エピローグ① Stand by Me

 ぼくら三人が一堂に会する機会は、その後二度あった。

 一度目は例のアニメ映画の、実に八年以上の時を経て公開された続編を観に行ったときだった。

「まさかあんなにきれいに完結するとは思わなかったよ」

「前回のあの終わりでどうなることかと思ったけど、最高のラストだったね……」

 公開日が決まってすぐに美香の方からぼくと勇助に連絡があって、一緒に観に行く運びとなった。向こうから企画してくれなければ、ぼくは人妻を気軽に映画に誘っていいものかと悩んでしまっただろうから助かった。

「いや、マジで予想よりずっとよかったよな。待ちに待った甲斐があったわ」

 勇助も興奮した様子で、長らく続いたシリーズを見事に完結させた映画を称賛した。

 だが勇助は、この映画を少なくとも四回は観ているはずなのだ。

 結婚式の後にも勇助と二人で会う機会はあったが、彼はあの手記について自分から話すことは一切なかった。ぼくもあの途方もない物語について自分の中で整理をつけられないでいたから、何と言っていいかわからずにその話題を避けていた。

 常識的に考えれば、タイムリープなんていうSFの中の作り事が現実に起こるわけがない。だがそれ以上に、彼が親友のぼくをだますはずがなかった。かといって美香が結婚したショックで正気を失ってしまったようにも見えない。そうなるともう、彼の話が事実だと信じる方が理に適っているように思えた。

 確かにあれが真実なら色々なことに辻褄が合う。中学三年のあるときを境に彼が別人のように大人びて見えるようになったのはぼく以外の人間も認めるところだった。

 だが勇助の物語は、科学的にありえないということを抜きにしても信じ難い話だった。

 多くの人が考えたことがあるはずだ。もしも人生をやり直せたらと。それも記憶を保ったまま、若い頃からやり直せたらと。未来の世界を知っていれば、それだけで簡単に大金を作れるだろうし、後悔している失敗は繰り返さずにすむ。まして何度でもやり直せるなら、道徳などかなぐり捨てて欲望のまま犯罪に走ろうとする者も大勢いるだろう。

 そう、勇助には何だってできたはずだ。それなのに彼は、何よりも一番手に入れたかったものに触れることさえせずに、ただそっと見守り続けたというのだ。思いどおりに人生を変えることができたのに、最愛の人のためにあえて変えようとしなかったというのだ。

 にわかには信じ難い話だ。だが一方でぼくは、それが実に彼らしいと納得もしている。ぼくの自慢の幼馴染はいつだって、親友のためなら何でもできてしまう男だったから。

 だからぼくは彼の物語を信じることにした。だがそれは言うまでもなく、疑ったり笑い飛ばしたりするよりも辛いことだった。彼が遠くない未来にぼくらの前から消えてしまうことを認めなければならないから。

 或いはタイムリープ云々の話は虚構で、全ては彼の「気の持ちよう」の話だったという解釈はできないだろうか? 中学三年生のあるとき、過去に戻って人生をやり直した気持ちになって生き方を変えたというような……だがあれが全て妄想だというのも……

「そういえば勇助の脚本、もう撮影が始まってるんだってね」

「ああ、放送は大分先になりそうだけどな」

「もう配信サービスとか決まってるの? ドラマ始まるまでに契約しとかないと」

 そう、勇助が今手掛けている仕事も、あの手記の信憑性を強くしてしまっている。

 勇助がアメリカのエージェントに売り込んだ脚本は、全て日本の漫画を原作としている。国内で映像化されていない、それほど知名度の高くない漫画を選んでアメリカを舞台にした連続ドラマ用に脚本化し、エージェントが興味を持ったら原作の作者と出版社に初めて話をつける。

 およそ商売としてやるには不安定すぎる仕事だが、彼は学生のうちに七本の脚本を英語で書き、そのうち三本が既に売れて映像化の企画が動いていた。

 だが学生の間に本当にそれだけの量の脚本を、しかも英語で書けるものだろうか?

 別の時期に書かれたとしたら? 例えば、中学や高校の授業中、聞くのが四度目になる授業内容に嫌気が差してこっそりノートに脚本を執筆していたのでは?

「『ヴァンパイア十字界』の後はどっちが先なの?」

 美香は勇助から借りた原作漫画をいたく気に入っていて、勇助が手がけたことを抜きにしても海外での映像化を楽しみにしていた。

「『鉄風』は低予算で映画にするみたいだけど、まだ具体的には何も。『国境を駆ける医師イコマ』はスタッフ・キャスト決める前に取材してリライトが入るみたいなんだわ。そうそう、俺もその取材について行かせてもらうことになった」

「えっ、どこ行くの? いつ?」

 急に大声を上げたぼくに美香が驚いた。嫌な予感がした。あの手記が本当なら、その日が訪れるまでもう長い時間は残されていない。

「ボスニア・ヘルツェゴビナ編に関する取材なんだが、それが終わったらそのままアメリカに行って、直接打ち合わせに参加しようと思ってる。『ヴァンパイア十字界』の撮影も見学したいし、しばらく向こうにいることになるかもな」

「へー、一か月くらい?」

「いや、売れなかった他の脚本を別のエージェントに売り込みに行きたいから、もっと長い滞在になるな。『鉄風』の撮影が始まったらそっちも見学したいし、二、三か月じゃ済まないかも」

 ぼくにはわかった。こいつがそのまま日本に帰ってこないつもりだと。最後の日を、遠い海の向こうで迎える気だと。

「……帰ってこない気かよ」

 思わず呟いたぼくに、美香が怪訝な目を向けた。

 残りの時間でやりたいことがあるなら応援したい。

 自分が手がけたドラマの完成が間に合わないから、せめてメイキングくらい見物したいのもわかる。だけど――

「いや、さすがに半年以上はかかんないって。落ち着いたら戻るよ」

 それは嘘だとわかった。だが美香もいるこの場で、ぼくに言えることはなかった。

 本当は食ってかかりたかった。

 最後が近いのに、おれたちを置いていくのかよ。

 おれのそばにいてくれないのかよ。

 死ぬ直前に飼い主の前から消える猫じゃあるまいし、一人で死のうとするんじゃねえよ。

 残された時間が少ないなら、おれをそばにいさせろよ。

 だがどんな言葉も勇助の決心を変えることはできないとわかっていた。三度の死を経た彼が考えた末に出した結論だ。きっと死の前からしばらくぼくと美香に会わずにいる方が、ぼくらの悲しみが少なくて済むと判断したのだろう。

 そんなのわかりっこないのに。

 勇助、お前自分が死んだ後の世界は、一度だって見てないだろう?

 ふと気づくと、勇助はあの優しい微笑を浮かべながらこっちを見ていた。あの全てわかっているというような顔。馬鹿野郎。ぼくがどんなに悲しむか、お前本当にわかってるのかよ。

 しかしそこではたと気づいた。別れが辛いのは勇助だって一緒だ。五周目の世界にもぼくと美香はいるが、全ての事情を――彼の苦悩も覚悟も知っているぼくは、ここにしかいないのだ。

 自分の悲しみにばかり浸っているわけにはいかなかった。何か彼に、伝えるべきことはないか。

 しかしその日、ぼくは彼にかけるべき言葉をついに見つけられなかった。

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