途切れた舞台の真ん中で
公園のブランコに誰かが座っていた。寂しそうに、たったひとりで。暇つぶしに来ていた俺と友達がいないそいつは、お互いにとっていい遊び相手だった。
そいつはたぶん、違う小学校のやつだったんだ。顔も名前も知らない。もちろんどこに住んでいるのかも。
またここで遊ぼうと約束した。
「指切りげんまん嘘ついたらハリセンボン飲ーます!指切った!」
「えっ?なんかイントネーションが変じゃなかった?」
そいつは困惑する俺を指さして無邪気に笑っていた。それを見た俺もなんだかおかしくてつられて笑った。
「またな!」
「また!」
どうもベッドから落ちたらしい。全身にじんわりと痛みが広がっていく。
「……ゆめ?」
俺はかすむ目を擦り重い体を起こしゆっくりとベッドに座った。そして大きく伸びをしさらに小さく深呼吸をした。ようやく意識がはっきりとしてくる。
何度かその公園で待ち合わせしてそいつと一緒に遊んだ。何して遊んだかは覚えてないが仲は良かった……と思う。でも、いつの間にかそうしなくなっていた。理由は、分からない。何か遊ばなくなったきっかけがあるなら忘れないと思うんだが……。例えば喧嘩とか。
どこまでが夢で、どこからが記憶だろうか。分かるのはひとつだけ。夢に出たあの公園は、昨日の帰りに標と行った公園だ。他のことはまるで黒マジックなんかで塗りつぶされたみたいに思い出せない。
早朝の通学路は静かだ。車も自転車も歩行者もほとんどいない。今の時期は蝉がいてさほど静かとも言い難いが人がいるよりはずっといい。この通学の時間を疲れた心を癒やす時間に使える。まあ、今までは。
通学路のど真ん中、蝉なんけよりもずっと存在の主張が激しいやつを見つけた。あれだけ目立つものをどうして今まで気づかなかったか不思議でならない。
俺は自転車で疾走する銀髪ツインテールを追いつくため、スピードを上げた。
「よう」
「あ、おはようですセンパイ!」
太陽のような眩しい笑顔で言った。本当に無邪気な子供のようなやつだ。どうしてこんなに暑い中でいつも元気でいられるのか、いつか訊いてみたいものだ。
「そういえばセンパイ。なんでいつもこんな朝早くに学校へ行くんですか?」
「え?んー、まあ別にいいだろ」
「えー、気になる。部活の朝練とか?」
「いーや」
「まあそうですよね。部活入ってなさそうな感じしますもん。文化部はもちろんですけど、運動神経も悪そうだし……」
本人を前になんてこと言いやがる。だがその予想は間違っていないので何も言い返すことができない。
俺はせめてもの抵抗として自転車の速度を上げ九重から離れた。
「あ、ちょっ。待ってくださいよー!」
今までこうして朝や登校時に人に会うことが無かったから問題なく過ごせたが……。部活でもないのに朝早くに学校へ行く。この状況は人から見てやはり不自然だ。指摘されても理由を話さないならより一層な。
「センパーイ、もう詮索しないからゆっくり行きましょーよ〜。あんまり汗かきたくないですし」
九重は軽く額に汗を浮かべ心底嫌そうな顔で俺を見て言った。そして実際に速度を緩めると鞄からタオルを取り出し顔を拭いたり、肩やおなか、脇なんかが汗をかいてないか確認していた。
あまりそういうことを気にしなそうな子供っぽいやつだがやっぱり乙女。身だしなみは気になるらしい。
突然、ふっと強い風が吹いた。ゆらゆらと銀色が九重の頭から離れてちょうど俺のいる方へ流れてきた。どうにかそれを捕まえようと手を伸ばしてはみたが、予想していた進路を外れ俺の顔めがけて飛んできた。
「おぶっ……」
一瞬で銀色が俺の視界を奪った。これぞまさに言葉通りの一面銀世界。あ、いやいや変なこと考えている場合じゃない。
俺は冷静に自転車のブレーキを握り止まった。
それはとても軽いものだがしっかりと慣性の法則に則って俺の顔面から剥がれ落ち、予め出していた手の上にうまく乗っかった。
「だっ、大丈夫ですか!?」
