想い出は、時に

柿沼 アオ

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 想い出は色褪せることもある。

 だが、刻一刻とその鮮明さを増していくこともある。さながら、ネガフィルムを暗室でゆっくりと現像するように。その瞬間を、焼きつけるように。

 心に焼き付く想い出は美しいこともある。

 だが、美しいものが残酷なこともある。


 或いは、初めから残酷な故に美しいのか。


 その夏、自分は高校三年生で、受験勉強に忙殺される日々を送っていた。


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 叔父に頼まれて、自分は寂れた村のコンビニで深夜の店番をしていた。名目は親戚の手伝い。実情は気分転換を兼ねたアルバイト。尤も、そんな建前を用意せずとも、校則も世間体も、大した問題ではなかった。何しろ、そんな田舎で、深夜にコンビニを利用する人なんてそもそもいないのだから。

 予定だと、一週間このバイトは続ける予定で、「いらっしゃいませ」の一言を言うこともなく迎えたこの日は四日目だった。つまるところ三日間はついに誰も利用客がいなかった。


 ギーギー、チリチリチリ...8月を目前にした今日は夏の盛りだが、夜も深まってくると、田舎のコンビニ特有の少し汚いガラス越しに虫の音が微かに聞こえる。

 手元に開いていた参考書とノートから目を離して、時計をみる。既に時刻は深夜1時を回っていて、客は相変わらず来る気配がない。バックヤードで勉強をしてもよいのだが、自分の性質上、本気で集中してしまったら、数少ない客をみすみす取り逃すことになるだろう。


 (あと、4時間)


 古い蛍光灯が時折パチッパチッと軽く点滅するのを眺めながら、そんなことをボーっと考える。


 そんな時であった。彼女が現れたのは。

 ウィーンという無機質な自動ドアの音と、ピンポーンピンポーンという高い音が、それまでクーラーの鈍い音しか存在しなかった店内に響く。

 白いワンピースに、同じく白を基調とした、つばの大きく広がったブリムハットーー所謂、女優帽と言われるものに近いーーをかぶっていた。顔は帽子で隠れて見えないが、スラっと伸びる肢体は女性であることを加味しても、細く真っ白で、透き通っている。


 理由は分からない。

 理由は分からないが、彼女のその姿は確かに自分の心の琴線に触れて、自分はその一瞬、呼吸をすることも忘れて彼女を見つめていた。初めてのお客さんだというのに、「いらっしゃいませ」の一言もかけずに、思考停止していた。

 彼女は、そんなこちらの様子には気にもとめずに、店内を歩いて回っていく。


「い、いらっしゃいませー」


 数時間ぶりに発せられた自分の声は、動揺と相まって、少しかすれて僅かに上ずる。自分からは全く見えないが、帽子で隠れた彼女の目が柔らかくなったような気がした。

 彼女は、その後ゆっくりと店内を見て回っていた。何を探していたのかは分からない。今考えると、何も探してなんかいなかったのかもしれないが、その時の自分が知る由もない。ただ、華奢な彼女が、何かを確かめるような足どりで店の隅々まで見るのを眺めているだけだった。


