6 ――だったら、あんたはどうして逃げるんだ


 地方紙によれば、数則を襲った男は、数日で一連の犯行を自白したらしい。

  ここ数ヶ月の、坂多町郊外における切りつけ・暴行事件はやはり、彼の仕業だったようだ。物的証拠も証言も多数上がり、幾人か被害者も名乗り出た。目撃証言が欲しいからと数則ももう一度だけ警察に呼ばれた。ただし、殺人や誘拐は報道内容に含まれてはいない。薄々そんな気はしていたのだが、レイコの身元を探る件は、また振り出しに戻ってしまいそうだった。

 なんにせよ、連続通り魔被害はこれでひとまず決着だ。両親の心配も、そのせいかだいぶ落ち着いてきた。

 新聞を片手に坂道を登り、数則はいつもの道を辿り、薄暗い境内の参道に足を踏み入れた。 社殿に彼女の影はない。途端、妙にはしゃいだ声とともに、目のあたりに生温い感触がぶわりとかかった。


「だーれだ」


 目を開けても、感触だけで腕はない。振り返っても誰もいない。首を巡らせていると、ふわりと何もいなかった中空から、レイコが姿を現した。


「びっくりした?」

「……普通に考えて、あんた以外にいないから、びっくりはしない」


 返す言葉の傍らで、何かが、頭の奥に引っ掛かる。数則はしばらく黙って立ち尽くしたあと、首裏を掻き、社殿前に歩いていった。斜め後ろから、藍色の制服姿が、ゆったりとついてくる。


「昼間に、近所のおばあちゃんたちが坂の下でお話してるの聞いちゃった」


 新聞を見せてやるまでもない。心の底から安堵している彼女の笑顔は、出会ってから初めて見るもので、花のような朗らかさがあった。


「あの人、本当に捕まったんだね」

「……ああ。もう、無理して脅かさなくても大丈夫だな」

「そんなに、あたし、無理してた?」

「してたね」


 風が緩やかに吹いていた。土手の夏草と梢を夕焼けにさらさら色づかせるように。鳥居の向こうに広がる薄い空色と、闇に沈みかけた東の空の狭間を瞳に映して、数則はただぼんやりとそこにいる。何も言わない数則をちらと見て、レイコも穏やかな瞳で、口を噤んだ。

 ただ、時刻が緩々と過ぎていく。カラスたちが鳴き交わし、空気の色が薄くなる。


「レイコ」

「うん?」

「俺、もう帰るよ」


 レイコが、顔を上げて、年上らしい顔で微笑んだ。


「実験はしないの?」

「ああ」


 考えることはあった。聞きたいこともあるが、まだ質問としてまとまらない。ただし、彼女を目の前にしては、まともに考えることなど、できそうになかった。



 ◇


 結城数則という少年は、気になってしまったら、質問攻めにしてしまうたちなのだ。それを抑えるのは難しい。それを尋ねたところで、彼女が喜ばないと知っていることですら。


 ◇


 翌日。

 講義が延びて遅くなり、いつもの坂道を登る頃には七時を過ぎた。

 葉鉢神社の石段は既に淡い朱色の光が滲んでいた。東には雲がかかり、カラスたちは蚕尾山に影を連ねて飛んで行く。低気圧の接近か、風は僅かに湿り涼しげで、地を這うように強かった。いつもより頭をさらに鳥の巣にして訪れた数則を社殿の前で待っていたレイコは、これまでの弱気なだけの笑顔ではなかった。何かを決めたような顔をして、


「あのね。話があるの」


 と。今までの怯えたそれとは違う物言いで、夕陽に滲む頬を緩めて微笑んだ。



 風の強さに、賽銭箱の脇、社殿の最上段に腰掛ける。幾分ましにはなったものの、頭頂部はばさばさと吹かれて、数則は顔をしかめた。彼女の好きな青いラベルの缶コーヒーをなぜか流れで買ってしまっていたので、プルタブを押し込み、口につける。やはり、おいしいとは思えない。隣で膝を抱いている少女を横目で見る。長い髪がさらさらと、風の流れよりもだいぶ弱いが肩口でそよいでいる。眺めていると、彼女は目元を染めて、ふいと視線を逸らした。数則の方から、コーヒー缶を膝の合間で片手にぶら下げ、口を切る。


「それで、話って?」

「えっと、ね」


 一度、曖昧に言い淀んでから、口元を僅かに緩めて。少女は静かに言葉を継いだ。


「カズくん、もう通ってこない方がいいと思う」

「なんで」


 数則とて、彼女が何を思っているのか、自分が何をしたいのか、一晩ずっと考え込んでからここに来ている。それでも、レイコの今の言葉は予想外のものだった。そういうことは、考えていなかった。だから、間の抜けた返ししかできなかった。

