小さな公園
ある意味それは太陽と言える。地上に輝く銀色の太陽。しかし太陽の光を受けて輝いていることを考えると、あるいは地上の月と言うべきだろうか。見かけはそうだとしても、やはり俺からすればあれは太陽で間違いない。俺の思考をかき乱し無条件に温度を上げていく。夏の太陽そのものだろう。
九重の銀髪は早朝の静かな通学路の先に輝いていた。俺はペダルにより強く力を込めた。自転車は加速し頬をつたっていた汗を風がどこかへ持っていった。
「よう」
俺は九重の横についた。声をかけたがこちらに振り向こうとしなかった。むしろ俺の姿を見まいと反対を向いた。昨日のことをまだ怒っているのだろう。
「なあ、昨日のあれは誤解なんだって」
「えっちなセンパイのことなんてもう知らない!」
そう言い口を尖らせた。ほっぺた膨らませて赤くなって、笑顔もそうなら怒り顔もまた子供のようで可愛げがある。
九重は俺から逃げるように自転車を加速させた。俺も引き剥がされまいと小さな背中を追いかける。
「待ってくれよ!あれはおまえの……その、む、胸のことを言ったんじゃなくて、身長のことを言ったんだ!」
「えっ……」
俺の言葉を聞いて九重は足を止めた。自転車は徐々に減速して俺は追い越してしまった。ついには止まってしまい、俺も続いてその場でブレーキをかけた。
振り返って声をかける。そのとき九重の瞳に輝きはなかった。
「お、おい、どうしたんだ」
「センパイ酷い。気にしてたのに……」
俺は思わず言葉を失った。これは昨日の放課後に聞いた台詞とまったく同じだというのに、言い方次第でこうも印象が違うものなのかと。
九重の瞳や言葉、表情から伝わってくる。絶望という二文字が。俺の目にはっきりと見える。その小さな身体を覆う黒いオーラが。
いつもの元気は何処へ。どうやら九重にとって身長が低いことは胸が小さいことよりも重要な問題だったらしい。
「だ、大丈夫!これからだって!」
俺は無理矢理にでもこの暗い雰囲気を変えようとわざとらしく明るく言ってみたが、九重にはさほど響かなかった。
「小6から変わってないんですよね。まだ成長しますかね」
そして悲しそうにはははと小さく笑っていた。瞳に輝きが戻りそうにはない。
「ま、まあ、身長なんておまえが思ってるほど周りのやつらは気にしてないと思うぞ」
「そうかな……。センパイは?」
「あー、ほら!大きいよりは小さい方が可愛く見えると思うぞ」
何言ってるんだろうな俺は、そんな茶化すような言葉で元気になってくれるわけないよな。
「んー、そっか」
謝ろうかと思っていたら九重から黒いオーラが消え瞳に輝きが戻った。なぜかニヤニヤしていて、もういつもの無邪気に明るい子供のようになっている。
女の子のことは難しくて本当によく分からない。
「そう言えばセンパイ、うちのライブ見たことありますか?」
「軽音部の?いや無いな」
軽音部が部活動紹介や文化祭なんかで演奏してるっていうのは聞いたことがある。しかしどちらも寝てたり……寝てて見ていない。
「なんで?」
「寝てた」
「なっ……」
九重はがっかりしたように肩を落とし大きなため息をついた。しかしすぐに切り替え、目を見開いて俺に指差し言った。
「じゃあ次の文化祭でやるライブ、必ず見に来てください!軽音部の演奏やあたしの歌声を聴いたら感動してぜぇーったい好きになっちゃいますよ!間違いなくサイン欲しくなると思うので今のうちに色紙を買っといた方がいいですよ!」
ものすごい自信だ。まあ、無いよりは全然いい。さっきよりこっちの方が断然話し易い。
「はいはい……ってか、おまえボーカルなの?」
「はい!もうバリバリ演奏して歌っちゃってますよ!いえい!」
文化祭は9月末。今年もどこか適当な空き教室に籠もり寝て過ごそうと思っていたが、そうはいかなくなってしまった。
そんな話をしていたら憂鬱な学校に到着した。
机に伏して寝ていたらただなんとなく、頭上に本が構えられていることを察した。俺はもう叩かれはしまいと思い。起き上がってやめろと一言そう言おうとしたときだ。
「おい、急に起き上がるな。手元が狂ったじゃないか」
