5 もうバカこのバカ話聞かないバカ


 茜が闇に沈みかけていた。本殿の裏から横に回り、様子を伺う。振り返るが、レイコはいない。追いかけてこられたら厄介だと思っていた分、やや拍子抜けがした。石塊を靴裏が削る音に、逸れた気をまた戻す。

 杉の大木は柔らかな夜風にさざめき、蝉の音は常よりも静かだ。裏手の山から、何とも知れない虫や鳥たちのコロコロとした羽音や輪唱が耳を優しく撫ぜている。

 男は何かを探しているようだった。視線の高さ的には、誰か、というべきか。光希の話を思い出す。小中学生の女子を中心に、出会いがしらに刃物をかざして殴る蹴るを繰り返し、時にはそれ以上のことを、行うという。口の中が、乾いているのに気づいて呼吸の荒くなるのを意識して抑えた。男は、しばらく諦めきれない様子で鳥居のあたりを何か探すようにぐるぐると巡っていたが、やがて濃くなる影を見下ろすと、石段をぶらぶらと下り出した。

 テレビで見た尾行くらいしか知識はないが、何か彼女の手がかりを得られるかもしれないのだ。数則は小柄ではない。どちらかといえば背は同年代にしては高い方だ。それでも、刃物をちらつかせては小中学生に暴行を繰り返す噂の通り魔が相手かと思えば自然慎重になり、距離は取らざるを得なかった。

 それが仇になったらしい。石段を下り、坂道に出て、角をいくつか曲がったところで……、呆気なく見失ってしまった。首を巡らせるが、人影すらもない。遠くに、自転車のベルを微かに聞いた気がするくらいだ。

 ひとつ、深い溜息をつく。

 あたりは暗いし、慣れない山歩きで足腰は限界だ。未練はあるものの、あまりに遅くなれば母もうるさい。何も今日に拘る必要もないだろうと、諦めてもと来た坂道を引き返す。

 自動販売機の明かりに靴の先が照らされる。足を止め、缶コーヒーの一角を眺めながら、彼女の震える唇を思い出し、伏せた眼を僅かに上げた。財布の入った鞄も置いて来てしまった。


「……なにやってんだろな」


 ポケットの小銭を探りながら呟いた瞬間、だった。

 自販機脇から影が濃くなり背後から強い衝撃があり、視界が歪んだ。遅れてくる揺れの気持ち悪さに、後頭部を殴られたのだと気づく間もなくアスファルトにしたたかに肩を打った。呻く。歯を腕にぶつけた。振り仰ぐ間もなく腹に激痛。肩に食い込む太い指。強く、押さえつけられ、ぼやけた視界の隅、自動販売機の光に青いジャージと帽子の色、それに混じり鈍い金属の刃が反射したのにぞっとした。背に氷を入れられたかのように、身体が固まる。


「よーぉ……」


 ざらついた低い声で、耳元に煙草臭い息がかかる。もがいても、なぜか身体が動かない。


「……何の用だよぅ、ええ?」

「ッ、がっ、ぐ……!」


 蝉の声が遠ざかる。山に滲んだ茜が薄れていく。日が暮れる中、無言で蹲る背を何度も蹴られ、意識が薄れかけたところで、気のせいか。どこか遠くに、聞きなれた声を聞いた気がした。


「誰か、誰か、お巡りさん!」


――ああ、なんだ……あんなに弱気なくせに、大きな声も出せるじゃないか。


 こんな状況だというのに頬が緩み、不思議と呼吸が楽になった。男が、何かを叫んでいる。


 ………それを最後に、数則の意識はいったんぷつりと薄れて消えた。



 ……

 …………

 頬をぺちりと叩かれて瞼を持ち上げる。

 意識が緩やかに覚醒し、それと同時に痛みが身体に広がっていく。人が、集まっていた。あたりはほのかに明るく、ざわめいている。覗き込んでいるのは、髭の濃い鯉のような顔の中年親父だ。どこかで見たことがあると、痛みと熱にぐらつく頭で考える。唾液を飲むと、鉄の味がした。


