甲子園

桜零

甲子園

 窓を開けると、冴え冴えしい青空が広がっていた。憎たらしいほど青い空だ。

 一気に夏のむわっとした空気とともに、けたたましいセミの鳴き声が室内に入り込む。あぁ暑い。そうぼやきながら、ついでに足の指で扇風機のスイッチを入れる。あぁ生ぬるい。

 我が家には「午前中の冷房利用は一時間まで」という謎ルールがある。確かに、節電が叫ばれているこのご時世、このルールは素晴らしいものなのかもしれないけれど、ただでさえ暑がりの私にはきつい。おまけに代謝もすこぶる良いのか、冷房のスイッチを消して数十秒と立たないうちに背中にジワリとした感覚を覚える。

 だが、夏が暑いのも、電力不足なのも、うちに理不尽なルールがあるのも、さらには毎日退屈なことも、まあ仕方のないことだ。変わり映えなく流れるような日常でそれに抗おうとするのは愚か以外の何者でもない。それよりも私はテレビに戻ることにした。

 

 さてと、試合は九回裏。一ノ瀬学院高校の攻撃。六対三で相手方に三点のリードを許している。とはいっても望みがないわけでもない。ツーアウト満塁。ここでホームランでも出れば逆転可能だ。なのに、ここで代打をだすのか、と野球に詳しくない私は少々困惑している。もしかしたらこういう時だからこそ活躍するホームラン王的な存在がこの高校にはいるのかもしれないなとも考えてみる。

 そう気を取り直して画面をのぞき込む。次に来るはずのバッターが出てくる気配はなく、画面にはせわしく顔を突き合わせる監督と選手たちが映る。一体何を考えているのだろうか。観客も困惑半分、期待半分といったところだろう。何気なく、んーっ、と大きな伸びをしたその時、私の耳に聞き覚えのある苗字が飛び込んできた。


 「八番、水谷君に変わりまして、松田君。バッターは松田君、背番号十六」

 

 野球アナウンス特有の上がり調子の声だ。つい手に持っていたチャンネルを乱暴に置き、画面に近づいた。

 松田謙介。私の幼馴染。ひょんなことから彼が夏の甲子園にベンチ入りメンバーとして出場することを知り、朝から中継を見ていたのだ。予想していた通り彼はずっとベンチで、たまにカメラには映るものの活躍の場はなかった。実をいうと二時間以上にも及ぶ野球にも飽きてきたところだった。だが、まさか最後の最後で代打として出場とは。思わずゴクリと唾を飲み込む。

 バットを構える彼がアップで映し出された。仏頂面も、これでもかっていうほど短く刈り込まれた坊主頭も、昔とあまり変わっていない。

 続いて彼の名前が映し出された。十六番 松田謙介。松田謙介。松田謙介――

 小学校のころ目にしていた「松田けんすけ」

 画面に映る「松田謙介」

 小学生の彼は、まだ習っていない漢字だからと言っていつもひらがなで自分の名前を書いていた。だって、俺の名前超難しいじゃんって言い訳しながら、なぜか自信満々に書かれた「けんすけ」の文字を私は思い出した。松田けんすけ。見慣れた六文字。それが、かっちりと漢字で表記された彼の名前を見ると、どうしてか他人に見えてしまう。松田謙介って誰?って。

 中学も高校を離れてしまって疎遠にはなっているが、他人ではない松田謙介の四文字を私は目に焼き付けた。もう、超難しいとか言わずに、当たり前のように彼は「謙介」を書いていると思うと、改めて時がたつのは早いと思う。もう四年、か。

 文字が消えた。表示されていたのはほんの数秒だった。

 謙介がバッターボックスに立つ。

 ストライク。ボール。ストライク。ボール。ボール。

 変化球とかバッティングフォームとかよくわかんないけど、謙介のボールを真っすぐ見つめるその真剣さはひしひしと伝わってくる。こっちまで緊張してしまう。

 そして、相手方ピッチャーの百十二球目。気迫の一振り。どうだ、とらえたか。

 テレビカメラが飛んで行ったボールを追う。その間に謙介はバットを放り投げ一塁に向かう。会場が湧きたった。ざわめき、メガホンをたたく音、金管楽器の演奏、白熱した実況。その間も走る。元々一、二、三塁にいた選手たちも次々にホームへと帰る。


「今大会初のホームラン!松田、打ちましたっ。ホームラン!夏の高校野球、一回戦目を制したのは一ノ瀬学院高校です」


 一気に四人ホームイン。思わず、うっそぉと声が出てしまった。え、あいつやるじゃん。まったく、わけがわからない。ますます遠い人に思えてしまうじゃないか、なんて冗談交じりに言ってやりたい。

 画面いっぱいに映るあいつの笑顔を見たら、二人であちこち駆けずり回ってバカやっていた小学生の頃が懐かしくなった。あの頃はまだ、日常に流されてるなんて思ったこともなかった。ほんと、いつからこんな無気力な人間になってしまったのだろうか。

 

 とりあえず、ホームランを打つことはできないけれど、冷房のスイッチを入れなおすことはできる。あぁ、我が家のルールを取り決めたお母様及び節電を呼び掛けている日本政府の方々、並びに今も蒸し暑い甲子園球場で頑張っている皆様、どうもすみません。私は冷房のスイッチを入れます。なんて馬鹿げた謝罪を頭の中でしながら、ピッと心地のよい電源音を響かせた。すっずしー。

 画面の中であいつの汗が一筋光った。わぁ暑そう、なんて人ごとのようにケラケラと笑う。なんかよくわかんないけれど、気が済むまで笑い続ける。別に、馬鹿にしてるんじゃないよ?ただ、いろいろと面白くなっちゃって、もしかしたらちょっと感動とかしちゃったりして。涙目でひぃひぃ言いながら呼吸を整える。

 画面の中の選手たちは球場を後にする。そこには十六番の背中もあった。


「次もがんばれよ」

 

 ちょっとだけ真面目にそうつぶやいた。

 この夏は退屈しなさそうだ。なんだって、応援したい君がいるんだから。

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甲子園 桜零 @Emily_N

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