「ああ、そうみたいだな」
後頭部を目指して振り下ろされた本は俺が起き上がっても止まることはなく、標に文句を言おうとした俺の顔面に直撃したのだった。
「てか早くどけろよ」
俺はすこし強めに本を振り払った。
こんなことなら起き上がるんじゃなかった。寝てたままの方がまだ被害は少ない。
「なあ、標」
しかしちょうど良かった。昨日のこと放課後一緒に帰る件について、俺をどこに連れて行くのか訊きたかったところだからだ。
俺は標に訪ねた。すると標は、それは……と言って口ごもった。しばらく待たされた挙げ句の果に。
「いや、秘密だ」
結局、行き先を知ることはできなかった。
いったいどこへ連れて行く気なのか見当がつかない。あまり親しくもない俺と出歩いて面白い場所でもあるというのだろうか。
他の連中はもちろんだが、標は標で謎が多いやつだ。
「そうだ。昨日はどうだった?」
「昨日?ああ、月城のことか」
俺は昨日の放課後、第三多目的室で起きたことを話した。
「それで榊は文芸部には入るのか?」
「まあ暇だし」
「そうか……」
何か思うことでもあるのか、そんな良いとも悪いとも取れない微妙な返事をした。なんだ俺に文芸部なんて似合わないとでも言うんだろうか。
それより俺が入ったとして文芸部を残すために必要なのはあと二人。月城のやつ、いったいどうやって人を集める気なんだか。
……あいつ、集める気あるよな?
長い長い午前中の授業が終わり、昼休みに。仲良し同士が机をくっつけ合うために移動する音や話し声で教室内が騒がしくなる。
「よっ榊!購買行こうぜ!」
ある意味では昼休みの教室より騒がしいこの男と俺は教室を出て購買へ向かった。
駄弁りながら廊下を歩く。
「おまえ、たまには普通に登校したらどうだ?」
「っへ、無理だね。僕はそんな超人じゃないんだ。早起きなんてできないよ」
「ならその超人より早く来てる俺はおまえから見てなんなんだよ」
「んー、神?」
空閑から見て俺は神だったのか。とんでもない感性してんな。
「な~そう言えばさ。ちょっと前に僕の傘、誰かに盗まれたんだよね。帰るとき雨で大変だったよ」
「嘘つけ、あんときは言うほど強い雨じゃなかっただろ」
「え?まあ確かにそうだったけど……。なんで分かったの?僕の傘が盗まれた日」
「気にすんな」
それは盗んだのが俺だからな。花柳に俺の傘を貸したとき、自分の予備が無かったので借りた傘が空閑のだった。あとで返そうと思っていたが、すっかり忘れていた。
「まあ、口が裂けても言えないな」
「え?何が?」
「いや、こっちの話だ」
俺を疑っているのか何も喋らないでじっとこちらを見つめている。いろいろ言いすぎてしまったしバレても仕方ないだろう。
「よく、口が裂けても言えないって聞くけど本当に口が裂けたら話せないと思うんだよね」
うわ、アホがいる。
俺達はそんなくだらない無駄話をしながら廊下を歩いていた。するとある人物とすれ違った。俺は無意識にその人のことを目で追っていた。
「榊、榊!おい、僕の話聞いてる?」
その人は暗い表情だった。何があったのかすこしだけ気になる。別に知ったからって何かできるわけではないだろうが、あんな顔を見てしまうとどうにかしてあげたい気にもなる。
「おーい」
「あ、悪い」
「何おまえ、紡ちゃんのこと気になるの?」
「いや、別に……ってかおまえ何、あいつ知ってんの?」
「まあね!この学校のかわいい女の子のことならだいたい分かるかな!」
ものすごく得意気に話す空閑だが、正直なところあまり格好のいい話とは言えない。誰から見てもただの変態でしかない。
「紡ちゃんのこと知りたいかい?どーしてもって言うなら、教えてあげないこともないかな〜!」
こうなったこいつは少し面倒くさい。普段なら無視してしまうが今回はそうする訳には……。
俺は彼女の向かった先に目を向けた。そこにはもう花柳の姿はなかった。
「僕はね、河守がいないタイミングを見計らってこっそり生物準備室に侵入してファイルを漁ってるのさ」
「おまえ……」
