとチャーハンにしようかな。洗濯始めちゃったから、あと小一時間くらいしてからでいいですか?」

「いつでも構いませんよ。終わったら声をかけてください」

 遠藤の言葉に頷いて二階に戻ろうとした時、「三龍亭ですか?」と、市川の声が背後から聞こえた。

「あ、こんちは。市川さんもどうです?」

「残念だなー。これから出掛けるんです。あの店のもやしソバ、好きなんでけどね。今度お付き合いします。じゃあ、ボクの分までしっかりと食べて来て下さい」

 市川は智明の誘いを残念そうに断り、大きめのトートバッグを肩に担いで、玄関に向かった。

「本宅……ですかね?」

 遠藤が低い声で智明に訊いた。

「土曜日ですから、そうじゃないんですか」

 真偽は定かではないが、多佳子の推測によれば、市川には家庭があるのだが何か事情があって、このハウスに独りで住んでいることになっている。

「本当に不思議ですよね。本宅があるのになんでこんなシェアハウスみたいなところに住んでるんですかね。市川さんって、どこか大手企業のお偉いさんだったんでしょ?」

 遠藤が黒子を指で触りながら訊いた。遠藤は何かを思案する時に、黒子を触る癖がある。

「さあ、ボクには分かりません。ご本人が言いたくない事情もあるんだろうし。大体、本宅があるっていうのも多佳子さんの当てずっぽうの推測ですから」

「そうですね。重信君のように、他人のプライバシーを詮索しないようにした方がいいですね」

 市川に関する噂は大人だけの間で交わされていて、高校生の重信は含まれていない。

「本当にマー君は大人ですね。どういう教育を受けたらあんな風になるんだろうって思っちゃいます」

「やっぱ、ご両親がお医者さんっていうのはあるでしょうね。お兄さんも医大生だし、元々頭のいい家系なんですよ」

「それが不思議なんですよね。頭はいいのになんで医大を目指さないで、工業高校の建築科に通ってるんですかね?しかも家を離れてここで独り暮らしをしながらなんて。性格だって良くて、ご家族と揉めてるようには見えませんし……ボクにはさっぱり分かりません」

 話が長くなってきたので、智明はソファに座りながら遠藤に言った。

「そうですね。重信君って人の話を良く聞くし、またこっちが訊いたことに対する受け答えもしっかりしていて、私とは親子程の年齢差があるっていうのに、こっちが恥ずかしくなっちゃいますよ」

 遠藤は黒子を触りながら言った。その時、玄関からキッチンに向かってくるスリッパの音が聞こえた。

「あ、お揃いですか?」

 小原が智明と遠藤に気付き、声を掛けてきた。ただ、声にいつものハリがない。

「あ、お帰り。あれ、どうしたの?左目が腫れてるようだけど。それと唇も切れてるみたいだし……喧嘩でもした?」

 智明はいつも明るく剽軽な小原が、顔を伏せ気味に話すので違和感を感じ、小原の表情を探るように凝視した。

「ちょっと……酔っぱらって」

 小原は頭を掻きながら応えた。

「大丈夫?痛そうだけど。俺たち、これから三龍亭に行くけど、翔さんもどう?」

「俺、さっき食って来ちゃったから……。じゃあ、あんまり寝てないんで、バイトに行くまで部屋で昼寝します」

 小原はそう言って、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出し、逃げるように階段を上がって行った。

「どうしたんだろう。どこかで飲んで喧嘩になっちゃったのかな?」

「昨日は友達の部屋でバンドのメンバーと打ち合わせだとか言ってたけど……なんか熱くなっちゃって他のメンバーと揉めたんじゃないですかね。翔さんって音楽の話になると妥協しないから」

 心配そうに訊く遠藤に、智明は心配はいらないというニュアンスで応えた。

 洗濯物を干し終わり、智明と遠藤は三龍亭の暖簾をくぐった。智明は半チャン・ラーメン、遠藤は中華丼を注文し、餃子一皿と瓶ビールを一本頼んで、二人でシェアをした。

「さっき、小原さんが帰って来たので、話が途中になっちゃったんだけど……」

 遠藤がビールを二つのコップに注ぎながら、智明に話しかけた。

「話って、ああ、マー君のこと?」

「そう。あまり言わない方がいいのかもしれないけど、でも私に話すくらいだから、内間さんも当然聞いてますよね?」

「え?どんなことですか?」

 智明は遠藤の話している意味が分からず、コップのビールを一口飲んでから訊き返した。

「あ、いや、なんて言うか、先週の金曜日だったかな……そう、重信君が中野の実家に帰る日だったから金曜日だな。そん時、私は一階のソファでナイター中継を観ていたんです。そしたら重信君が大きめのバッグを待ったままソファに近づいて来て、お邪魔しますって言って隣に座ったんです」

