落日の濡れ花火
山猫芸妓
一話
強い風が木々の隙間を通って行った。
萌葱、浅緑、深緑。
決して一つの緑には括れない木の葉達が、互いに揺れあい、擦れあってここでしか出せない音を奏でて行く。
歌声の様でもあり、叫び声、一種の怒号の様にも感じられるその音が、森の端から端までをくぐり抜けて私のところへやってきた。
歓迎か、はたまたその逆か。
風はそのまま私を通り過ぎて行き、耳鳴りがするほどに澄んだ静寂が、辺りを包み込んだ。
森は音を奏でるのを止めた。
鳥や虫の鳴き声すら聞こえない凪の森に、ただ私の足音だけが木霊する。
季節は春の終わり、または夏の始まりか。つい昨日までは雨が降っていたのであろうこの森の地面からは芳醇なペトリコールが香って来る。
──鐘の音が鳴る。
音の方向には、廃れた鳥居に朽ち果てた社。
家主の健在は誰も知る由がないが、少なくともここ10年は手入れがされていない場所であるということは誰の目から見ても明らかだ。
鳥居をくぐり、社の前までやってきた。
地面に鈴紐が落ちている。
雨水や泥を吸ってそのまま月日が経った様な、そんな朽ち方をしているその紐は、とても鐘を鳴らせる様な状態ではない。
社の戸は開いており、鈴紐と同様朽ち果てた賽銭箱が置かれている。
しかし鈴紐も無ければ鐘も無かった。
──先程の鐘の音は何処から鳴ったのだろうか。
賽銭箱の上に何かが置いてある事に気が付く。
蒲の穂によく似たスパーク花火。長い年月が経っていることは明白で、湿気きってはいるが辛うじて原型をとどめていた。
なんのけ無しにそれを手に取ってみた。
──瞬間、起こる追憶。
セピア色に褪せた映像が頭の中に流れ込んでくる。
赤、青、黄、終いは白。
火薬が酸素を食べて、多彩な色を吐き出す。
『花火、楽しいね』
『来年もまたできるかな』
『またやろう』
『ここのカミサマはね、火のカミサマなんだって。狐みたいな見た目をしてるんだってさ』
『ここで花火をしたら、カミサマもきっと喜ぶよ。また来年、絶対やろうね』
濡れた様に黒い長髪の少女が、花火を横目にこちらへニカッと笑みを向ける。
『そうだ、一緒にお参りしよっか。』
自分よりも背の高い少女に手を引かれ、一緒に鐘を鳴らした。
淡い、ひと夏の思い出。そう見えた。
──気が付くと、鈴紐と同じ目線になっていた。
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
あれはなんだったんだろうか。
"追憶"とは称したが、私の脳にそれに該当する記憶は無かった。
…思い出せないだけなのか、それとも他の誰かの記憶なのか、はたまた幻覚か。
立ち上がり、服に付いた汚れを手で払う。
大きな風が吹き、木の葉が擦れ合った。
どこからか、視線を感じる。
周囲を見渡すと、鳥居の下に"あの"少女がいた。
みどり髪を風に靡かせ、真っ黒な眼でただこちらを見つめているだけの少女は、私に何かを言う訳でもなく、その場を立ち去った。
さぁ、先へ進もうか。
彼女が進んだ方向に私も歩を進めた。
小一時間ほど歩くと、森を抜けた。
そこにはかなりの規模がある盆地が広がっており、周りのほとんどは木々で囲まれている。
それを見下ろす形で、私は立っている。
盆地には、かつては朗らかな営みがあったであろう廃集落があり、その家屋のほとんどは焼け焦げ、風化してしまっていた。
その中心に、先程私を見つめていた少女がいるのが見えた。
あちらは私に気付く事なく、比較的無事に見える家屋の中へ入っていった。
彼女を追うように、私も集落へと下りていった。
ひび割れた石垣の階段を慎重に下りていき、荒れ果てた簡素な舗装道を歩いて先へ進む。
人の気配どころか、何らかの生物の気配さえないその集落はどこまでも気味悪く感じられ、家屋の廃れ様と轟々と木々を吹き抜ける風と相まってとても受け入れ難いものだった。
それでも何故か私は先に進むこと以外の選択肢を採る事なく、歩む。
朽ちた建材が時折軋んで音を出すも、誰かがそこにいて物音を立てたのではないか。という考えは全く浮かばず、ただただ自然界の摂理によって軋んだだけの様に不思議と感じられる。
──まただ。覚えていない記憶が発露する。
みどり髪の少女に手を引かれる。
焼け、朽ちていない集落。
住人の喧騒。営み。
荒れ果てていない舗装道を二人で走って、どこへ行くでもなく、ただ走って。
来る日も来る日も、二人で夕陽が落ちるまで走り回って遊んでいた。
たかおに、かげおに、いろおに。
缶蹴りにかくれんぼに、森の探検、思いつく限りの遊びは殆どやりきって、終いには自分達でオリジナルの遊びを作って遊んでいたりもした。
それだけの日々が、ただ楽しかった。
『ねぇ』
『今年のお祭り、近いね』
みどり髪をたなびかせる彼女が、こっちを振り向いた。
先程の記憶で見た時よりも、少し背が伸び、大人びた様に感じられるが、あのニカッとした笑顔だけは変わらない。
気付けば記憶の主もそれなりに成長しているようで、いつの間にか同じ程度の目線になっていた。
彼女は町中に設置してあった木製の粗末なベンチに腰掛け、頭の後ろで腕を組みながらこちらへ語りかける。
『今年はね、特別なお祭りなんだって。いつもと違って、私達も本殿に入っていいんだってさ。いつもは子供禁止なのに』
ポケットから取り出した棒が刺さった球状の飴玉を口に咥えて、ベンチに座って二人で空を見上げていた。
『ねぇ、こっち向いて』
唐突に彼女がそう言った。
言われるがまま、顔を向ける。
彼女はこちらの後頭部を片手で引き寄せ、飴玉を煙草に見立ててこちらの飴玉の先端に押し付ける。
長くて綺麗な髪が鼻先近くまで近付いて、花椿の香りがする。
『ふふ、お父さんの見てたテレビのマネしたの。いいでしょ』
よくわからないが、適当に頷くと彼女は朗らかに笑って、煙草をもっとこっちに押し当てた。
『今年も、花火やろうね』
…いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
私は腐食したボロボロのベンチの端っこに座っていた。
この心にポッカリと空いた穴はなんなのか。
もう片側のベンチの端を横目にしながら項垂れるのに飽きた頃、日光は傾きかけていた。
思い出せない
思い出せない
思い出せない。
彼女を探さなければ。
私はよろよろと立ち上がって、少女が入っていった廃家屋へと向かった。
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