自転車を止めて駆けつけてきた九重は心配そうに俺の様子を伺っていた。
「ま、なんとかな。ほらよ」
「ありがとうございます。先輩」
丁寧な物言いと動き。さっきまでとは似ても似つかない。
九重はそれを受け取ると急いで被った。風紀委員スタイルからわんぱく銀髪ツインテに一瞬にして変身した。次にこちらへ顔を向けたときにはいつもの笑顔になっていた。
「おまえ、ほんとズラの有無でキャラがめちゃめちゃ変わるよな」
「そーですか?」
九重はこのカツラに何を感じているのだろう。自分を変えるきっかけか何かだろうか。そう、例えば自信のような。あるいはまさか、こいつを被ると誰でも無邪気でわんぱくな子供になってしまう魔法でもかけられていているんじゃないだろうな。
俺は自転車へ戻っていく九重の風に靡く銀髪をじっと眺めながらそんなことを考えていた。
そう言えば髪色に関して九重以上に印象深い人物がいたな。
「なあ、軽音部にいるピンク髪の人。あれは地毛なのか?」
「千歳センパイのことかな。まっさか〜、ウィッグですよ」
「そうか」
九重の話では軽音部のメンバーは全員、まあ派手なカツラを被っているという。シルバー、ショッキングピンクにリーフグリーン、レディッシュゴールドなどなど多彩だ。
もしやその人たちは九重のようにカツラを取ったら人が変わるんだろうか。
「そりゃ随分とカラフルだな。しかしそう聞くとなんか銀髪ってどちらかというと地味に思えてくるな」
「えー?!そんなことないですよー!すっごく目立ちますよ銀髪!」
「いやー、ピンクのが目立つ」
「むう!」
まるでフグかハリセンボンのように頬を膨らませ、目がつり上がっている。どうやらちょっと怒らせてしまったようだ。
だがどうした、迫力のないやつめ。小さな子供が怒っても怖くも恐ろしくもなんともない。むしろかわいいくらいさ。
「じゃあセンパイは何色がいいんですかっ!」
「んー、そうだな……」
俺は改めて九重を眺めて質問についてまずまず真剣に考えてみた。オレンジ、赤、黄色なんかの暖色系なら九重に似合いそうだ。しかしそれではつまらない。今はあえて似合いそうにない色を選ぶのが正解だ。ならここは寒色系、青か白かそのあたりがきっと……。
「よし!水色なんてどうだ?」
「み、みずいろ?」
その言葉を最後に九重は黙り込んでしまった。
「おい、どうしたんだよ」
「んー」
何か悩んでいるのか眉間にシワを寄せて唸っていた。しかしすぐに目をパッと開いてこちらへ振り向いた。
「分かりました!」
いったい何をどう分ったというのかこちらはさっぱりだ。まさに今、俺は開いた口が塞がらなかった。
「じぁあセンパイ、またあとで!」
ちょうど校門へ到着し、困惑するこちらを気にもせずさっさと先へ行ってしまった。
まさかまさか九重は新しいカツラでも買おうというのだろうか。俺の言葉を真に受けてそうするとは思えないが、もし仮にあいつが水色髪にするっていうなら髪型は……そうだな、ハーフアップとかが良さそうだ。
夢は突然に終わる。それは自分の意志とは無関係だ。
ポコっと、この脳に響く振動と後頭部に感じる重み。夢の世界から引っ張り出される嫌な感覚。もう何度目か分からなくなってきた。
たとえ起き上がって目を開けなくても、前に誰が立っているのかなんて俺には分かっている。初めてのことじゃないからな。
「榊、たまには起きてたらどうだ?」
「うっさい」
俺は腕を後ろに回し大きく伸びをして身体を整えた。その際に横目で今の時刻と、ついでに周りの状況を確認した。
ホームルームまであと5分程度。教室内はすこしずつ生徒が集まり、それぞれの会話で賑わい始めていた。
あらためて目の前の標に視線を向ける。
「どうだ?目は覚めたか?」
「まあまあだな」
すっと振り上げられた本。次に来る展開は容易に予想できる。それはとても良くないこと、阻止する必要がある。
「いや、たった今覚めた!」