「大体のことはこの僕の天才的頭脳にインプットされてるよ。すべてはこの僕がこの学校のかわいい女の子がいつどこで告白してきてもいいように準備するため。あるいは、そんな子たちと仲良くなるチャンスを見逃さないために!」
発言も行動もアウトだろ。もう泥棒や変態なんて言葉じゃ片付けられない。学生でそれなら、あるひとつの境地だよ。
「知識は力だよ榊。僕は常に他のどんな男よりも優位に立つために努力しているのさ」
「なんですって!?」
俺が次の言葉を発するよりも早く後ろで誰かがそう叫んだ。そして振り向くと、こちらに向かって走ってくる河守の姿があった。
その表情は鬼、般若だ。同い年とは思えない箔がある。なんて恐ろしいやつ。
「侵入者はおまえだったかぁー!」
しかも忍び込んでるのバレてるし。
「ヒイィィィ!」
次の瞬間には河守は飛び上がり空閑に蹴りを入れられる姿勢になっていた。もう誰にも止められないし、空閑にだって避けられないだろう。
「てんばーつ!」
空閑は河守の強烈な一撃を顔面に喰らって3メートルほど吹き飛び床に倒れ動かなくなった。
「二度としないでよね!もう!」
そう言って河守はこの場を立ち去った。
「壁に耳あり障子に目あり、だ。気をつけろよ」
俺は床に転がってぴくぴくしてる空閑にそう言ってやった。だがおそらくちゃんと聞こえていない。
いろいろあったがようやく購買にたどり着いた。しかしあまりにも移動に時間を使い過ぎた。人気商品は軒並み売り切れ札が置かれ、忙しいピークを過ぎたおばちゃんたちは半分休憩感覚でくつろいでいた。
「くそー、もうあんぱんくらいしか残ってねーよ。榊、どうするよ?」
「仕方ないだろ。俺はあんぱんにするぜ」
あんぱんの陳列棚に手を伸ばした。そしてそれを取ろうというギリギリのところで後ろから声をかけられた。
「ああ、ちょっと待ってくれるかな?」
次はなんだの思いながら俺は動きを止め振り返った。そして驚いた。なぜかそこには見知らぬ男子生徒が立っていたのだ。
ずっとにこにこして嫌にフレンドリーに接してくる気味の悪いやつだった。間違いなく知り合いではない。
俺に面識がないとすれば空閑かと思い横を向いた。するとなんと空閑もこちらを向いた。どうやらお互いそれぞれの知り合いを疑っていたらしい。つまり、目の前の男は俺らに全く繋がりのない人間ということになる。
「榊君に空閑君だね?キミたちを待っていたんだよ」
それぞれの目を見ながら名前を言い当てた。確実に俺たちのことを知っているようだが、肝心の俺らふたりは同時に首を傾げた。
先に口を開いたのは空閑だった。
「僕らを?なんで?」
「まあまあ、話は席についてからにしよう。ついてきてくれよ」
言われるままに移動すると、焼きそばパンとコロッケパン、ピーナッツバターパン、飲み物にコーヒー牛乳とももジュースが並べられた机に案内された。それらの商品は俺や空閑がよく購入するものだった。
ああ、本当に気味が悪い。誰に訊いたって俺らの好みは聞き出せないはずだ。なぜなら他のやつと交流がないからだ。それなのにどうして、こうも的確に揃えられるか。そんなの、ずっと見ている以外に答えはないだろう。
「空閑君はきっと、ポテトサラダも欲しかったよね。残念だけどあれは手に入らなかったよ。ごめんね」
「えっ?どゆこと?これ、僕らが食べちゃっていいの?」
「もちろんさ!そのために買ったんだから」
「やった、ラッキー!いっただっきまー」
「待てよアホ」
疑うことを知らないアホの後頭部に軽くチョップをかまし制止した。
普通に考えれば見ず知らずの相手にこんな無駄なことをするのは変だ。不利益はできる限り避けたいし、なんの目的でこんなことするのか調べなきゃならないだろうな。あの謎の男子生徒は俺らのことを不思議なくらいよく知っている。そうなればあれの関係者であることは間違いないだろう。
あいつらにはあまり関わりたくなかったんだが、向こうから来るんじゃあ仕方ない。
「あんた誰だ?」
「ごめんごめん。まだ自己紹介をしてなかったね。ボクは神尾。3年A組の神尾依都だ。よろしく」
スッと手を出し馴れ馴れしく握手をしようとしてきたが俺は無視した。
