第四章「二つの月」⑨
とっぷりと更けた夜。
藍那堂に、三人の人影があった。
秋人。不由彦。そしてもう一人の少女。
寝台の上に横たわっている魚月の身体は、依然として目を閉じたままだ。
その衣服は、朱色の襦袢に着せ替えられている。
秋人は、眠る魚月の身体にそっと触れた。
徐々に、その体温が下がっている。
まるで、あの時のように。
「おい、本当に大丈夫なのか?」
秋人の問いかけに、少女は微笑みで応えた。ぼーっと立ち尽くしている不由彦は、虚空を見つめたまま反応する様子も見せない。
「大丈夫だよ。今、この身体は、ソフトウェアが入っていないパソコンみたいなもの。ソフト、つまり私の人格が身体に戻れば、すぐにまた動き出すことができる」
「……じゃあ、早くそうしよう。このまま放っておくのは良くない気がする」
少女はクスクスと笑った。
「心配性だなぁ、兄様は。言われなくてもそうするよ。けど、もう少し待ってね。まだみんな揃っていないみたいだから」
「揃って……いない?」
「待っている間に昔話でもしようよ。そうだなぁ、竜堂家のおはなしなんかいいんじゃない? ここには若旦那の不由彦様もいる訳だし」
そう言って、少女はテクテクと歩いて、不由彦の背中を突いた。
不由彦の不気味な表情を横目で伺いつつ、秋人は少女の方を向いた。
「古くから月鱗を使って秘薬をつくり、その売買で財をなした竜堂家……。兄様は知らないだろうけど、あの家には一部の親族だけに代々受け継がれてきた秘密があったんだよ。野望、と言ってもいいかなぁ」
少女は腰の後ろで手を組み、魚月の眠る寝台の周りをゆっくりと歩いた。
「……野望?」
「そう。聞いたら笑っちゃうよ? その野望って世界征服なんだって。バッカみたいだよね。この大地の覇権を一族の手に取り戻したいんだって。覇権って何だよ、って感じ」
嘲りを込めて鼻を鳴らし、少女は眠る魚月の頬にそっと触れた。
「竜堂家では、その代で最も強い力を持つ存在を『苗床』と呼んで石蔵に隔離する……。隔離された『苗床』がどんな一生を送るのか、それは兄様も知っているよね?」
少女は、秋人の顔を仰ぎ見た。
自身の肉体に強い催淫作用を持つ『苗床』は、その力にゆっくりと精神を蝕まれ、やがて発狂し、死に至る。
少なくとも、秋人はそう聞いて育った。
「あんな石蔵に小さい頃から閉じ込めて、一族の為に月鱗を生むだけ生ませて、使い物にならなくなった次の『苗床』になる子供を血縁中からかき集めて……。そうまでして果たしたい一族の悲願って、どれほどのものなんだろうね」
秋人の脳裏に思い浮かぶのは、あの石蔵で一族に対して悪態をついていた魚月の姿だ。
自分に関わろうとしない一族の人間を「外の奴等」と呼び、その敵意を隠さなかった。
あの時の魚月は、十二歳ながら、自分の未来になんの希望も抱いていなかった。
「……兄様は、亡くなった『苗床』の亡骸をその目で見たことはある?」
「いや……『苗床』の弔いは、当主とお付きの世話役だけで行うことになっていた。だから、見たことはないよ」
「……そう」
少女は、眠る魚月が纏っている襦袢の裾をペラっとめくった。露わになった太ももの表面は、虹色のガラスのような月鱗がびっしりと張っていた。
その量は、かなり多い。
左腕に封印の腕輪をかけてからの数刻で、確実に増えている。
少女は魚月の月鱗に指で触れた。
「この身体、冷たかったでしょう? これは、変化の予兆なの。古の力がピークに達した『苗床』の肉体は、急激なスピードで『先祖返り』を始める。『苗床』は死ねない。半死半生の化け物の姿になって、竜堂屋敷の地下深くにまた閉じ込められる……」
少女の声は、徐々に小さくなっていった。
眠る身体を見つめる表情には、様々な感情が織り交ぜになって浮かんでいた。
悲しみ。怒り。憐れみ。憎しみ。
「……じゃあ、魚月の身体はその『先祖返り』ってヤツの準備をしているのか?」
秋人は尋ねる。
「そう。本来、四年前のあの日に起こるはずだった変化を、あの化け物が堰き止めていたからね。腕輪を使ってアレを封じた事で、止まっていた時が動き始めた。朝までには、月鱗が全身に広がる。そうすれば、身体は完全に覚醒に至る……」
秋人は再度、魚月の身体を注視した。