 遠藤は小さめのコップに入ったビールを一気に空け、手酌で瓶からビールを注いだ。

「ああ、マー君は週末はバイトをしないで実家に帰るのが、ご両親との約束になってますからね」

 智明もコップのビールを飲み干し、手酌でビールを注いだ。

「私はこういう性格だからあまり人と話をするのが得意じゃないんだけど、重信君とは何故か会話が続くんですよ」

「聞き上手ですからね、マー君は」

「そうなんです。まあ、ハウスの人は皆さん聞き上手というか、押しが強くないので私は居心地がいいんです。あ、老川さんは上品な押しの強さなんで、大丈夫ですけど……えーと、重信君の話でしたね」

 多佳子の話を言い訳するように言って、遠藤は苦笑した。

「確かに多佳子さんは押しが強いというより、一気に人を包み込んじゃうんですよね……。ラー油は少な目でしたよね」

 テーブルに届いた餃子のタレを作り、遠藤に渡しながら智明が話の続きを促した。

「ありがとう。で、珍しく重信君が沈んだ感じだったので、どうしたの?って訊いたんです。私としては間が持たなくて社交辞令的に訊いたので、返答がなくても構わなかったんですけど、重信君があまり人に話しても仕方ないんですけど、って感じで話し始めたんです」

 遠藤は間を取るように餃子を頬張り、餡の熱さに目を白黒させ、慌ててビールで口中を冷やした。

「大丈夫ですか?もう一本頼みます?」

 智明は瓶に残っていたビールを遠藤のコップに注ぎながら訊いた。

「いや、大丈夫です。昼から飲み過ぎてもなんだから……。それで、重信君が言うには、進路のことでご両親と揉めてるようなことを言ってましたね。実家に帰るとご両親、特にお母さんと言い争いになっちゃうから、最近は家には帰りたくないって言ってましたよ」

 ビールが無くなったので、水で餃子を嚥下しながら遠藤は言った。

「進路ですか……それならボクも聞きました。理由は分からないけど、マー君は医者になるのは絶対に嫌で、だから高校は大学進学とはあまり関係のない工業高校の建築科にしたって言ってましたから。でも、ボクにしたら、高校の選択を自分の意思で決めること自体が凄いんですけど。また、お父さんが、反対するお母さんを説き伏せたって言うんだから、ある意味お父さんも凄いですよね」

「お兄さんは医大生なんでしょ?だから病院の跡取りはいるから、自分は医療とは無関係の仕事に就きたいって言ってましたけど。この間の話では、今、学校では建築を学んでいるけど、高校を卒業した後このまま建築の道に進むべきかどうか迷ってるって言ってました」

 遠藤は届いた中華丼を、うずらの卵を脇に寄せてから餡のかかったご飯をレンゲで掬って頬張った。好きなものは、最後に食べるタイプのようだ。

「今二年生だから、卒業後のことはそろそろ決めなきゃいけない時期ですよね。でも、今はやりたいことが明確になっていないって、ボクには言ってましたね。医者になりたくない一心で工業高校に入ったけど、本当にそれでいいのかって迷いみたいなのが芽生えてるんでしょうかね」

 智明も届いたラーメンにコショウを振ってから、ズルズルと麺を啜った。

「でも、私からしたら贅沢な悩みですよ。うちは大学に進学できる経済状況じゃなかったですし。まあ、頭の方も進学できるレベルじゃなかったですけど……唯一の望みと言うか夢は、田舎を出て東京に行くことでした」

「うちも似たようなもんですよ。幸い、上の兄と姉が働いていたので、ボクと妹はなんとか進学させてもらえましたけど……でも、妹は地元の短大でした。ボクだけが東京の大学に通うことができましたけど、仕送りはギリギリでしたから、大学の四年間はバイトばかりでした」

 智明はチャーハンを頬張り、一つだけ残った餃子をアイコンタクトで遠藤の許可を取ってから口に入れた。

「それでも東京の大学に通えたんだから、内間さんも恵まれてますよ。まあ、上を見たらきりがないし、下を見ても同様ですけど。私みたいに学歴が無く、なんの取り柄も無い男でもどうにか暮らせてるから、今の会社には文句は言えませんけどね」

「遠藤さんはずっと同じ会社ですよね?」

「ええ、高校卒業して今の会社に入りましたから……勤続二十八年になります」

 うずらの卵を口に放り込んでから中華丼を食べ終え、楊枝を咥えながら遠藤は応えた。

 遠藤は日本橋にある洋菓子メーカーで、営業係長として働いている。

 四十歳の時に結婚をしたが、結婚生活は一年も持たず単に戸籍を汚しただけだったと、酒を飲んだ時に自虐的に話をしてくれた。シンビオシスへの入居は、離婚直後だったらしい。