「おや、残念」
わざとらしくそう言ってへらへらしていた。
神尾。前に河守がそんな名前を口にしてたのを思い出した。確か……神尾が居なくなったらとっととこんな部潰すわよ、と言っていたはずだ。詳しい事情は知らないが河守がこいつを特別に何か思うところがあるのは確かだろう。
「そんな警戒しないでくれよ。ボクはただキミたちに謝りたいだけさ。特に空閑君にはね」
「僕に?」
「河守がいつも迷惑をかけているようだからさ。今回もそれで購買に来るのが遅れたんだろう?悪かったね。このとおりだ」
神尾は頭を深く下げ謝った。その瞬間だけ見れば真面目なやつだが次に顔を上げたときにはもう元のへらへらした顔に戻っていた。
とにかくこれで神尾がオカルト研究部ないし情報室の人間であることは確定した。
しかし、壁に耳あり障子に目あり。連中にはいつどこで見られているか分かったもんじゃないな。
「それと、キミには個人的な興味もあるしね。榊君」
「先輩……コレなのか?」
「はっはっは!キミは面白いことを言うね!違うから安心してくれよ」
河守といい神尾といい、情報室の人は変わったやつばっかりだ。……いや、改めて思うと俺の周りはおかしさの方向性が違うだけで変なやつしかいないな。
その後、俺らは神尾の買った惣菜パンを食べながら時間まで適当に話して過ごした。てっきりいろいろ訊かれるかと思ったが、会話の中に俺への個人的な興味とやらは出てこなかった。いったい、どういうつもりなのだか。
放課後。俺はシワだらけになってしまった入部届を鞄から取り出し眺めていた。どうしても気になるので折れてしまった端を机に爪で押し付けて伸ばしてみた。だがしかし折り目は綺麗には消えないし紙は脆くなるしで何の成果も得られなかった。
「ああ、ファイルにでも入れときゃよかった……」
作業している俺の手が何者かの影によって隠された。何事かと顔を上げるとそこにはアホが間抜けに口を開けたままこちらを見ていた。
「榊……おまえ、部活やんの?」
怪訝な顔で俺を睨み言った。
そんなに俺は部活が似合わないだろうか。それとも文芸部だからだろうか。どちらにしてもおまえには言われたくないがな。
「まあな。暇だし」
「はぇ〜。おまえが部活とはね。しかも文芸部って」
「ほっとけ」
厄介だな。このあといろいろ予定があるっていうのに、普段なら寝てるだろう?なんでこういう日に限ってこいつは起きてるんだ。
標と一緒に帰るなんて口が裂けても言わないようにしないと。何を言われるか分かったもんじゃないし、変な噂を流されてもたまらない。
「なあ榊、暇だろ?ゲーセン行こーぜ」
「悪いな。今日は予定があるんだ」
「予定?何?あ、もしかしてこれから部活?」
適当にあしらおうとしたが、この最も来てほしくないタイミングであいつは俺のところへ来た。ああ、話の流れなんて完全に無視だ。
「榊、さあ行こう」
標は笑顔で俺に手を差し伸べた。
間違いない、これは何も考えてない顔だ。こいつには空閑なんてアホ、眼中にないらしい。普段はそれでいいんだが今はまずい。ほんの少し意識していてほしかった。
今の標はどこか九重を思い出させる雰囲気。そう、子供のような無邪気に喜んでいるような。そんなものを感じた。何がそんなに楽しいのかさっぱりではあるが。
「え?委員長?なんで?榊に用?」
思っていた通り空閑は標の登場に目を丸くして驚いている。
さて、どうしたものか。
「ほら、もたもたしていると暗くなってしまうぞ」
そう言って標は強引に俺の腕を持って引っ張った。これはもう適当な言い逃れはできない。俺も標の目的をよく知らないから説明も難しい。
よし、諸々後回しだ。今は逃げる。
「悪いな空閑、そういう訳なんだ」
立ち上がって鞄を背負い、標と並んで歩きその場を後にした。
「えっ、どいう訳?委員長と榊ってそういう仲なの?なんで?そんな、嘘だ!榊は……榊は……信じてたのに!」
先に歩き始めた俺らを追い抜いて空閑はいろいろ叫びながら、全力疾走で出ていった。
明日あれになんて説明すれば納得するだろう。標とは友達なんだからそういうこともあるだろ、とか言っておこうか。いや案外、一度寝て起きたら忘れていたりしてな。……ないか。
