春-サクラ

  

 僕と彼女のあいだに咲く

 ────桜。


 忘れていた感情想い

 一緒に暮らし始めてもう何年経つだろう。

 そんなことを考えながら、寝ている彼女を腕に抱く。

 

 付き合い初めの僕たちが、今の現状を知ったらどうするだろうか。

 そう思いながら、あの桜を思い出した。


 初めて一緒に観た花びら

 初めて一緒に歩く並木道

 初めての口付け……


 あの時、僕は何を想っただろう。


 桜 ──。


 淡いピンクの花びらが、僕の読むページの上にひらり。ひらり。

 読書を楽しむ僕の気を散らせたいのか、薄桃色の小さなハートたちが風に撫でられ舞っていた。僕の許可なく文字を隠すそれを、指で優しく摘まみ吹く。


 ああ、もうこんなに散っているのか。


 満開だった花はいつの間にか枝を残し、空を覗かせていた。

 ああと上向き黄昏れ、嘆息する僕に「バフッ」と言う声が聞こえ、膝上に重みがのし掛かる。不思議に思い下を向くと、丸いふわふわの手が僕に凭り添っていた。フンフンと濡れた鼻先を僕の指に擦り寄せる。

 おまえはどこの子? と小さく呟いた後に柔らかい肉球ある手を掴んだ。

 のが、僕の間違いだった。

 掌に乗る足はぐっしょりと土の感触がしており。

(あちゃぁ~~)

 今から僕が捲る予定の薄い紙は、綺麗に肉球判子が出来上がっていた。


「ごめんなさい」と、女性の謝る声がした。


 僕と犬は、同時に顔を上げた。

 綿菓子のように甘く柔らかい声の持ち主に反応した悪戯っ子は、急いでその人のところへ駆けていった。

 元気にバッと離れたことにより、僕の膝上にある白い装丁本は地面に落ちた。

 表紙には湿った土が染みになり、模様が出来上がってしまう。


「ああ、益々ごめんなさい」


 謝る彼女は慌てて屈み、本を拾い上げた。その瞬間、隣にいるが彼女に覆い被さり頭にしがみついてしまう。

 一緒に屈んでいた僕はぐちゃりーーと、何かを塗りつけるような音を耳に拾う。


 濡れている嫌な音に、二人が固まった。


 黙る彼女の頭上から赤茶質の色がつぅと流れ、それは徐々に眉間に鼻へと伝っていった。

 彼女は滴る泥水に顔を強ばらせ硬直し、僕はというと笑いを堪えるのに必死で顔を引き攣らせた。

 なんとも云えない表情を、お互いが晒し合う。

 汚れた彼女をこのまま帰すのも気が留めた僕は、考えなしに言葉が注いでた。


「家すぐそこなんで、良ければ上がります? 犬……も、洗おうか」


 犬の種類はグレートピレニーズ、よく子守をする白く賢い犬で有名なヤツだ。

 前日の雨で泥濘ぬかるみや水溜まりのところでもあったのだろう。白い子は所々茶色く、先ほど触れた時よりものすごく汚れていた。


 犬の腹毛は茶黒い液体をぽとぽと、ぶら下げる。


 困惑顔の彼女に微笑んでいると、隣に坐るやんちゃな毛長いヤツはブルブルと体を振るわせた。

 彼女と僕の服に跳ねた泥は、斑点模様をこさえた。付けられた泥はさしずめダルメシアンのようで、僕は我慢しきれず可笑しくなり吹き笑った。

 もちろん彼女も。


 ファーストコンタクト最初の出会いはこんな感じ。


 打ち解けるのに時間は掛からなかった。

 間に入ったピレニーズのおかげもあり、部屋に招いた後も会話は弾んだ。

 彼女も髪が濡れていようが、服が僕のモノであろうがそんなことはなりふり構わず、好きな犬の話題で持ち上がった。


 そりゃあ最初は恥ずかしそうにモジモジと手を捏ねらせ、視線は落ち着かず部屋の中を泳いでたけどね。


 お茶うけに出したお菓子と珈琲もなくなり、気が付くと日が暮れていた。

 危ないから──。

 その一言のあと、彼女を送り出した。

 彼女と公園を歩き、ゆっくり景色を見渡し会話した。

 夜の暗さを明るくさす電灯があちこちに灯り始め、樹の花をうっすら白く反射させていく。桜の花びらは昼より淡く透き通り、風に乗り大量に舞わせた。

 まるで雪がちらついてるかのように地面に降り注ぐ。


 いたずらな風に狩られていく花雪。


 犬は降る花に喜び、跳んでは追い掛け、はしゃぎ遊ぶ。

 彼女と僕はそれを見守りほほ笑んだ。


「もう桜も見納めですね」

「だね」


 互いの頭に散り積もる花を払い、笑い、手を握り、夜道を歩いた。


 なぜか自然に手を繋いでいる。

 普通に片寄せ歩いている。

 まるで前から見知った顔馴染みか、恋人のようだった。

 横で微笑する彼女とまだ一緒に居たいと、思った。

 

 そう考えただけで胸が高鳴り、身体を振るわす音に苦しめられた。


「今度もここで会いませんか?」


 勇気を振り絞り訊ねる僕に、二つ返事で応えられた。

 優しく笑う彼女。


 1週間後──。


 僕は約束の時間に間に合わせるように、身支度を急いだ。

 今日、久々に彼女に会える。

 そう思うと胸がはしゃいだ。


 会ってどんな会話を交わそう、ランチは何しよう。彼女は何が好きで何が……。


 気が逸る僕の横を淡い桜が通りすぎた。


 ……ほんとあの頃は彼女この子に会うのが楽しみだった。なのに今はどうして、背中ばかり合わせているんだろう。

 いつも傍にいるのが当たり前になって来ているバカな考えに反省した。でもこの思いも今だけで忘れてしまうかもと思うと、少し情けない。

 そんなことを思いながら彼女の寝顔を見つめ、瞼にキスした。なんか物足りなくて今度は優しく唇を重ねた。

 あの頃に比べたら何もかも手慣れたもんだが、初めての時はどうやって唇を重ねたかなと、考えてキスすると緊張するもんだ……。

 キスの後、顧みる僕は何をとち狂ったのか、彼女に頭突きを食らわせてしまう。

 

 そして怒られた。


 

 

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