標は俺の言葉に小さなため息をついて本を置いた。そのままずっと黙っている。
はじめそれは俺のだらしない行動に対する呆れかとおもったがどうも違うように思える。しかしそれが何とは答えられない。ただ漠然とした違和感がある。
何か言い出そうとしているようだ。でもそれがなかなか出てこないのか、視線もあちらこちらへと泳いでいて目が合わない。合わせないようにしてるとも見えるが、だとして俺には理由が分からなかった。
「なんだよ。なんか訊きたいことでもあるのか?」
そう訊いてもはじめはしばらく悩んでいたが、ようやく決心したのか口を開いた。
「い、いや、あのな?昨日のこと。公園について、あの後、何か思い出さなかったか?」
「え?」
そんなことを?と、最初は思ったが標の真剣な表情からするに何かこう、こいつにとって相当重要な問題なのだろうというのが伝わった。
「夢を見たよ」
「夢……?」
俺は今朝に見た夢の内容を覚えてるだけ話した。
「そんな夢を……」
「ああ、実際に起きたことかは分からないけどな」
「……うん、分かった。ありがとう」
標はそう言って席に戻っていった。そのときのあいつはなぜか笑顔だった。頬を赤くしてとても嬉しそうにしている。小さな声で何か呟いていたようだが、俺には聞こえなかった。
上機嫌にされるのはいいことだと思うが、不自然にそうだとこちらはすこし不安になる。何を考えているんだか。
普段のあいつはあまり笑わない。標はいつも怒っているような顔や話し方をする。もちろん実際にそうじゃないことは分かっている。ただ真面目であらゆる物事に真剣というだけなだなんだろう。おっかないけど。まあだから今みたいに不意に笑顔を見ると不覚にもかわいいと思ってしまったりする。
「これがギャップってやつか……」
長い長い午前中の授業はようやく終わりを迎えた。その直後だ。俺に机の上を片付ける暇を与えもせず真っ先に話しかけてきたやつがいる。
「なあ榊、ちょっと訊きたいことがたるんだが」
驚いたことにそれは標だった。いつもならあのアホが俺を購買に誘うこのタイミングでまさかの標だ。ちなみにアホの空閑はまだ隣で夢の中だ。
まさかまた今朝のことを訊こうというのだろうか。なんとなく俺は適当に冗談で返事をしてみた。
「なんだ?俺の苦手な食べ物でも訊きに来たか?安心しろ、俺にそういったものはない。おまえが作ったものならなんだって食べてやるぞ」
「な、なにを言って……」
「なんだって!?」
その声を聞いた瞬間、俺はとんでもない過ちを犯したことに気づいた。そう冗談なんて言っていいタイミングじゃあ無かったんだ、と。
なぜなら、今の今まで眠っていたアホが目を覚ましたからだ。珍しく午前の授業を受けに来たのかと思ったら登校してから結局ずーっと居眠りし続けていた空閑が今、この一番面倒なタイミングで。しかもえらい大声を出し、さらにさらに机と椅子が前後にぶっ飛んでしまう勢いで立ち上がってくれたおかげでクラス中の視線は俺らに釘付けだ。
やってくれたな。
「お前ら……やっぱりそういう仲だったんだな!」
俺と標を交互に何度も震える腕で指差しながら叫んだ。かなり動揺している。
「いや違うぞ空閑、これはな」
落ち着かせようと俺はことの説明しようとしたが、空閑は待てよと言わんばかりに手のひらを向け俺を制止した。不意に言葉を詰まらせ話すのをやめてしまった。
「いいって堺。僕には全て分かっているさ」
うちのクラスにそんな名前のやつはいないぞ。動揺しすぎて友達の名前すら間違えているじゃないか。
「おい、だから」
「うんうん、ああ大丈夫だよ。分かってる分かってるって……」
自身になにか言い聞かせるように空閑は何度も頷きながらそう言った。そしてゆっくり後ろへ下がっていく。小刻みに少しずつ短い歩幅でちょっとずつ。
「うん、そうだね。邪魔しちゃ悪いな」
「おいって」
「堺!僕、今日はひとりで購買に行くよ……。だから、ごゆっくりぃー!」