「無事か。どこぞで見たことあると思ったら、おめえ、結城さんとこのカズ坊か。何でこんなところにいやがんだよ」

「……ぁ」

「あんだよ、その目は。穏やかじゃねえな」


 見覚えのある険しいぎょろ眼と細髭に、記憶がようやく一致する。光希の父親だった。ついで、彼女のお説教を思い出す。そういえば警察が神社あたりの見廻りを強化しているという話をしていた、かもしれない。耳に残る涙声の、届くところに運良く人がいたのだろう。


「こりゃあひどくやられたなぁ。立てるかね。まずぁ病院と、お袋さんに電話を入れんとな」


 運が、良かったとしかいえない。完全に腰は抜け、膝ががくがくと震えていた。男は、既に暴行の現行犯で逮捕され、連行されたらしい。あっという間の逮捕劇だったとか、なんとかいうことだが、それよりも、神社の方が気になって仕方がない。


「……荷物が神社にあるんですが」

「お袋さんに聞いとくよ」


 言ってみたがだめだった。救急隊員に背を起こされて振り返れば、神社はとっぷりと闇に沈み、レイコの影は確認することすらできなかった。

 泣き声が、まだ耳に残っている。傷にしみる夜風に、気の早い秋虫の求愛が混じっていた。



 ◇



 痛みの割に、怪我は意外と浅かった。幸い入院するまでもなく、数日の通院で普段通りの生活に戻ることができそうだった。人間の体は意外と丈夫にできているものらしい。そうはいっても包帯は目立つわ痣は残っているわで、塾でも図書館でも注目を集めざるを得ない。

 なかでも忠告したのにとご立腹の光希の怒り様は凄かった。もうバカこのバカ話聞かないバカと一年分くらいの『バカ』を聞いた。理太が彼女の口を押さえてくれなければ一生分は言われていたに違いない。


 母はさすがに徒歩での帰宅を心配し、どうあっても近道は通らないでくれと結構なバス代を渡してくれた。が、実際に領収書を持って来いとは言われなかった。小遣いみたいなものである。そもそも犯人は捕まったのだから、心配にしても今更すぎる。母はどこか、ずれているのだ。何より母は忘れているらしいが、バスは一時間に一本で、しかも近場のバス停は自宅から徒歩十五分の薄暗がりだ。あまり変わらないのではなかろうか。


 というわけで、数則はバス代を温存し、夏期講習の帰り道、例によって葉鉢神社への角を曲がった。盆は過ぎて残暑見舞いの季節だというのに、空は薄青くてずいぶん暑い。自販機を横目で見やり、別に傷害事件の場合には、人の形がテープで張られたりはしないのだな、とどうでもいいことを考えながら自分の顔を手で仰ぐ。髪を切るべきかもしれない。


「あ、あのっ……」


 枝葉ざわめく静謐な影に靴が踏み出しかけたところに、後ろから不意に声を掛けられ、数則は肩越しに振り返った。ショルダーバッグが、腰の脇で揺れる。


「あんたか」


 心配のあまり、神社を抜け出て、坂道で待っていたらしい。薄くなる夕空の下、真っ青になって、青痣と包帯を見つめる花朱高校の制服姿が、自販機脇に立っていた。気づかず通り過ぎてしまったのを謝ろうかと考えて、あまりにレイコの顔色が悪いので思い直す。無事の印に軽く手を振って、泣きそうな彼女と一緒に石段をゆっくり上る。塾のときも思ったが、階段になると、蹴られた腹が少し痛い。

 手水舎脇の参道を通り、狛犬の横を抜け。いつも通り、本殿の賽銭箱前に荷物を置く。足元で威嚇するカマキリを避けて、横の少女をちらと見る。俯いたまま一言も発しない彼女が、待っている言葉はわからない。だからまずは、気になっていたことをひとつだけ聞いた。さわさわと、夏の草が足元で揺れる。


「あんた。あの通り魔のこと、知ってたんだな。それで、近付く俺や女子たちを、追い返していたんだな」

「……ごめん、なさい」


 小さく、震えながら。レイコは拳を握って頷いた。数則は困った。


「何で謝るんだよ。俺は責めてない」

「ごめんなさい。あたしが、もっとちゃんとカズくんのこと、追い返しておけばよかった。話をするのが楽しかったから、甘えちゃったの……、ごめんなさい、こんな、こんな怪我、ごめんなさい………」