 離婚した相手から亀戸のアパートを裸同然で追い出された遠藤は、千葉県寄りの新小岩駅周辺で部屋を探すことにした。

 数件不動産屋を回ったが、家賃などの条件面で合う物件がなく、都内での住居を諦めかけた。

 仕方なく千葉方面にでも行こうかと駅に足を向けると、目立たない場所に地味な不動産屋があった。最後に駄目元で入ってみるかと、遠藤はその不動産屋の扉を開けた。

 そこが小西不動産で、女性店主と色々とやり取りをしたところ、シンビオシスを紹介された。

 家具付きで相場より格安の家賃だったので、智明と同様に直ぐに契約をし、バッグ一つで入居したようだ。

「仕事は面白いですか?」

「仕事?そんなの面白いわけないですよ。生きるために働いているんで、楽しむ余裕なんてありませんって。この歳で、対外的な配慮による名ばかりの係長ですからね。いつリストラになってもおかしくない状況で毎日ヒヤヒヤもんです。それに比べれば、内間さんは大手の会社ですから羨ましいですよ。やりがいや仕事の醍醐味みたいなのを感じることができるでしょうからね」

 コップの水で軽くうがいをして、その水を飲み込みながら遠藤は言った。

「そんな……ボクも同じですよ。ご覧の通りの内気な性格なので、自分をアピールすることなんかできませんから。上から命令されたことを黙々とこなすしか能のないお荷物で、やりがいとか醍醐味なんて全く無縁です」

 遠藤の下品な所作に顔を顰めながら、智明は言った。

「そうですかねー。私から見れば、内間さんはエリートサラリーマンに見えますけど。老川さんはバリバリのキャリアウーマンだし、小原さんは音楽という自分のやりたいことをやってて、重信君はお医者さんの息子さんで何不自由なく生活しているしで、皆さんは私からすれば眩しい存在です」

「ボクがエリートサラリーマンですか?初めて言われました。でも実際は真逆の落ちこぼれですよ。いや、マジで」

 智明は両手を振り、否定しながら言った。

「まあ、人それぞれ事情がありますよね。だから、恵まれ過ぎている重信君にも悩みみたいなものが生じるんでしょうからね」

「そうですね。他人には窺い知ることができないことって、いくらでもありますから。でも、ハウスのいいところは世代や仕事を含めて、今迄接点のなかった人と話ができることですよね。本当は極度の人見知りなんで、全く見知らない人との接点が多そうなシェアハウス的な住居はどうかなって思ってたんです。でも、自然な感じで皆さんが仲良くしてくれたので、マジに助かりました」

「私も同様で、薄汚い中年親父がシェアハウスに住むなんてどうかなって思いましたが、何しろ着の身着のままって表現が大袈裟じゃないくらいに切羽詰まっていたので、ある程度の家具と家電が付いている部屋は魅力的で直ぐに飛びきました」

 遠藤は黒子に触れながら言った。

「その時は市川さんの他に入居者はいたんですか?」

「ええ、いました。今、内間さんが使っている部屋に松永さんという男性サラリーマン。軽部さんという四十前半の女性。この女性ひとは私が入居して暫くして、実家のお母さんの具合が悪くなったので、福井の方に戻りました。その軽部さんが退去した部屋に老川さん。二階の空いていた部屋に小原さんと重信君が入居してきて、松永さんがいた部屋に内間さんですね。一階にあるもう一つの女性用の部屋は、何故か空いたままです。一度も入居してないんじゃないですかね」

「何か理由でもあるんですか?」

「さあ、どうなんだろう。私には分かりません。完成してから一度も入居者がいないから、事故物件ってわけでもないでしょうし」

「事故物件って……驚かさないでくださいよ。でも、そうなると遠藤さんは市川さんに次ぐ古参ってことですね」

「古参といっても、特に誰かと親しくしているわけじゃないし、皆さんのことは良く分かりませんけど……。でも、内間さんが入居されてから、不思議と皆さんと話をする機会が増えた気がします」

「え、そうなんですか?」

「ええ、市川さんを別にして、以前は他の皆さんとは挨拶はしますけど、特に会話をしませんでしたから」

「へー、なんででしょうかね……」

「さあ……でも内間さんと話をするようになってから、他の方々との会話が増えたのは事実です。ある意味で内間さんはハウスの接着剤みたいな存在なのかもしれませんね……変な例えですけど」