呼びかけに一切答えることなく一心不乱に教室を飛び出していった。空閑を掴もうと伸ばした腕が行き場を失ってだらんと振り下ろされる。
その直後。
「こらー!廊下を走るなー!」
「いぃやあぁー!」
河守の怒号が聞こえたと思ったら次はあいつが走っていった方向とは逆方向に何かが吹き飛んでいった。状況的に空閑が飛び蹴りを喰らったに違いない。
俺は一段落したと一息ついてはじめの問題に取り掛かった。
「あー、悪い。で、なんだっけ?」
空閑のことなんてまるで何もなかったかのように振る舞うと、意図を察してくれたのか標も普通に返事をしてくれた。
「あ、ああ……。月城さんは普段、昼休みの間は屋上にいるんで間違いなかったか訊きたかったんだ」
「月城?……まあ、そうだな」
そういえば、標も昨日から文芸部員なのだった。部員として月城に訊きたいことでもあるのだろう。
ただそのそれだけを聞いてさっさと屋上へ行ってしまうだろうと思っていたのだが、何故かまだ動こうとしなかった。まだ話しがあるのだろうか。
「な、なあ、さっきの話。ほんとか?」
「さっき?」
「私が作ったものなら……って」
「んー、まあな」
「そうか」
標はそっと小さく微笑んでいた。
いや、分からん。質問の意図はさっぱりだ。まさか急に明日から俺への弁当を作ってくるなんてことないだろうしな。
「それじゃ」
標は教室を出ていった。その後、俺も机の上にある教科書やノートを適当に机の下に突っ込んで立ち上がった。そして教室を出るため扉を開けたときだった。
「うお」
「あっ」
すぐ目の前の廊下を女子生徒が歩いておりぶつかりそうになった。既の所で回避できたので適当に謝りさっさと行ってしまおうと思っていたのだが、そいつの顔を見たとき俺は言おうとしていた言葉を忘れ固まってしまった。
「あ」
なぜなら目の前にいたのは花柳紡だったからだ。偶然とは思えないというのは身勝手な妄想だろうか。
「すみません。ぼーっとしてて」
「いや、俺こそ」
こういうとき何か話すべきなんだろうか。空閑、九重、標なら適当な無駄話がいくつか思いつく。月城なら部活の話をすればいい。河守や神尾相手なら一目散に逃げる。知らない相手なら無視するのも選択肢のひとつだ。それじゃあ花柳はどうする。無駄話をするほどの仲でもないし、他人ってほど無関係な相手でもない。会話をするには知らなすぎ、か。
「あのー、もしよかったら一緒にお昼、どうですか?」
話題を提供してくれたのはありがたい。だがしかし、どう返事をしていいか分からなかった。素直に誘いを受けるべきか、あるいはただの社交辞令として流すべきか。
「ダメ、ですか?」
「ダメというか、なんで俺と?」
「いろいろ考えてみたんですけど榊さんとどんな話をすればいいか思いつかなくて、その原因は相手をよく知らないことにあると気づきました」
「はぁ……?」
「なので、一緒にお昼を食べながらお互いのことを知るいい機会になればなぁ、と。それと傘を貸してくれたお礼をしたいのですが何も思いつかなくて、それについてもお訊きしたいので」
「別にいいのに……」
知らないなら分かるまで話そう、という訳か。
話さなければ知られない。訊かなければ分からない。俺はそれで良かった。しかし彼女はそうではない、と。真面目なのか好奇心旺盛なのか。どちらにせよ俺とは違うな。知らなくていいことは知らないままで、全てはイベントに対するリアクション。わざわざ何か行動することは俺にはない。
だけど……そう。これも花柳の発生させたイベントに対するただのリアクションなんだ。
「分かった」
俺がそう言うと花柳はぱぁっと笑顔になった。
「でも俺はこれから購買行かなきゃなんだが、いつもどこで食べてるんだ?後で行くよ」
「いえ、でしたらついて行きます」
ということで花柳と購買へ行くことになった。女子と二人並んで廊下を歩くというのはなんとも恥ずかしいものだった。