「...お客様、何かお探しでしょうか?」


 彼女は何かを探しているのだろう、そう考えて、話しかけてみる。しかし、返事はない。店内を一周して、レジ横にいる彼女は、聞いているのかどうかすら分からない。


「お手洗いなら、向かって右手奥の、少し分かりづらいところにありますよ」


 適当な配慮をして、喋ってみる。自分の声だけが室内に木霊するのが、虚しい。

 これ以上は話すこともなくなったと思い、手持無沙汰に時計を見ても、以前として1時過ぎのままで、急に時間が経ったりなどしない。

 窓ガラス越しに、古い蛍光灯に群がった蛾がバサバサと飛んでいる光景が視界に入る。気が滅入りそうだ。

 そんなことを考えていると、彼女は白いワンピースを僅かにはためかしながら、スーっと自分の目の前を通過した。ほんのりと潮の香りがした...気がする。


「ねぇ、店員さん」


 今まで沈黙を保っていた彼女が口を開く。



 唐突の質問に意図が読めず、困惑する。が、既に自分には答えないという選択肢がなかった。案外、会話というものに自分も飢えていたのかもしれない。


「嫌いじゃ、ありませんよ」


 咄嗟に出たのはこんな言葉で、我ながら随分と素直さの欠けた返事だと思う。それでも、彼女の口角は僅かにあがっていた気がする。


「そう....じゃあ、きっと今はいい季節ね」


「えぇ、確かにそうかもしれませんね」


 自分は夏生まれでもあったので、昔から夏が好きだった。年齢が上がると自分の誕生日の特別さなんていうものは薄れていってしまうが、それでもなお、夏は好きなままだった。


「少し、お話をしてもよいかしら」


 自分が黙っていると、彼女は特徴的な、少し甘いおっとりとした声で話しかけてくる。

 勤務中に1人の客とゆっくり談笑というのは決して褒められた行為ではないのかもしれないが、どうせ次の客は来ないだろう。


「どうせ自分も暇なので、特別ですよ」


 立ち話もなんだと思い、申し分ない程度に設置されているイートインコーナーに腰掛ける。叔父さんには言わなければそもそもバレることすらないだろう。何しろここにいるのは自分と彼女の2人だけなのだから。


「私の話をする前に、貴方自身ことを聞きたいわ。ねぇ店員さん」


「...自分の話、ですか..」


 何をどこから話せばよいのだろうか。赤の他人に何を話そうかと考え始めると、自分の生活が、平凡で起伏も情熱もない、恐ろしく薄っぺらいものに思えて驚く。


「...やっぱり、自分の日常なんて、面白くないですよ。平々凡々、山も谷もありませんね。いや、谷は何度もあったかもしれませんが」


「...そう。そうかしら。多分貴方は色々な経験をしてきたと思うけれど」


 彼女は妙な確信を持って話すが、残念ながら一般人の自覚をもつ自分には、やはり分からない。


「そうでしょうね、それは人並みには。

 良いことがあって、悪いことがあったと思いますよ」


「...そういう話を聞きたかったのだけど」


 そう言われても困るというのが事実であった。日常は、道端で100円玉を拾うような小さな幸運やら、家の中でタンスの角に小指をぶつけるような小さな不運やらで溢れかえっている。


 何かを言おうとして口ごもる彼女を尻目に、自分は、スッと席を立って、コンビニに据え置きのコーヒーマシンに、それ用のプラカップを置く。

 独特な音と、珈琲の芳醇な香りをたてて、カップに珈琲が注がれていく。

 彼女はそれを黙って見ていた。

 計2つの珈琲を淹れると、出来たての珈琲を座っている彼女に差し出す。


「サービスです」


「...ありがとう」


 コンビニにしては、良く出来すぎた味だ。自分はまだ、缶コーヒーのチープな味の方が好きな年頃かもしれない。


「珈琲は、苦手でしたか?」


 彼女は珈琲を受け取ったものの口をつけていない。彼女が、フーフーという動作をしたときに、僅かに帽子がズレて、右の目の下の黒子が見えてしまい、なんだか見てはいけないものを見た気分に襲われる。


