ビールの飲み残しでお掃除です

 具体的な指示はもらえなかったとはいえ、仕事は仕事。

 ひとまず掃除にとりかかることにして、まずはマオと二人で室内を簡単に掃除していく。


 マオはゴミの収集と、埃の拭きあげ、それから、無造作に絡まるコード類の整理を。

 私は部屋の端に積み上がった衣類を畳んで、玄影さんに教えてもらったプラスチック製のチェストに収納していく。


 それが一区切りついたら、マオはお風呂の掃除に。

 玄影さんに「いいか、茉優に絶対、指一本触れるなよ!」と凄んでお風呂場へ。

 私は「すみません、気にしないでください」と謝ってから、洗い物が積み重なったシンク周りを片付けることにした。


 水切りマットに置かれた皿やコップ類を戸棚に入れ、汚れた食器たちを洗っていく。

 全て洗い終えたら、同じくシンクの中に放置されていた開封済みの缶類の片付け……なのだけれど。


(これ、ちょっと残っている)


 缶ビールの重みを確かめるようにして振ると、ぽちゃりと水の跳ねる音。


「いつも最期まで飲み切れないんですよ。それでも飲みたいようでして」


 部屋の扉に立つ玄影さんが、「すみません、いつもはこの時間に僕が片付けていたので」と苦笑を浮かべる。


「今日は私達がいますので、くつろいでもらっていて平気ですよ」


 けれども玄影さんは首を振って、「僕のことはお気になさらず」とその場をキープ。


(変なことをしないよう、里香さんに見張りを頼まれているのかな)


 確かにいくら家政婦派遣サービスとはいえ、自身が不在とあっては心配も多いだろうし。

 納得の心地で頷いた私は、手にした缶ビールに視線を戻し、


「これ、使わせていただきますね」


「使う? 昨夜の飲み残しですよ」


「はい、だからこそ捨てる前に有効活用させてもらいます」


 ほう、と興味深げな声を出して近寄ってきた玄影さんを把握しつつ、折り畳んだキッチンペーパーに残ったビールを沁み込ませる。


「ビールに含まれている成分って、油汚れに強いんです。なので、コンロ周りの掃除にすごく向いていて……」


 コンロについた汚れにビールを沁み込ませるようにペーパーを押し当てて、暫くしたら拭き取る。と、するりと汚れが消え去った。

 他の部分も同じようにして、時折面を変えながら拭きあげていく。

 すると、たまらずといった風にして、玄影さんが拭き終えた箇所を指でくっとなぞった。


「油、取れてますね」


「ええと、たしかビールのアルコールが油をやわらかくして、タンパク質がその油分を浮かせてくれて、それからビタミンEが分解してくれる……とかだったと思います。すみません、教えてもらったのが随分前なので、曖昧になってしまうんですが」


「いえ、勉強になりました。洗剤を使うと、その後の拭きあげが案外億劫で。これだと泡立つこともなくていいですね」


「場所が場所ですから、泡が残ると気になりますもんね……。汚れが頑固な時は、ペーパーの上からラップを被せてしばらく置いてから拭いてもらうと、汚れが取れやすくなります」


 話しながらコンロを拭きあげ、「最期に水拭きをして完成です」と絞った布巾で仕上げを。


「炭酸が残っている状態だとより効果がありますし、電子レンジ内のこびりつきにも有効的ですので、よかったら試してみてください」


「よく覚えておきます。本当……捨てるばかりが道ではありませんね。特に、自分で捨てきれないものは」


(ん?)


 どこか含みを感じて、思わず玄影さんの顔を見遣る。

 けれどにこりと笑む玄影さんは特に変わった様子はなく、私は気のせいかなと電子レンジ内の掃除に取り掛かった。


 ビールは使い切ってしまったので、こちらは別の方法で。

 まず、耐熱容器に水を入れて、レンジ内に水蒸気が行きわたるまで加熱。

 火傷をしないよう気を付けて、温まったことで緩んだ汚れを拭きとっていく。頑固な汚れには、重曹水で。


 玄影さんはどうやら私を丁度いい"暇つぶし"に認定したらしい。

 部屋に戻ることなく、作業する私をにこにこと眺めている。


(そういえば、玄影さんって里香さんの事情をどこまで知ってるんだろ)


 肩書は"ペット"とはいえ、生活を共にしているのだから知っていてもおかしくない。

 けれど……沙雪さんのように、誰にも話していない可能性も大いにある。


(不用意なことは言わないようにしないと)


 でも、もし。里香さんの"相談事"が沙雪さんのように"誰にも打ちあけられない"といった類だとしたら。

 玄影さんの存在を考えると、聞きだすのは難しい。


(その時は……マオとお買い物に行ってもらうとか?)


 二人で外出する姿を想像して、ふと、外に行く時は首輪ってどうされているんだろ……と過ったその時。


「茉優さん、でしたよね」


「え? あ、は――」


 い、とまで言えなかったのは、いつの間にか真横に立っていた玄影さんが、そっと私の口を片手で覆ったから。

 もう片方の手は自身の唇前でひとさし指を立て、まるで内緒話をするようにして、柔和な笑みのまま彼は言う。


「今からなにがあっても、声を出さないでください」


 なにを、と疑問が浮かんだ刹那。

 ガチャガチャガチャ!

 突如けたたましい音をたて、ドアノブが激しく上下した。


「!?」

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