懐かしい記憶
タキさんには今後のことを踏まえて、見守るに徹してもらっている。
ふと、煮込む合間に包丁とまな板を洗っている私を見ながら、
「茉優様は、手際が良いですね。……奥様はお料理が苦手な方でしたので、少々新鮮な気持ちにございます」
「奥様のお食事はどうされていたんですか?」
「私や世話人がお手伝いさせていただいたり、本邸から運ばせていただく時もありました。大旦那様がここに立つことも」
「え、大旦那様が!?」
「奥様と共に、楽しそうに奮闘されておりました。夫婦なのだから当然だろうと」
「……仲がよかったんですね」
「それは、もう。人間を嫁になどと反発していた者どもを綺麗さっぱり黙らせるほど、仲睦まじいご夫婦でございました」
冷蔵庫から味噌の入る琺瑯を取り出しながら、タキさんは懐かしそうに瞳を細める。
その目にはきっと、在りし日のお二人の姿がうつっているのだろう。
私の知らない、大旦那様と奥様の姿が。
――"仲睦まじいご夫婦"。
幸せそうに微笑み合う、沙雪さんと正純さんの姿が浮かんだ。
「申し訳ございません、茉優様。年寄りの思い出話にお付き合わせてしまいまして」
「いいえ。奥様がいてくださったからこそ、私はこんなにもありがたい生活をさせていただいているんです。お話を聞けるのは嬉しいです。それに、この家もきっと、懐かしんでいると思います」
いなくなってしまった人を懐かしむのは、その人が生きていた証を確認する行為だと思う。
確かに同じ時にいたのだと。思い起こして、言葉にして。
時と共に曖昧になりつつある輪郭を、少しでも明瞭にしたくて。
「……こうして懐かしむことが出来るのも、茉優様のおかげにございます」
「え?」
「茉優様がこうしてお住みくださると決め、この家に再び息吹を吹き込んでくださったからこそ、あの時に触れることが出来るのです。あやかしといえど、臆病なものでございますね。寂れていく姿に、あの時を重ねたくはなかったのですよ。温かな記憶を、寂しいものに変えてしまいたくはないものですから」
「タキさん……」
「私のような想いをしている者は、他にも多いはずです。そして勿論のこと、これは茉優様だったからこそ、私どもも懐かしめるのでございますよ。"人間の女性"だからというだけではございません」
「私だったから……ですか?」
「茉優様。茉優様はどうにも、ご自分に自信が持てないご様子。謙虚なのは美徳でございますが、タキとしましては、もっとご自分を正当に評価頂きたく存じます。茉優様の優しさを、可憐さを、そして何より他者を慈しめる柔らかさを。茉優様がご自身のものとして愛せるよう、このタキ、せいいっぱい尽力する所存にございます」
ですから、と。タキさんは目を見張る私をしっかりと見据える。
引き締まった頬。けれどもその瞳は、慈しむそれで。
「たくさん甘えてくださいませ、茉優様。たとえ坊ちゃまのお気持ちをお受け取りになれずとも、良いのです。頼って頂くことは迷惑などではなく嬉しいことなのだと、どうか覚えていてくださいませ」
***
タキさんと二人で昼食を頂いたあと、私は再び離れの畳拭きを、タキさんは本邸の仕事に戻っていった。
なんとなく寂しさを感じてしまうのは、この邸宅がひとりで使うにはあまりに広いからだろう。
そう思いたい。
だって、遅かれ早かれ私はこの家を出ていくことになる。
誰かといる心地よさを覚えてしまったら、後々苦しむのは、自分だ。
(タキさんはああ言ってくれるけど、ちゃんとわきまえておかないと)
優しくしてくれるのは、マオが私を"ねね"として好いてくれているから。
(どうして私は、記憶が残らなかったのだろう)
ほんの僅かでも覚えていれば、こんな風に悩むことなく、マオの……ここの皆さんの優しさを、素直に受け取れていただろうに。
(ううん、違った)
マオと別れた最期の瞬間だけは、覚えているのだった。
数え切れないほど繰り返していたのに、マオと出会ってから、すっぱりと見なくなった"夢"。
(どうして、よりによって)
"ねね"の、忠告だったのかもしれない。
自分の愛した人が愛しているのは、"ねね"なのだと。
忘れないように。奪われないように。
(同じ魂のはずなのに、同じ人になれないなんて、不思議)
マオがあれだけ心酔する、女性。
"ねね"はきっと、全てにおいて魅力あふれる女性だったに違いない。
平々凡々で特出すべきことなどない、私とは違って。
「……自信、かあ」
タキさんの言葉を思い出す。
なにか……たったひとつでいい。ひとつでも"自信"が持てれば、変わるのだろうか。
(けど)
優しい人も、可愛い人も。慈悲深い人だって、たくさん出会ってきた。
けして自分が彼らと同等だなんて思えない。私が、誰かに勝っているものなどない。
なのにどうやって。この身にある"普通"を、"自信"に変えたらいいのだろう。
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