「いいえ、そんなことはないの。そう、嫌いなんてことは」


 やけに含みをもった言い方だとは思いつつ、再び彼女の横に腰掛ける。

 二人、並んで、静かにチビチビと珈琲を啜る。


「自分の身の上話はこれでお終いです。今度は貴女の番ですよ」


 他人の身の上話を聞きたがる人は、自分の身の上話を話したい人。そう相場が決まっている。


「...私は、私の話は...そうね...そう、私には


「...?」


 彼女はゆっくりと立ち上がると、出入り口のところまで歩いていく。


「...少しだけ、付き合ってくれないかしら」


「うーん、乗りかかった船というやつですね..」


 飲みかけの珈琲を机に置いておく。レジは鍵も締めておいたのでまあ大丈夫だろう。



 彼女に連れられて外へ出ると、曇り空で、湿った生暖かい空気が自分を呑み込む。


「...ついてきて貰えるかしら」


 月明りもなく、自分の足元すら暗がりに包まれる夜道だというのに、彼女は確かな足取りで進んでいく。

 自分は彼女の白いワンピースを頼りに後を追う。2人で何を話すでもなく歩いていると、とにかく虫の鳴き声が騒がしい。

 チリチリチリギリギリギリコロコロコロ..都会では到底聞くことのない大合唱に辟易する。

 彼女は足早に歩くので、自分は少し遅れてしまう。しばらくすると、曲がり角に立つ古い電灯の下で彼女は立ち止まった。

 帽子のせいで目元は見えないが、電灯を見ているようだ。田舎では珍しくない、その電灯も彼女には珍しいのだろうか。

 それに倣って、電灯の方を見てみる。...光に群がる蛾がたまに、ポトッと死んで落ちてくるのが見えるくらいで、何も特別なものは見受けられない。


「...もう着くわ」


 もう数分歩いて彼女がそういうと、いつの間にか辺りの木々が開けて、波の音が聴こえるところに来ていた。

 足元のザクッという感触は確かに砂浜であり、疑いようもない。

 海辺の村なので砂浜に出ることに驚きはないが、明らかに地元に住む人の恰好には見えなかった彼女がここまですんなり案内したことに驚いた。


 彼女はいつの間にか波打ち際近くまで行っていたので、自分はシャクシャクと、砂を踏み分けて、追いかける。


「...今日は悪い天気ね」


「月も星もない夜は、文字通り真っ暗ですよね」


「...」


「...」


 暗闇に溶けるような真っ黒な海がたてる静かな波音が、沈黙を包み込む。


「...ねぇ、私は人じゃないかもしれないわ」


「...」


 何かの比喩だろうか。兎にも角にも意図が読めない。だが、もし万が一、億が一、その言葉が真実なら、彼女の持つ、自分には抗い難いこの魅力にも説明がつくのではないだろうか。


「...信じていないのね」


「伊達に平凡な人生を生きてきたわけではないですから。常識は堅いんです」


 口先ではそう嘯くが、既に揺れている自分がいる。

 彼女は、自分から目を離して続ける。


「...でも、多分、貴方は信じることになるわ」


 彼女は波打ち際で足に波がかかるくらいのところまで歩くと、振り向いてこちらを見る。


「私は、人じゃないの。だから、多分、別の法則ルールに縛られているの」


 私にもはっきりとは分からないけれど。と小声で付け足しながら、彼女は続ける。

 自分は沈黙を保つことしかできない。寄せては引く波が砂浜に残す、白い泡の軌跡が、自分と彼女の境界線を主張しているようにさえ見える。


「...最初に1つ、貴方に質問をするの」


 海の好き嫌いの話だろうか。


「...貴方がはいと答えたら、次は浜辺ここへ連れてくる」


 確かに自分は今ここに来ている。


「...時が来たら、最後に1つ質問をするの。そして貴方がいいえと答えたら、それで貴方とは別れるの」


 彼女は少し困ったような苦笑を浮かべて、そんなことを言う。それは、全てを諦めて受け入れるような、そんな苦笑だった。


「もし、その法則を破るとどうなるんですかね」


「...貴方が、自分の心臓を自らの意思では止められないように、最初から、破るなんていう選択肢は私には与えられていないの」


 自分は口を閉じる。あたりを再び波音が支配しようとするが、なぜか今はそれが耳障りだ。


「じゃあ約束通り、話を聞かせて下さい。ちゃんと最後まで聞き届けますから」


 彼女のことを知りたい。ただ、純粋にそう思った。


 彼女は、自分の横に戻ってくると、彼女自身の身の上話をポツリポツリと語り始めた。

 曰く、気が付くとコンビニの近くで目を覚ましたこと。曰く、自分の名前はよく分からないこと。曰く、海が好きと言われたとき、本当に嬉しかったこと。曰く、人に珈琲を入れてもらったのは初めてだったこと。曰く、自分の優しさが時に胸を痛めつけること。曰く、夜道でも道は明るく見えること。曰く...