 レイコは、小さく笑って、足首から先を、上下にゆっくり動かした。


「あのね、夏の間、色々、頑張ってくれて嬉しかった。変な実験も、意味わからなかったけど、楽しかったよ。でもね、なんか、思い出せそうな気がするの。それに、場所もわかった。この前は怖くて行けなかったけど、きっとそのうち、頑張れば、カズくんが見つけてくれた地図の場所まで、あたし一人で行けると思う」

「無理だろ」

「ひどいなぁ。そんなの、わからないじゃない」


 言っている本人がその内容を自分でも信じていないと、こういう笑顔になるのだなと、数則は思った。


「それで?」

「もし、だめでもね。……あたしは『レイコ』として、満ち足りて消えられるかなって、そんな気がしてきたの」

「……記憶は、いいのか」


 強い風に髪を吹かせている数則の、見開かれた視線を受けて、少女はかすかに目元を染め、一度だけ震えるような吐息を漏らすと目を伏せた。透き通った表情で、ほのかな憂いをたたえてから、今度こそ真っ直ぐに視線を合わせて見つめてくる。


「いいの。あたしはそれでも、満足したから」


 一拍の、間を置いて、ボサボサの頭が風に吹かれる。


「カズくんにとってもね。多分、『実験』はそんなに大事じゃないんじゃないかな。違っていたらごめんね」


 風の弱まる瞬間、ひぐらしがかなかなかなと高い空を細く千路に切っていた。

 数則は、彼自身も言語化できていないはずの違和感に、臆病な少女が、気づいていたことに驚いた。実験そのものが、神社経由の近道を続けている一番の理由ではない、ということを。

 そして知った。彼が、幽霊の少女を観察し続けていたように。あわいの少女も、目の前にある日突然現れた、髪が跳ねたぶっきらぼうで好奇心の旺盛な、結城数則という少年のことをずっと観察しており、数則がレイコの預かり知らなかったことを見つけ出したように、レイコもまた、同じことをしているだけなのだ、と。

 レイコが、夕風の中に立ち上がった。すうと、もう彼女の存在を保つのに寄与しない空気を吸う仕草をする。ブレザーのスカートの裾、肩よりも長い髪、その毛先はさらさらと揺れているようだった。それもきっと、錯覚だ。参道の石畳に踊るように振り返り、輪郭の淡い少女は微笑う。


「ちゃんと、逃げないで、受験のことを考えて。カズくんならできるよ。きっと、行きたいところに、どこへでも行ける」


 梢の間から滲む強い西日が、柔らかな微笑みを水彩のように、ゆったりと茜に溶かしていく。


「会えて、嬉しかった。いろいろ考えてくれて、名前も探してくれて、苦手なコーヒーを買ってきてくれて。満足するにはね、もう、十分すぎるよ。あたしね。カズくんのこと……、」


 社殿を取り巻く神木が、影とともにたわんで揺れた。風に吹かれた塵が細かく見えなくなるように、さらさらと。


 好きだよ。さようなら。


 消えいるような声が、風に紛れて耳に届く。白い光が薄れると、目の前にはくっきりとした粗末な参道だけがあった。目の前に延びる参道、脇の古びた手水舎、かたかたと乾いた音で揺れる柄杓。赤い鳥居は沈みつつある夕闇に影を伸ばして遠く坂道の向こうに広がる東の山々が、連なる鳥影を迎えようと深い空気の流れにざわざわと鳴いていた。

 数則は、しばらく、彼女の消えた跡を眺めて温い風に髪とあおられるシャツの裾を預けたままで、座っていた。

 聞かずとも好かった。

 彼女の良いように、このまま、任せてやるべきだと、頭では考えているはずなのに、身体はこわばり、無意識に奥歯を噛んでいた。聞きたいことが、まだあった。それは、


「……それで、言いたいことは全部かよ。言い逃げか」


 口の中で呟き、両手を額に押し当てる。それは、聞かなくてもいいことだと、頭ではわかっていても、堪えられない。確かめたい。彼女が、あんなふうに微笑めばこそ、確かめなくては我慢がならない。そういう手に出るのであれば、切り札があるのだ。彼女をつなぎとめ、ひきずり出せる切り札が。


 静かな澄んだ響きが、まだ耳の裏に残っている。逃げないで、と、彼女は言った。


――だったら、あんたはどうして逃げるんだ。


 その一言が、背中を押した。立ち上がり、真正面を見つめてゆっくりと、社殿の階段を下りる。石畳に靴の裏が届いたところで、数則は髪も押さえず、中空に声を張り上げた。


「姿を現せよ、レイコ。




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