保承認

小狸

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 取り柄がないんだから、せめて優しい人間になりなさい。

 そんなことを言う母親だった。

 


 池田有華いけだゆうかは、何かになりたかった。


 小学校の卒業文集での「将来の夢」の所には、何と書いたかは覚えていない。


 多分、隣の人と同じものを、適当に書いたのだろう。


 有華にとっては、何でも良かった。


 将来の希望が無かったと言えば嘘になる。


 当時は今よりも幸せの形が固定化されていた時世である。


 何となく、普通にお付き合いして、普通に結婚して、普通に子どもを作り、普通に家庭を作ることができたら良いなと思っていた。


 ただ――別にそれができなくとも良かった。


 結婚や妊娠というのは、有華にとっては副産物でしかない。


 それ以前に、何かになるということを、重視していた。


 例えば付き合うのなら、恋人に。


 結婚するのなら、妻に。


 妊娠するのなら、妊婦に。


 家庭を持つのなら、母に。


 仕事をするのなら、社会人に。


 そういう、自分を自分だという枠の中に落ち着かせてくれる何らかの記号を、ずっと有華は求めていた。


 その大きな要因は、母親にある。


 母親は一人親であった。


 有華は、離婚した原因を知らない。


 有華の二つ下の妹が生まれた時――記憶力を獲得した頃には、既に父親はいなかったように思う。


 そして母親は、妹を溺愛していた。


 ――まあ、そういうものなんだろうなと、思う。


 ――妹は、間違いなく、私よりも、可愛い。


 ――容姿が整っている。


 ――対して私は、容姿が整っていない。


 ――どちらを優先するのかなんて、火を見るよりも明らかだ。


 池田家では、容姿という項目は学業成績や身だしなみ、所作よりも優先されていた。


 どうして母親がそこまで容姿の美醜にこだわるのか、結局当時の有華には分からなかった。後々から、年老いていく母に父が耐えきれなくなって離婚し、それが原因で容姿に異常に拘泥するようになったことを知ったが、だから何だ、という話である。


 明らかに贔屓ひいきされ、居場所を与えられる妹を毎日目にしながら、有華の人格はゆっくりと曲がっていった。


 何かになりたい。


 どこかに属したい。


 その何かに代入される項目は、しかし彼女の人生には訪れなかった。


 どこに所属しようとも、長続きすることはなかった――というか、それも母親の圧力があった。


 勉強をしなさい、塾を頑張りなさい、それ以外にはお金を使わない。


 妹には洋服を沢山買っているのに、有華にはいつも古着しか与えられなかった。

 

 母親は反抗期すら、認めなかった。

 

 これは、ある意味では反抗期が訪れないよりも深刻な状況である。


 娘の反抗を完全に押さえつけ、抑圧してみて見ぬふりをした。


 そのような生涯を送ってきた有華は、大学生になった。


 大学には、推薦で入ったために、学費が免除されることになっていた。


 一人暮らしをすることになって、有華は自由になった。


 自由。


 今まで抑圧されていた彼女の承認欲求、所属欲求が、爆発した。


 人と付き合いまくり、関係を持ちまくった。


 誰かが傍にいてくれる――誰かが一緒にいてくれる。


 誰かの何かに、なることができている。


 その状態が、心地よかったからである。


 それでも――。


 ――満たされることはなかった。


 ――ように思う。


 ――いくら心を重ねても、身体を重ねても。


 ――心にぽっかり穴が開いているように、満ちることはなかったと思う。


 奔放になりまくっていた一時期は嘘のように、大学に行くことができなくなった。


 満たされない。


 私は、何かになりたい。


 誰かの何かで、あれば良いのだ。


 満ちるはずの欲求はいつになっても一杯にならない。


 なぜだ。


 私は。


 どうして。


 何にも、なることができないのだ。


 悩んで、吐いて、泣いた。


 人々は、私のそういう面を見ると、どんどん離れて行った。ただ簡単にヤることができるやつとでも思っていたのだろう。今まで優しかった人達が、誰もいなくなった。ひっきりなしに鳴っていたLINEの通知も、今では一切、鳴らなくなった。


 私は、家に引き籠るようになった。


 大学は、最低限しか行かなく無くなった。


 何にも、なることができなかった。


 死んじゃおうかな。


 そう思ったこともあった。


「池田さんは池田さんでしょ」


 そんな時に、私に声をかけて来てくれたのが、今の夫である。


 同じ学部の、背の高い、若干猫背気味の男子だった。名前は伏せておくとしよう。個人情報というより、単に照れ臭いし、もしも母がこの文章を目にした時、面倒くさいからだ。


「無理に何かになる必要はない。池田さんは池田さんのままで、まずはそこから始めてみようよ」


 私が一生かかっても身に付かないような落ち着きを持った男子だった。


 そこから紆余曲折うよきょくせつあって、私は彼と付き合うことになり――講義にも少しずつだけれど出られることになった。


 その間、実家では色々と問題が起こっていたらしい。


 散々甘やかされて育った妹が、大学進学を止めたいと言い出したのだ。何でも彼氏ができて、妊娠し、その子を育てるのだそうだ。彼氏は高校の同級生。高校生の二人が育てられる程に育児が甘くないことは、流石に二児の母を一人でこなした母親は理解していた。やっとここで、自分の教育方針が間違っていたことに気が付いたらしい。


 ひっきりなしに、実家から連絡が掛かってくるようになった。


 ――私を助けて。


 ――私は可哀想。


 ――私はあなたたちを育ててあげたんだから。


 いつだって、母の主語は、『私』、であった。


 物語の主人公とでも思っているのだ。


 そんな母親と過去の自分を重ねて、何だか恥ずかしくなった。


 私は言った。


「もう二度と家に帰るつもりはない」


「可愛い妹と、一生幸せに暮らせば?」


 そして電話を切った。


 その後、母親と妹たちがどうなったのかは定かではない。


 どこかで野垂れ死んでいるか、それとも介護に明け暮れているか、不幸になっていれば良いなと思う。


 それから私は卒業し、仕事に就いた。


 件の男子と結婚し、子どもができた。


 何かになることができたところで、結局私の心は満たされることはなかった。


 心には穴は空いたままだけれど。


 それでも幸せになることができた。


 ある日、子どもの寝顔を、夫と一緒に眺めながら。


 初めて私は、自分を認めることができたような気がした。



(了)

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