「なんだあいつは、いきなり走り出して」
お前のせいだ。お前の。
標は俺の手を引いたまま校内を歩き続けた。この珍妙な組み合わせ故だろう。他の連中の視線を独り占め……いや、二人占めしていた。
てっきり昇降口に向かうかと思ったが、どうも方向が違う。まったくの逆方向だった。
俺は標の手を振り払い一度止まってどこへ行く気なのか訊いた。
「どこって、第三多目的室だ」
「は?なんで」
「なぜって……入部届を提出に行くだろう?」
「まあ、俺はそうだけど」
「なら早く行くぞ」
配慮してくれたってことなんだろうか。あるいは別の理由があるか。いや、分からない。
また二人は歩き始めた。
第三多目的室であいつはやっぱりひとりで小説を書いていた。声をかけても反応がない。肩を軽く叩いてやるとようやくこちらに振り向いた。
「何?」
「ほれ、入部届」
月城は俺が渡した入部届をじっと見つめていた。しばらくして少し困ったような顔をして言った。
「くしゃくしゃ」
「な、悪い。書き直した方がいいか?」
「いい、大丈夫」
やはりあれはファイルに入れておけばよかった。
そう話をしていた横からもう一枚紙が月城に渡された。その紙とは入部届で提出したのは標だった。俺は驚いて固まってしまっていた。
「な、なんだ」
「いや、なんで標が……」
「いいだろ別に」
ということでなぜか、俺に加えて標も今日から文芸部員となった。
俺は月城に事情を説明し今日のところは帰ると伝えた。あいつはまた静かに小説を書き始めたので、俺らはできるかぎり音を立てずに部屋を出ていった。
二人で歩く帰り道。自転車の車輪が回るときに鳴るカチカチという音が無言の気まずさをほんの少しだけ和らげてくれる。
標は家が学校の近くなので俺と違って徒歩通学。それに合わせて俺も今は歩いているのだが、むせかえるような暑さと普段あまり運動しないのとが重なって、徒歩が辛い。
もう日が傾き始めているというのに漂うこの熱気。風が吹いてもまったく涼しくない。ああ、クーラーがガンガン効いた部屋で寝転がりたい。そうでなければアイスが食いたい。あ、冷たい炭酸もいいな。
「なあ、まだ歩くんだろ?自転車乗ろうぜ」
「そ、そんな……二人乗りはダメだ。危ないだろう!」
それはどこか、嫌がっているというよりは怖がっているような言い方だった。いつもより少し早口で、そして俺から目を逸らした。
「そうそう転ばないって、な?」
こちらが視線を向けても気づいていないのかそういうふりなのか、うつむいてしまって表情が伺えない。
「そ、それに、そんなところを誰かに見られたら……」
「いやいや、別にそんなことで怒られないって」
どうしても気になり俺はうつむく標の顔を覗き込んだ。俺は驚いた。なんと標の顔はりんごみたいに真っ赤になっていたんだ。
「お、おまえ顔真っ赤だぞ。大丈夫か?暑いなら無理すんなよ?」
何を恥ずかしがっているのか標はカバンや手を使って俺の視線を遮ろうと必死になった。見るんじゃないと猛アピールだ。
慌てて俺は顔を引っ込めた。もし避けなければ暴れる標の手やなんかに当たっていただろう。
「だ、大丈夫だ。これはそういうのじゃない。そういうのじゃないんから気にするな」
そう言われてもそれは難しい相談だ。次に体調が悪そうにしていたら問答無用で自転車に乗せて家に送るか、近くのクーラーがよく効いた店に入ろう。
ああ、それにしても。無数の蝉たちによる酷い大合唱には思考を掻き乱されるな。油断すると標よりも先に俺がぶっ倒れそうだ。
「いったい、どこ行く気なんだよ」
「まだ秘密だ」
今日は一段と日差しが強い気がする。これは間違いなく日焼けする。黒く焼けるどころか燃えて炭にでもなってしまいそうだ。
「まだ着かないのか?」
「もうすこしだ。この坂を登った少し先にある」
「まじかよ」
高い、長い、日陰が無い。心臓破りとはこういう坂のことを言うんだろう。炎天下のアスファルトは恐ろしく熱い。靴がまるで高温の釜のよう。足がこんがり焼かれてしまうんじゃないか?