道中、何を話せばいいか分からず俺から口を開くことはできなかった。そんな俺とは反対に花柳はあれやこれや質問をしてきてくれた。
「好きな食べ物はなんですか?私は甘いものが好きです」
「辛いものだな。甘いのは苦手だ」
「……私は辛いものはちょっと」
俺は振り返って彼女の顔色を伺った。すこししょんぼりしたような表情だった。言い方がそっけなさすぎたかも知れない。
「それじゃあ好きな天気は?私は晴れです」
「雨かな」
「休みの日は何をしてますか?私は絵を描いたり御本を読んだりして過ごしています」
「最近は図書館に行ってるな」
「私もたまに行きます!」
ようやく共通点がでてきたが、残念ながら俺には先の展開が読めていた。しかし何も知らない彼女は心底嬉しそうに目を輝かせた。
「私もです!どんな本を読むんですか?」
「悪い。俺はあそこに本を読みに行ってるんじゃなくて、涼みに行ってるんだ」
「あ、そう……ですか」
肩を落とし目の輝きが失せた。ひどくがっかりさせてしまった。とても気まずい空気になってしまったがやはり俺にはどう声をかければいいか分からなかった。
購買に到着し中に入るとなんと空閑がいた。長い行列の中程に並んでいる。俺は気づかれないようにそっと外に出て花柳に廊下で待つようにと伝えた。
「どうしてでしょう?」
「どうしてもだ」
あれに花柳と二人でいるところを見つかったら面倒だからだ、なんては言えはしない。
再び購買に入ったときにはなぜかさっきまで行列に並んでいた空閑の姿がなかった。まずまず後ろの方だったからそうすぐに買えることはないはずなのだが。
俺は室内を見渡した。すると、場合によってはあの阿呆よりも厄介な男と目が合った。そいつは部屋の奥にある席に空閑と向かい合うかたちで座っていた。
神尾依都、あいつは俺にニヤリと一瞬笑ってみせてその後はなにもアクションを起こさなかった。どういう意図があってのことかは知らないが、とにかく俺を見なかったふりをしてくれたようだ。
事情はよく分からないが見つかるリスクを考えて俺は適当にパンと飲み物を買い急いでここを出ていった。
廊下で待っていた花柳と合流した。
「で、どこで食べるんだ?」
「演劇部の部室です」
聞けば花柳は元演劇部なのだという。去年、訳あって廃部になってしまったらしい。その訳については訊いても教えてくれなかった。
とにかく今は演劇部部室にはもう誰も来ないので、ゆっくりするには最適の場所なんだそうだ。
「普通、こういう部屋は鍵とかかかってるんじゃないのか?」
「壊しちゃったんですよ。でも先生は盗られて困るようなものないしいいだろうって、そのままなんです」
「また適当な」
「ふふっ、そうですね」
演劇部部室と言っても、部屋の隅に演劇に関する小道具やら衣装やらが詰まった段ボールがいくつか置かれているだけの空き教室だった。
部屋の真ん中に椅子と机が2つずつ、向かい合うように置かれている。奥側に花柳が、俺は手前側に座った。
「いただきます」
さっそく花柳は弁当を食べ始めた。内容はいたって普通だが、ひとつ気になることがあった。
「小さい弁当だな。そんなんで足りるのか?」
「はい。私、少食なので」
「自分で作ってるのか?」
「夕飯の残り物を詰めてるだけです。自分で作ってるのは卵焼きくらいですね」
卵焼き。人によって甘くしたりしょっぱくしたり、あるいは味付けしないでケチャップをかけたりといろいろだが、ネギっぽいものが見えるところを考えるにしょっぱい系だろう。
「食べてみますか?」
「いいのか?」
蓋の上に卵焼きをひとつ乗せて俺に差し出してくれた。
「それじゃ、いただきます」
「どうですか?」
てっきり出汁のしょっぱさだけかと思ったらほのかに甘みも感じる。これは食べたことはない味だ。悪くはないが、だがこれを旨いか不味いか正直に言うと。
「まあ、どっちでもないな」
「普通そう思ってもそんなはっきり言わないですよ」
