琴座のαとマーメイド
琴座のαとマーメイド・その1
はじめは、うち捨てられた外装に見えた。
それかガラクタ。
荒森の中間領域、長城側に林立する曲線の残骸に背をもたれ、その何かは擱坐していた。
誰か、自分と同じようにしてゲーム空間を抜け出してきたプレイヤーの抜け殻かとも思ったのだが、外装にしては見覚えがなく、アシタバの記憶にない外装が、荒森のこんなところまでやってこられるはずはなかった。では作業用の企業向け外装かというとそういうことでもなさそうで、アシタバはその何かへ接近していった。
アシタバは、荒森の中に広がる仮想空間で巨大企業群が主催しているオンラインゲームの参加者である。より正確には、参加者が操る「外装」と呼ばれる自律型のデータだ。
巨大企業群は世界各地の荒森型の実仮想空間での労働力を求めており、労働は巧みなゲーミフィケーションを経たプレイとして展開される。縮めて言えば、外装の操作自体がパズルを解く作業に対応する。腕の動きと表計算が結びつくようなイメージでよい。ユーザーはただゲームを遊んでいれば、企業が必要とするなんらかのパズルの解読に寄与することになる。積極的な宣伝による広告収入に頼らなくても、ただ仮想空間で遊び続けていれば小銭が転がり込んでくる。生計を立てるにはそれなりの腕前が要る。
外装とは、実仮想空間内で活動するキャラクター一般を示す。人間のプレイヤーが実空間の自室からキーボードやマウスで操る。ゲームパッドやタッチスクリーンでも、モーションキャプチャーだって自由だ。人型を用いる者が多いが、ブルドーザー型やパワーショベル型等、重機の種類もそれなりにあり、動物とか恐竜だとか、別にどんな姿でもよい。クリアすべきタスクに向いた、自分で操作しやすい外装を自由な組み合わせで選択できる。
アシタバは外装である。
つまり、実仮想空間中に存在するデータであり、誰かに操作されている。誰に操作されているのかをアシタバの方では知らない。自分という外装にプレイヤーがいることを知識として知っているだけであり、「誰かに操作されている」という感覚はない。
全くなくて微塵もない。
あくまでも自分の意思で選択し、行動しているとアシタバは強く感じている。
そうしてそれを信じていない。
アシタバのスキルは高い。ゲームでのランキングにおいて四桁順位より下がったことはかつてない。あいた時間でこうして荒森の深部を探索するくらいの暇があり装備を持つ。自分の稼ぎで外装の性能を買い、メンテナンスを施して稼ぎをさらに積み上げている。
荒森もこのあたりになると、抽象化が甚だしい。木々はワイヤーフレームやポリゴンといった段階をすぎ、くたびれた直線や楕円といった情報に近くなってしまっている。
その残骸らしきものは、かつて木々だった名残の直線と交叉したまま、そこに引っかかっていたのである。
実仮想空間とは、実空間からも仮想空間からもアクセスできる領域を指す。
大浸透の時代、世界各地にそうした領域が形成された。
科学者たちに言わせると、実仮想空間とは「ボクセルと素領域の、湖畔での正面衝突」ということになるらしかったが、一般には「歩いて行ける仮想空間」という説明の方が膾炙している。要するにその「空間」へは、物質・情報両面からアクセスすることが可能で、直接的に手を握り合う。
実仮想空間の利用価値はほとんど無限と考えられて、各国の政府や企業が手近の実仮想空間へと殺到した。
以降、人類史はその面目を一新している。
あちらこちらで劇的な刷新が見られたものの、多くの人々の生活は特に変わらないまま残り続けた。今や、かつての超富裕層がどこへ行ってしまったのかは、研究者にもよくわからない。ただ、
「森に消えた」
という表現がよく使われる。
人々の生活はあまり代わり映えがしなかったが、技術的なインパクトは、日常へ静かに浸透した。「大浸透」の語は多くの場合、実仮想空間の出現そのものではなく、そこから生まれた技術が社会の姿を静かに、しかし急速に変えていった時代を示すために使われている。
実仮想空間内で、物質と情報が通じあっているならば、こちらから情報を突っ込んで、向こう側から物質としてとり出すという過程が成立しうる。
実仮想空間は、情報-物質、物質-情報転換装置として機能するのだ。
PC経由で荒森内にアクセスし、キャラクターで突き進む。そのキャラクターが森から外に出ることができたなら、森の外には「そのキャラクターが物質として立っている」。
それとも、実空間から病人を実仮想空間へ送り込んでデータ化する。そのデータを検証、調整、修復してから実空間に戻すことで、病気を取り除くことだって想像できる。情報を書き換えるだけで、病気を治すことができる理屈だ。病気に限らず、人間離れした能力を付与することも、人間を越えさせてしまうことも、想像力が及ぶ限りのことが、想像力自体を鍛えることが実現しうると考えられた。
現実は、なかなかそうは進まなかった。
ゲームの外装は仮想空間から中間領域を経て実空間方向へ進むうちに、ロボットのようなものとして物質化が進み、やがて彫像のように停止した。実空間に暮らす人間たちが森の奥へ進んでいくと、自らの体の抽象化により、身動きがままならなくなりはじめる。中間領域を過ぎる頃には呼吸ひとつの調整も生体脳の手には負えなくなり、というのもそのあたりでは、脳もまた情報化を蒙りはじめて物質という拘束を脱ぎ捨てようとするからで、そこから先へ踏み出すことは機能的に困難だった。
実仮想空間へと深く潜りすぎた者の人格が不可逆な変化を受けることは珍しくもなかったし、実仮想空間の中での負傷が、実空間においてどのように再物質化するかは未知数であり運の要素が多く絡んだ。ほんのかすり傷にみえたデータの損傷が内臓を深く傷つけることが起こり、気持ちの変化が記憶の改竄として現れたりした。
いつしか人は、実仮想空間から自然と距離をおくようになり、距離をおくようになった者たちが従来どおりの生活を維持することに成功した。
アシタバのように、あえて整備されていない実仮想空間を独自に探索する者の数は決して少なくなかったが、人口内の比率としてはゼロとみなして構わなかった。
だから最初、アシタバは自分がみかけた曲線のもつれ合いの正体を見抜けなかった。抽象的な代数操作によって知恵の輪みたいな絡み目とランデヴーしてみてはじめて、それが「実空間からここまで歩いてきた人間」であり、自分が人を抱き起こしていることに気がついた。
落書きみたいな曲線の絡み合いはゆっくりと大きな目を開き、アシタバは慌ててその体をゆさぶった。振動が曲線をほつれさせることを怖れて手を止めた。
「君、名前は」とアシタバは問い、
「城戸好一」ともつれた曲線は意外にしっかりとした声でこたえた。
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