なんとか登りきった先、そこはただの住宅街だった。それ以外は特に何もないように思われる。
「あっちだ」
言われるまま住宅街の道を右に左にと進む。すると小さな公園の前に来た。
「ここだ」
どうやら一緒に来てほしいという場所はこの公園のよつだ。なぜと思いつつも、ここは記憶のどこか引っかかる光景だった。
「とりあえずあそこのベンチで休もう」
「そうだな」
俺らは木陰に一つだけある横長ベンチに座った。そうするやいなや俺は鞄から下敷きを取り出しうちわ代わりに扇いだ。
冷たくない常温の風だが扇がないよりはましだった。
「それで、この公園がなんだ……って!」
俺はまさかの出来事に一瞬の間、体が固まった。
恐らくさっきまでは日差しが白色で反射して見えづらかったんだろう。しかしこうして影に入ったことで白が目立たなくなったんだ。
標の服は汗で肌に張り付き、いろいろとあまり見えちゃいけないものが見えてしまっているのだった。
俺はどうにか理性を呼び戻し無意識に胸へと向かおうとする視線を頭を標と反対に向けることで阻止した。
「榊、どうしたんだ?」
「いや、俺は何も見てないぞ!まだ何も見てないから!」
「突然何を言っているんだ?」
自分があられもない姿になっていることにまだ気づいてないらしい。
「どうして反対向いているんだ?こっちを見てくれ」
「できるか!」
俺の方へ身を寄せ顔を近づけているのが気配で分かる。ああ、絶対に振り向く訳にはいかない。
「そ、その服!着替えるか上に何か羽織るかしてくれ!」
「え?……あ!」
やっとこの緊急事態に気づいた標は恥ずかしさからか顔が真っ赤になった。慌てて鞄からジャージを取り出し上に着た。
「も、もう、大丈夫だ」
「なんか、すまん」
「いや、私こそ……」
気まずくてどちらも言葉を口にできない間、俺は公園を眺めていた。やっぱりどこか見覚えがあるような気がしてならない。いつか遊んだことがあったのか、ただ通りかかっただけだったのかは分からない。
「この公園、何となく見覚えあるよ」
「本当か?」
「いや本当にぼんやりとだから、ここで何したかとかそういうのはまったく……」
ただひとつ思うのは。
「この公園、もうすこし広かったと思うんだ。身体が大きくなったせいで窮屈に感じてるってだけかも知れないけどな」
今よりもずっと小さい時、小学校低学年かはたまた幼稚園生か。ここに来たことがあったとして、それは相当に昔の話だ。
「……そう、か」
標はそのあとに小さなため息をついていた。その横顔はどこか寂しい、悲しそうに見えた。俺にどんな反応をしてほしかったのだろう。
「それで?どうして俺をここに?」
「うん、覚えているかどうか訊きたかっただけだ」
いったいどういう理由からそれを訊きたかったのかを質問したが教えてはくれなかった。何か言おうとはしていたのだが。
もしや、昔この公園で標と遊んだことでもあったんだろうか。だとしたらそれを思い出して欲しかったんじゃ……。いや、まさかな。
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