 彼女は何でも話した。何年も前からの親友のように、二人で笑った。舌が乾いて使い物にならなくなるまで、とにかく喋った。恐らく、彼女の“人生”の全てを自分に話してくれたのだと思う。

 途中で

「ところで、君って幽霊なのかい?」

と聞いて

「馬鹿ね、そんな怖いことを聞かないでくれるかしら」

と返された時には、“あぁ、彼女はどこまでいっても人間なんだ”と改めて気付かされ、こちらが苦しかった。


 ザパーンザパーン。喋り疲れる二人は、並んで波の音を聞く。何分、何時間経っただろうか。相変わらずの暗闇。もういっそ、永遠にこの場所だけは、暗闇で閉じて、世界から隠しておいて欲しい。何度も本気でそう思った。


「...そろそろ、いかないとね」


「...」


「...確認するわね。貴方は、質問に関わらず”いいえ”と言って別れるのよ。絶対よ」


 彼女は自分の隣から動いて、波打ち際に。立つ。いつの間にか分厚い雲はなくなっていて、空は白みがかっている。

 風にたなびく彼女のワンピースがよく映えていた。


「...ねぇ、貴方?」


 帽子を抑えながら少し微笑んで彼女は問いかける。

 世界から、虫の音も波の音も、何もかも消え去った気がした。

 時間が止まった気がした。

 自分に迷いはない。砂をザクザクと踏みしめて、境界線波打ち際を超えて、彼女のもとへ


「ああ、許されると思うよ」


 彼女は、心底嬉しそうな、悲しそうな、泣きそうな顔をすると、その細腕から考えられないような力で、自分を掴む。


 その手は、冷たい。


「...なんで、なんで....どうして....早く、早く逃げて...!...なんで、逃げないのよ...」


 そう話す間にも、二人は沖へ沖へと、海に呑まれていく。


「だって、1人は怖いんだろう?」


 彼女はどこまでいっても“人間”なのだ。海に沈もうとする彼女の手は、恐怖で震えていた。


「それに、君になら流されてもいい。そう思ってしまったから」


 そんな彼女の背中に手を回して、抱きしめながら自分は呟く。


 朝焼けが照らす。2人の全てを上塗りするような白で視界を染め上げる。

 キラキラと輝く水面が、波の立てる飛沫しぶきが、二人を包み込む世界の全てだった。


 ドプンッ


「... ・ ・ ・ ・ ・」


 まばゆい光に包まれた世界で、彼女は何かを伝えようと口を動かす。

 その一言が分からなかったのが、唯一の心残りだった。




ブクブクブクブクブクブクブクブク





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 生憎、次に自分が目を覚ましたのは、砂浜だった。

 生きていることを悔やむ自分に気づき、苦笑する。

 海辺には彼女がいた痕跡が、何一つない。潮も満ちてしまったし、そもそも、最初から彼女に足跡なんていうものはなかったように思える。



 全てが夢だったのだろうか。



 コンビニに帰ると叔父が待ち構えていた。ビショビショになった自分の姿をみて、怒るよりも先に心配していた。

 色々な声をかけられた気がするが、もう、自分にはそれを受け止める余裕がない。

 のっそり、のっそりと、コンビニの自動ドアを通って、バックヤードを目指すと、途中、イートインコーナーに二つの珈琲を見つける。


 いずれも、わずかに量が減っていた。

















 そんな気がする。











 

 

 

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想い出は、時に 柿沼 アオ @violet-murasaki

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