確かに、肌を覆う月鱗の面積が徐々に広がってきている。
「月って西洋では狂気を意味するんだってね。面白い符合だと思わない? 月鱗の力は、人間の心を狂わせる。月鱗を全身に纏って覚醒した竜堂魚月の身体は、どれだけの人間の心を狂わせることができるんだろう。興味深いよね。四年前、たった少し漏れ出した覚醒前の気配だけで、あの竜堂家が一夜にして滅んでしまったんだから。ワクワクしちゃう」
秋人の額に汗が伝った。
あの惨劇が、また起こるというのか。
しかも、もっと大きい規模で。
目の前の少女は、爛々と輝く眼で横たわる魚月の身体を見つめている。
その瞳は、爬虫類のように細長い形をしていた。
ギュルッと首が回転し、少女の瞳が秋人の方を向いた。ニパァと笑うように開かれた口の中に、二本の鋭利な牙が見えた。
「……残念。結局、兄様は私の事を信じてくれていなかったんだね」
妖しく光る瞳孔が、拡縮している。
秋人は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「な、何を……」
「心拍数が上がってるよ。体温も。大人しく従ったフリをしていれば、私達がうっかり正体を表すとでも思ったのかな?」
笑みを浮かべた少女が近寄ってくる。
秋人は思わず後ずさった。
「一度も『魚月』って呼んでくれなかったね。兄弟の絆が厚いのは素敵な事だと思うけど、少し寂しかったかな。私、兄様の事は本当に好きだったんだよ? 竜堂の一族の中では唯一、生かしてもいいって思えるくらい」
シュルシュルと、何かが地面を這うような音が聞こえた。
それは灰色の靄の形態を取っていた。
何十、何百、それ以上の数の靄が藍那堂の壁や床を這いずりまわっている。まるで蛇のような動きだった。
「ほら、みんな来たよ。人として生きている間は暗い石蔵に閉じ込められ、人として死した後も冷たい地下の棺に封印された。みんな、竜堂という家の犠牲になった……」
蛇の形をした靄は、少女の足元に集合していく。螺旋状にどす黒く渦巻き、少女の身体を覆っていく。
いや、違う。
少女の身体からもまた、大量の靄が吹き出しているのだ。
それが一点に集約されていく。
びゅううと渦巻いている靄の向こうで、秋人は、少女の口元が動くのを目にした。
「これは復讐なんだよ。外の世界への復讐。竜堂の望みなんて関係ない。……手に入らない夢や希望ならいっそ壊してしまいたくなる気持ちって、自然な事じゃない?」
そう話す少女に秋人は手を伸ばした。渦巻く靄を突っ切り、その肩をグッと掴む。
「……何を……するつもりだ!」
靄の中で、少女は薄く笑った。
すると、直立していた少女の身体からフッと力が抜けた。
バランスを失った身体が、その肩を握っていた秋人の方にもたれかかってくる。
咄嗟にその身体を受け止めた。
腕の中の少女は、瞼を閉じ、まだあどけなさの残る寝顔を見せている。
気が付くと、充満していたはずの靄が秋人の周りから消えていた。
すー、すーと寝息を立てている少女に、変わった様子は見られない。
そこにいたのは、紛れもなく十二歳の少女である竜堂遥香だった。もう、他の誰かに乗っ取られているような気配は無い。
その瞬間、ゾッとするような寒さが辺りに満ちた。
蛍光灯がバチッ、と音を立てる。
光源が消え、部屋の中が闇に包まれた。
遥香の身体を抱き止めた姿勢のまま、秋人は正面を向いた。
人影が二つ、立っている。
一人は不由彦である。
そして、むくりと身体を起こしたもう一人の眼が秋人を見つめていた。
爛々と輝く瞳が、窓から差し込む月の光を反射している。
爬虫類を思わせる、細長い瞳孔。
寝台の側に立ったその人物は、ゆっくりと口角を上げた。
赤い亀裂のような笑みだった。
びゅううと強い風が吹き、思わず秋人は目を閉じた。
次の瞬間、目を開くと部屋の中から人影が消えていた。
秋人と、その腕の中にいる遥香。
それ以外の人物の姿が忽然と消えている。
寝台に横たわっていた竜堂魚月の身体も、だ。
「……クソッ」
淡く月光が照らす部屋の一室で、秋人はその表情を歪ませた。
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