れもんの夢

 暗がりの中、荒い息づかいだけが周囲に響いていた。

 一本の細い道を、ひたすらに走っていく。背には翼があるのだが、なぜ飛ばないのか。飛べるような場所ではないのか、定かではない。ただ、何度もつまずき、転びそうになりながらも、足を前へ出し続ける。

 まるで、自分を喰らおうとするなにかから、逃げるように……。


「――――!」


 走り続けた道の先に、ひとつの扉が見えた。窓のない鉄の扉。


「――――!」


 声に出した言葉は、だれかの名前を呼んでいるようだが、耳には届かない。

 扉までやってきて、倒れ込むようにその取っ手をつかんだ。開けようとするが、震える手は上手く力が入らない。


「――――! ――――!」


 求めるように、すがるように、だれかの名前を叫んでいる。

 次の瞬間、殺気に射抜かれたように、身体が大きく震えた。恐怖で引きつった顔が、後ろを振り返る。


 そこにあったのは、大きな猛禽の足。

 

 湾曲した鋭利な爪が、闇の中で鈍い輝きを放っていた。開いた鉤爪は、身体を引き裂かんと目の前へ迫ってくる。

 動くこともままならず、声さえも出せないまま、鉤爪が身体を……。



    *   *   *



「――っ!?」


 れもんは目を覚まし、ベッドから飛び起きた。肩が上下していて、汗も全身から噴き出している。鳴り響く心臓の音を押さえるように、自身の震える身体を抱く。

 恐る恐るというように顔を上げ、辺りを見回す。白い壁に白い床、白い天井。ほかにはなにもない。以前、仲間の部屋を見て回って、取り付けた木製のベッドがひとつ、今、半身を起こして座っている場所にあるだけだった。


「また、あの夢……」


 呟いた言葉は震えていた。身体の震えもまだ治まらない。

 れもんはベッドの上で膝を曲げ、身をすくめて自身をさらに強く抱き締めた。



   *   *   *



 スタッフルームと書かれた扉が「ガチャリ」と音を立てて開く。


「れもん? どうしたんですか、こんな遅くに」


 店内に入るなり、らいむの声がカウンターの奥から聞こえた。テーブル席の端には、はっさくもいて、片目をこちらへ向ける。すだちとみかんは、自分の部屋に戻って寝ているのだろう。

 れもんは笑顔を作り、軽く肩をすくめてみせた。


「ちょっと、目が覚めちゃってね」


 そう言うれもんをらいむはしばし見つめ、柔らかく笑みを浮かべる。


「座ってください。今、温かい飲み物を用意しますね」


 れもんはいつもの席に座る。しばらく待っていると、らいむがカウンターからマグカップをひとつ差し出してくれた。中には湯気の立つ白い飲み物がいれられている。


「ホットミルクです。温まりますよ」

「ありがとう、らいむ」


 れもんはホットミルクを受け取り、さっそく口につける。ちょうど良い温かさで、ほのかな甘みが口に広がり、飲み込むと身体が温もりを帯びた。

 れもんはふっと、小さく息を吐く。店内に響くのは、らいむがカウンター奥で食器を触る音だけ。すだちとみかんがいないからか、寂しさを覚えるほど静かな時が流れている。


「ねぇ、らいむ」


 れもんはマグカップをカウンターに置き、おもむろに口を開いた。


「もしも僕がいなくなったら、らいむはどうする?」


 その発言に、らいむは手を止め、優しい表情を見せながられもんと目を合わせた。


「なにかあったんですか?」


 れもんはうつむきがちに、両手で包むように持っているマグカップの中へ目を落とした。沈黙の時間がしばし流れる。らいむはなにも言わずに、れもんの言葉を待った。

 れもんが一度口を開きかけて、閉じる。そしてまた、口を開く。


「今日、来たお客さんが言ってたんだ。アルビノって、遺伝的に色素が欠乏した個体なんだって。体質的に弱いところがあって、病気になりやすくて寿命も短い傾向があるって……」


 白い水面に映る自分の顔を見つめながら、言葉をゆっくりと紡いだ。


「れもんは今、どこか具合の悪いところがあるんですか?」

「ううん。特にないけど……」

「それなら、大丈夫です」


 不意に、すぐ真横から声が聞こえた。れもんが顔を上げると、いつのまにからいむがカウンター奥から出てきて、隣に立っていた。

 細い指がそっと肩に置かれる。そのまま抱き寄せられて、れもんはらいむの胸に顔を埋めた。


「れもんの夢は、なんですか?」


 子どもをあやすように背中を撫でられながら、問いかけられる。

 れもんは以前も口にした、自身の夢を思い出す。


「『みんなといっしょに、ずっとこのカフェにいること』でしたよね? いればいいんです、ここに。今までも、これからも、私たちはずっといっしょです」


 らいむの言葉は、さきほど飲んだホットミルクのように、れもんの心へ温かく溶けていく。れもんは目を細め、らいむの胸へ身を預けた。


「そうだね。ありがとう、らいむ」


 目を閉じ、背中を撫でてくれる柔らかな感触や胸の温かさを感じる。


「体のことは、あの人に任せておけば心配はない」


 不意にテーブル席からも声が掛けられた。れもんは身体を起こし、はっさくのほうへ目を向ける。

 はっさくが「あの人」と呼ぶのは、店長だけだ。

 コーヒーカップをテーブルに置き、はっさくの片目がれもんへ向けられる。


「お前は、お前の夢を咲かせていけばいい」


 表情こそ無愛想だが、言葉にはらいむ同様の優しさが込められているように思えた。


「うん。ありがとう、はっさく」


 れもんははっさくにもお礼を言って、笑みを浮かべる。

 それから席に置いてあったホットミルクの残りを飲んで立ち上がった。


「もう、落ち着きましたか?」

「うん。ごめんね、二人だけのところを邪魔しちゃって」


 そう言って、れもんが悪戯っぽく微笑む。


「いえいえ、また眠れなかったらいつでも来てください」

「うん。おやすみ」


 れもんはスタッフルームと書かれた扉の前まで行って、後ろを振り返る。見送るらいむとはっさくに手を振り、扉を開けて中へ入っていった。

 閉めた扉を背にして、自身の胸に手を当てる。規則正しい落ち着いた鼓動が、手のひらに伝わってくる。れもんはほっと息を吐き、前へ歩み出した。

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