「俺は思ったことを正直に言う方だ」
俺はこうして一緒にお昼を食べることになったもう一つの理由を思い出した。傘を貸してくれたお礼について話したいと言っていたのを。例えばどんなものを考えていたのか訊いてみた。
「プレゼントを贈る、とか」
「傘を貸しただけでそんな、受け取れるかよ」
「……それじゃあ、どんなことをして欲しいですか?」
「そうだな……」
特にこれと言ってして欲しいことなんてのはなかった。そもそも傘を貸したくらいでこんな展開になるなんて想像にさえしていなかったくらいだから。
あのとき、何も考えなかったんだ。ただ、そう……なんとなくだった。
「とりあえず保留で、俺にも考える時間をくれよ」
「んー、分かりました。それじゃあまた明日訊きます」
「おう、そうしてくれ」
見返りとかお礼とかそういうことは考えてなかった。ただこいつが昇降口で傘を持たずに呆然と突っ立っていて、俺は傘をふたつ持っていたから声をかけたんだ。
もし、どうしてそんなことをしたのかとこいつに訊かれたら俺は自信を持ってこう返すだろう。俺にも分からない、と。
いつかその理由が分かる日が来るんだろうか。分かりたいわけじゃないが。
何も聞こえないがぼやける視界の先で誰かが口を大きく開けている。たぶん、叫んでいる。誰だろう。何が起きて……いや。
これは。でも……。なんで、今、こんなものを。
さて、面倒な授業が全部終わった。とっとと帰ろうと鞄を方に回し立ち上がったところを標に呼び止められた。何事かと思えば何故か忘れずに部室へ行くように、と言われた。
「なんでって……、君こそいったい何を言ってるんだ。まったく」
俺は少しだけ頭を働かせた。そしてすっかり忘れていたあることを思い出した。つい昨日から俺は文芸部部員になったのだった。
「あぁ。で、おまえは?」
「ちょっと用事があってな。大丈夫、終わったら行くつもりだ」
「委員長の仕事か?」
「そんなとこだ。それじゃ部室で」
標とは廊下で別れ、俺は文芸部部室である第三多目的室に向かった。
その途中、渡り廊下の中央で腕を組み仁王立ちしている威圧感ある女子生徒を見つけた。そいつに見覚えがあった俺は、あまり関わりたくないと思い迂回のため引き返した、が。
「待ちなさい!」
この近くにあいつと俺以外は誰もいない。間違いなくあの言葉は俺を呼び止めるものだ。ああ、なんだか急に足が重い。
「よ、よう」
逃げたって仕方ないだろうから諦めて返事をした。振り返ると河守はもうすぐ目の前まで迫っていた。
「なんで逃げようとしたのよ。あたし、あなたには別に何もしてないわよね?」
まあ確かに、俺にはしてないな。俺には。
「それより、俺に何か用か?」
「そうそう。あなたに訊きたいことがあるのよ」
いったい情報室がこんな一般生徒を捕まえて何を訊こうっていうんだ。そっちで勝手に調べればいい……いや、それができない情報、か。
「あなた、神尾とは仲良いの?」
「え?」
意外な質問だったのでつい黙ってしまった。だが他に何を訊かれても結局は同じ反応をしていた自信はあるが。
それより河守が神尾について調べているはな。情報室がメンバーのことを詮索しているんだ。相当厄介なことに間違いないと思う。
「あなたたち、購買で仲良さそうに話してたじゃない?どうなのよ」
「い、いや、あれは別に神尾が一方的に来たんだ。……そう言えば俺に興味があるとか変なことは言ってたな」
「あんたに?ふーん……そう。分かったわ。それじゃあね」
「それだけ?」
「そうよ。他はこっちで調べられるもの」
警戒しすぎだった気がする。あいつはそれだけでどこかへ行ってしまった。
事情は良く分からないが今後もこんなことが続くんだろうなと、こころのどこかで確信していた。
変なことはあったが、ともかく文芸部には到着した。
俺は扉に手をかけたときふと思った。一応、文芸部員なのだからやはり月城のように小説を書くべきなんだろうか、と。