 だから、謝られるのは、おかしい。数則は替えの履きなれないスニーカーで足元を掘り、首裏を掻いた。


「俺が勝手に来ただけだろ。……それに、あいつはレイコのことが見えないんだから、あんたには何もできなかったろ、仕方ないって」


 言葉を切り、錆と汚れでくすんだ鈴に視線を移して、小声で付け加える。


「あんたは、俺にしか見えないんだよな?」


 その問いは、届いていなかった。レイコは膝を折って賽銭箱前の階段に腰掛け、顔を覆っていた。じわじわと周囲の景色が揺らぐ。彼女の体温が上昇して、肩が小刻みに震えている。胸元から漏れる呻きのようなものは、泣き声だった。ようやく、気づく。

 彼女は、……風だ。泣いても涙が出ないのだ。


「し、仕方なくなんて、ない。あ、あたしはカズくんが傷つけられても何もできずに見ているしかないんだよ、全然何もできないの、それがわかってたのに、カズくんが話しかけてくれて嬉しかったから、男の子なら大丈夫かもしれないって、勝手に思、て、だから、他の女の子みたいに、突き離せなかった。だめだったのに。仲良くなったらだめだったのに。ごめんなさい、ちゃんとあたしが………」


 語尾が途切れ、しゃくりあげながら途切れ途切れだった自責が、……細長いすすり泣きに変わる。涙は落ちなくても、彼女は顔を覆って蹲り、膝を抱えて泣いていた。

 数則は、社殿のざらついた板目に手をついて腰を上げると、鞄から財布を出して小銭を探り、手水舎の脇を通り、鳥居をくぐって石段を下りた。

 八月下旬の暮れ方、茜が薄い水色にひとしずくだけ混ざる頃。緩い空気に、腕の包帯が薄く染まる。石段の中頃で足を止めれば、午後の名残りの空の下に見慣れた街並みが見えた。坂道途中で小銭を自動販売機に落として一番端の淡く赤いボタンを拳で押すと、一秒して鈍い音で転がり落ちた青い缶を掴み取る。初めて買う、彼女の好きなコーヒーの缶だった。

 ラベルを読みながら、階段を大股に上り鳥居をくぐり手水舎脇を抜け、未だ蹲っているレイコに歩み寄り、屈むと、額部分に冷たい缶を押しつけた。レイコの藍色の襟と細い肩が、びくりと跳ねる。潤んだ瞳がそろそろと、屈んで俯く少年を見る。缶を押しつけると額に沈むところだけが、彼女が人間でないことの印だった。


「あのな」


 女子を慰めたことなどないから、何が正しいのかよくわからない。髪を掻きながら、言葉を探す。


「そんなに謝らないでくれよ。声だけだって十分だったよ。あんたが、叫んでくれたから助かったんだ。ありがとな」

「貰っても、飲めないよ」


 弱弱しくとはいえ、ようやく、レイコは目元だけで微笑んだ。言われてみればそうだった。仕方なく、自分でプルタブを開ける。肘が痛んだ。『高級豆・ブルーマウンテンを贅沢にブレンドした』と謳うその濁った液体は甘く、苦く、とても美味しいとは思えなかった。

 会話もなく、賽銭箱の前に並んで腰掛ける。飲みきった空き缶は、泣いていた彼女の温度で既に温くなっていた。代わりに、冷たい缶を持っていた右手をしばらく当ててやる。


「ひんやりして、気持ちいいね」


 レイコは擦りつけるように、さらさらした前髪を揺らして手のひらに頬を触れさせていた。数則からすれば、温くて変な感じがするだけなのだが、実態がなくともそういうことをされるとリアクションに困る。

 格好良くお手柄などとはいかなかったが、通り魔は逮捕され、とりあえずの危機はもうない。何かを故意に忘れているような気もして、それでも、今はあまり考えたくないと思いながら、落ち着かない日の入りを、ただ境内に座り込んでいた。


 夏休みは、残り少ない。あとは、彼女の身元を探るだけだ。

 もし、彼女があの男の被害者であったなら。逮捕された通り魔の調べが進めば、苦もなく数日中に、わかるかもしれないことだった。


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