「はー、なんかよく分かりませんけど……」

 人見知り同士は顔を見合わせて、小さく笑った。

 店を出て、真っ直ぐハウスに帰る遠藤とは別れて、智明はスーパーで食料品と日用品を買ってからシンビオシスに戻った。

 誰もいないリビングを横目に見ながら、共用冷蔵庫に買ってきた食料品や缶ビールをしまう。

 リビングに掛かっている時計を見ると三時になろうとしていた。智明は閉じたばかりの冷蔵庫からペットボトルのスポーツドリンクを取り出し、二階に上がった。

 部屋に戻ってスマホを見ると、大阪営業所で一番仲の良かった西村からラインが届いていた。同年代の西村とは、今でも仕事の愚痴を中心に、頻繁に連絡を取り合っている。

 コメントは、第一四半期における大阪営業所の業績不振の嘆きから始まっていた。

 智明も本社の激務や、上司、先輩社員に対する愚痴を返信しようと文章を考えていたが、スクロールした西村からのコメントを見て、指が止まってしまった。

『さっき、以前紹介されたお前の彼女から、お前に連絡を取って欲しいって、ラインがきた。どうなってんだ?』『今のところ、スルーしてるけど、どうする?』

 智明は胸の奥に錐で刺されたような鋭い痛みを感じ、同時に鼓動が早くなった。

 智明が大阪に転勤して間もなく、京都と大阪を観光したいと言って遊びに来た碧を西村に紹介したことがあった。

 周囲に二人の付き合いを秘密にしていたわけではないが、智明が碧を紹介したのは西村だけだ。

 逆に、碧が智明を友人に紹介をしたいと言ってきたときは、恥ずかしいからと頑なに断った。

『事情があって、今あいつと連絡を絶っているので、スルーのままで』『多分、あいつの部屋にある俺の荷物の件だと思うけど、不要なのでそのままにしている』『面倒かけてすまん。もし、また連絡がきたら、荷物は処分して構わないって返信してくれ』『今度、東京に来た時は奢るから、ヨロシク』

 智明はパンダがお辞儀をしているスタンプと一緒に、コメントを西村に返した。

 スマホのゲームアプリを立ち上げたが、碧のことが気になってゲームに集中することができなくなってしまった。

 二か月以上連絡がなかったのに、わざわざ西村に連絡を取って、仲介を依頼してきた理由が分からない。

 碧の部屋を出て横須賀線に乗車している時に、碧からのコンタクトは全てブロックをしている。

 九十九パーセント無いと思っていたが、なんらかの事情で碧が智明にコンタクトしてくるとしたら方法は二しかない。

 智明が勤めている会社に電話をするか、大阪で会った時に連絡先を交換している西村に仲介を頼むかのどちらかだ。

 碧が後者を選択したのは意外だった。

 碧は智明と違い社交的な一面はあるが、関係の薄い人に自分から積極的にアプローチをするタイプではない。

 そんな碧が、一度会っただけの西村に仲介を頼むのは、何か余程の事情あるいは用件があるのだろう。だが、今の智明にはその用件は思いつかなかった。

 集中できないゲームを止めて、智明はベッドに寝ころんだ。すると、手に持っていたスマホが振動した。

『了解』『それでいいのか?』『可愛い彼女のために、意地張ってないで、一度連絡してみれば』『一応参考までに、彼女からのコメントを貼り付けておく』

 西村からの返信だった。

 智明はテストの採点結果を確認するように、送られて来た碧のコメントを恐る恐る見た。

『ご無沙汰しています。突然の連絡で申し訳ございません。私は、以前内間さんと一緒に大阪でお会いした黒岩です』『事情があって、内間さんと連絡が取れなくなって困っています。お手数をおかけ致しますが、内間さんに私が連絡を待っているとお伝え頂けませんでしょうか。突然の勝手なお願いで恐縮ですが、どうかよろしくお願い致します。黒岩碧』

 智明と碧の別離を知らない西村は、碧からの突然のラインに驚いたであろう。

『切羽詰まった事情があるわけじゃないから心配はいらない』『もし、また連絡が来たら、仲介はできないと、ストレートに伝えてくれ』

 智明は最後に猫がお辞儀をしているスタンプと一緒に、西村に送信した。

『訳ありだな。了解。適当にスルーしておく』『九月に本社に行く予定なので、その時は奢れよ』

 直ぐに西村から、ゴリラがビールのジョッキを持っているスタンプと一緒に、返信が来た。

 智明はしばらくの間、胸のざわめきが収まらなかった。

 どうにもじっとしていられなくなり、大きく深呼吸をして、ベッドから無理やりに身体を起こし、自転車の鍵を持って部屋を飛び出した。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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