俺は何故かやけに重く感じる引き戸を開けて部室に入った。
「ちーす」
部屋は妙な違和感を感じた。なんだかそう、いつもより静かだった。物足りない欠けているそんな感覚を覚える。
違和感の正体を探しつつきょろきょろしていたら月城と目が合い互いに小さく会釈した。自然なことだと一瞬は思ったが違う。集中している月城は誰が部室に入ろうが気づかないはずなんだ。よく見れば月城の手が止まっていることに気づいた。
「なんだ、なんか悩んでるのか?」
部室内はいつもの小説を書き進めるカリカリ音が足りなかったのだ。
俺の質問に月城は小さく頷いた。俺は月城の前の席に座ってどんなところで行き詰まっているのか確認するため、書きかけのノートを手に取り読んでみた。
「ふむふむ……。戦闘シーンが終わって、これは」
まず、てっきり最後まで生き残ると思っていたキャラクターが死んでいて驚いたが、その死亡したキャラクターの魂的な存在とライバルみたいな人の対峙するという面白い展開だった。もちろんライバルに魂は見えていない。
そして詰まっているのはその次、ライバルが仲間の亡骸に向かって投げかける言葉だった。
「難しいな……」
「うん」
二人でノートとにらめっこを続けていた。俺は前のページを読み返したりしてこのキャラクターがどんなことを思いそうか考えていたり、月城に言葉にしていない二人の関係を訊いたりした。
「シンプルに、後のことはあたしに任せろ、とか?」
「他には?」
「じゃあ戦闘で取り乱してたし、お互い馬鹿だよな、みたいなのは?」
「悪くない」
「実は好きでした!とかも」
「それは……」
「そうなのか!?」
驚く声のした出入り口の方へ振り向くとそこには標の姿があった。よりにもよって一番厄介そうな部分だけ聞かれてしまったようだ。
「違うぞ標、誤解だ」
事の経緯を細かく説明し、俺が月城にまるで愛の告白でもしたかのような場面の誤解を解いた。
「なんだそういうことか」
「おまえも何か案はないか?」
「そうだな、何も言わず敬礼するだけとかもいいんじゃないか?思ってもあえて口にはしないというような」
「なるほど」
月城は標の意見を気に入ったのか2回も頷いていた。
そして何か思いついたようで続きを書き始めた。どのようになるのか気になるところだが今は見ないでおくことにした。
それで標はというと、俺の隣に座りノートを広げて何か書いていた。そこに書かれていたのは授業の内容ではなく物語だった。てっきり勉強しているのかと思ったら、小説を書いていたのだ。
どうやら標は俺のように名前を貸したのではなく、純粋に文芸部に興味があったようだ。
俺に覗き見られていることに気づいた標がノートを慌てて閉じた。
「こら!勝手に見るな!」
「悪い悪い」
「こういうことは初めてだからな、全然まとまってないんだ。完成したら読んでもいいから、それまでは待て」
ノートの表紙にはピーちゃんの大冒険なんて可愛らしいタイトルがつけられていた。ひよこが主人公なのだろうか。完成を楽しみに待っているとしよう。
標は俺の鞄が雑に置かれた机をじっと見ていた。
「君は書かないのか?」
「俺?俺は別に……ノートもないし」
「文芸部に入った以上は君も書くんだ。ノートなら私がまだ持っているから。ほら」
標からノートを差し出された。そのノートをいらないと言って押し返そうとしたが、月城がこちらをじっと見つめていることに気づいた。
無表情なので何が言いたいのかはっきりとは分からないが、ただ俺の動向に注視していることは確かだ。小説を書くことに集中していたはずなのに、その手は今は止まっている。
標もずっとこちらを睨みつけていた。
「……分かった。書くよ」
俺は場の空気に押されて仕方なくノートを受け取り小説を書くことを約束した。
月城は再び物語を書き始めた。
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