第5話 世間体第一

昔から世間体を何よりも大切にし、相手の感情は二の次という、非常に自己愛の強い女性だった。母親がそのような人間であることを見抜けなかった時代は、友達親子のように仲が良く、よく買い物にも同行を迫ったものだった。


いつの頃からだろうか。

中学生の頃か。高校生の頃か。


おそらく成長に伴い、楓のアイデンティティーが徐々に確立していく課程において、母親に対し徐々に不快感を抱くようになってきたのだろう。

居心地の悪さを感じるようになっても、庇護下にあるうちは、言いなりになっておいた方が何かと便利である、という嫌らしい計算だけは早かった楓は、極端な刃向かい方はしなかった。

 母親の思想的な呪縛から逃れたいと思い、東京への進学を志し、まぐれでそこそこ有名な大学に合格したとき、母親は泣いて喜んだ。

聞かれもしないのに、町内会中に進学先を言って回っていたと、後で妹から聞いた。

 大学卒業後は地元に帰ってきて、堅実な企業もしくは県庁にでも就職してくれるだろうと思いこんでいた母親は、卒業してからも東京でずるずると教員採用試験を受けながら講師を続け、夢を追い続ける娘に対し、だんだんと憤懣を覚えるようになっていった。

「教師になってほしいなんて、一度も言ったことはない。」

このセリフは何度も体にぶつけられた。

妹の地元就職と共に、楓側に発生した個人的な事情で、姉妹一緒に戻ってくることになり、母親は狂喜乱舞したそうだが、その華やかな舞は、長くは続かなかった。

都落ちした娘に与えられた特別支援学校の仕事は、母親の抱いていた鏡鑑とは明らかに異なるもので、さらに苛立ちに不要な火を放ったようだ。

自分の思い通りに動いてくれない楓の存在そのものが、今もなお一層、母の自己愛に磨きをかけている。

そんな母親を上手く手のひらで転がし、結婚資金の援助受諾までこぎ着けた妹の手腕には、大いに舌を巻いたものだ。昔から要領の良い妹ではあったが、このコミュニケーション能力の高さは正直、うらやましくて仕方がなかった。もちろん母親を動かしたのは、この能力だけでなく、妹がゲットした結婚相手が年収1千万円を下らない商社マンということも、母親の心をやさしく撫でてくれた要素であったことは誰の目から見ても明確ではあったが・・・。

「誰かいい人、おらんがんかいね。」

会話が途切れると、すぐに彼氏を作れという督促が始まる。楓は食べるスピードを早め、シャッターを完全に下ろした。

「そんな仕事しとるから、男もできんのやろ。はよ、辞めまっしま。」

特別支援の辞令を断って、もし次の仕事の斡旋が来なかった場合、母親はもっと楓を厳しくののしり続けるだろう。そんなことが容易に想像できるから、楓は言い返す言葉を味噌汁とともに飲み込んで、席を立った。

       

二月末に行われた妹の結納も無事終わり、結婚式が行われる八月末を迎えた。その席で、妹夫婦から驚くべき発表がされた。なんと清花が、妊娠三ヶ月なんだという。出産予定日は三月末だと言うことも、重ねて報告された。

「僕たちに、新しい家族が年度末に誕生します。性別も分かっていて男の子です。生まれましたら、お披露目しますので是非わが家にお気軽にお立ち寄りください。」

男の子が生まれると言うことで、婿母は涙を流して喜んでいた。森川家の円卓では、ちょうど私の向かいに座っていた両親が顔を見合わせて、柔らかく微笑んでいた。

確実に妹の結婚、そして新たな家族の誕生という温かい幸せは、母の自己愛をもう一度やさしく撫で回してくれる手となるはずだった。

        

 妹の結婚式が終わった1ヶ月後、楓の元にも朗報が飛び込んできた。  

なんと奇跡的に、楓が教員採用試験に合格したのだ。駄目元で、毎年受けていた楓は、東京時代と合わせて七度目の正直で正規職員になる切符を手に入れた。

 楓はこの合格をいちいち両親に報告はしなかった。半年前に家を出て、1人暮らしを始めていたし、母親も妹の長男誕生の準備に走り回っていて、楓の存在を忘れている様子だったからだ。


寝た子を叩き起こすような真似はしたくない。


楓は東京時代も含め、四年程特別支援教育に従事してきた。これを教育委員会が無視するとは思えない。講師時代に特別支援に従事していた人は、正規職員になっても、特別支援人材枠に放り込まれる可能性が高いことを先輩職員から聞いていた。年度末に初任校が告げられるので、それまでは自分から余計なことを言わないでおこう、年度末になって赴任先が決まり、母親に聞かれたら、報告しよう、それまでは自分から何もアクションを取らないでおこう、と固く心に誓った。

       

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