第二章「眇」⑧
封印の施された襖の奥は真っ暗だった。僅かな灯りが闇の中に差し込むと、中にいた生き物が悲鳴を上げながら暗闇のほうに後ずさったのが分かった。
ジャリッという、鎖を引きずる音が聞こえる。新江田家の当主は、その足首を太い鎖によって繋がれていた。
「……なんて、惨い」
藍那から渡された面談記録はほとんど診療の記録と言えた。新江田家当主、新江田四郎は言語能力を喪失している。それだけではなく、人の尊厳に関わるほぼ全ての知性を失っていると言って過言ではなかった。
彼は廃人であった。
獣のような唸り声をあげる新江田四郎に、秋人はゆっくりと近づいた。ボロ衣のようになった着物の裾を捲ると、左足の膝から切断されている事がわかった。傷は塞がっていたが、表面の凹凸が痛々しい。
イヤイヤと頭を振る四郎の髪は、フケが大量に付着していて脂っぽかった。秋人はそれを素手でかき分けて、顔を確かめてみた。
左眼が、潰されている。
残された右眼はグルグルとせわしなく動き回り、焦点は定まらない。だらりと垂れ下がった下からは涎が滴っている。
秋人はグッと奥歯を噛み締めた。
タタッと近くに駆け寄る足音が聞こえた。
ナツキが側まで来ていた。
糞尿に塗れた板張りの床に膝をつき、ナツキは四郎の身体をふわりと抱きしめた。なだめるように、その背中をポンポンと叩く。
警戒して唸り声を上げていた四郎は、少し様子が落ち着いたようだった。
「アニキ……俺の質問に答えろ」
四郎を抱きしめたまま、ナツキは低い声を発した。その声は静かだったが、深い怒りをはらんでいた。
「こんな事になっているって、はじめから知っていたのか? だとしたら……許さねえぞ」
ナツキは鋭い目で秋人を睨んだ。
秋人はやり切れない感情を握り潰すように拳に力を込めていた。
伏し目がちに口を開く。
「……当主が言葉を話せない状況だということは、藍那さんから貰った資料にあった。けど、ここまでとは……。ただ、懸念はあった。山の入り口にある石像を見ただろう」
ナツキは数刻前のことを思い出す。神社へと続く石段の登り口にあった、左眼と左脚の部分が意図的に破壊されていた石像の事だ。
「眇だと思った。片目という意味だ。それを見て、前に読んだ本に書いてあったことを思い出した。ある大昔の祭祀においては、祭りの度に神主の片目と片足を傷付けていた、という話だ」
「目と足を……どうして」
ナツキは四郎の潰れた左眼を見た。そこには深く暗い虚が広がっている。
「推量ではあるが……逃げ出せなくする為だ。その古い祭祀において、神主とはすなわち神の依座なるもの。定められた家筋のものに限ってその職分を務めた。つまるところ、生贄だ。贄に定められた人間が逃げても捕まえられるように、目や足を潰して能力を削いでいた。民間信仰の中ではいつしか因果が逆転して、神に捧げられるものは片目と片足を失うことで、神域に近づけると認識されたらしい」
「じゃあ、この人も生贄としてこんな酷い目にあわされたってのか? この家の当主なのに!」
ナツキは立ち上がり、襖の外側で燭台を持って立つ藤谷を睨みつけた。見た目には若々しいその老人は、あいもかわらず貼り付けたような笑みを浮かべている。
「おそらく、この家系自体が贄の血筋なんだ。新江田、ニイエダ。すなわち、贄だ。生贄に選ばれた神の依座は、ある限りの歓待と尊敬をもって尽くされる。だから表向きには当主として尊ばれた。実際には家畜同然の扱いを受けていても、だ」
ナツキは、屋敷の入り口にあった表札の文字が、古ぼけて見えなくなっていた事を思い出した。そこにはかつて「贄田」とでも記されていたのだろう。
「その通りです。しかし、家畜同然とは少々聞こえが悪いですな。私共は、家畜の口には到底入らない食材を当主には食べてもらってますよ」
平然とした様子で藤谷が言う。
秋人は、四郎の足に繋がれた鎖の根元、その近くに置きっぱなしにされたプラスチックの容器に目をやった。
餌入れらしきその容器には、芋の切れ端のような欠片が残っている。
「……自然薯を、食べさせているのか」
食した者に異様な生命力を与える「山神の乳」。新江田四郎は、この場所でそれを与えられ続けていた。おそらく強制的に。
「当主には、御世継ぎを作って頂く必要がある。前に祭祀を行ってからもう十数年、山神の恵みは年々と減り続けている。我々、二蔵の民が長く健康に過ごす為に、そして村の外と取り引きを続ける為にも、新江田の血は絶やしてはならんのですよ」
藤谷は紙垂の下をくぐり、封印の施された部屋へと足を踏み入れた。それを察して、ナツキにしがみついていた四郎の身体がビクリと震える。
「その為の『山神の乳』であり、その為にあんた達が来た。あるんだろう? どんな不能者であっても、服用するだけで立ち所に精力を漲らせる事ができる秘薬が……!」
藤谷は秋人に向けて手を差し出す。
よこせ、と言わんばかりにぐっと手のひらを広げた。
「『月鱗』を渡すんだ。そうすれば余った『山神の乳』を売ってやらない事もない」
藤谷が口にした言葉を聞いてナツキは舌を打ち、表情をしかめた。
『月鱗』は竜堂の血筋の中でも、限られた者にだけ発現する特殊な体質の産物だ。
月を思わせる形状の鱗には、人の意識を狂わせる効果がある。
特に精を漲らせ、魅了する効果については絶大だった。かつては『月鱗』を煎じた薬も裏のルートでひっそりと流通されていたらしいが、現在は手に入るものではない、
ただ一箇所、竜堂ナツキの身体に発現する『月鱗』以外には、もうこの世界に存在しない代物だ。
「……そういうことか」
なぜ藍那は自分とナツキをここに送り込んだのか。藤谷の言葉を聞いて、秋人はようやくその理由がわかった。
この集落の人間が考えているように、自然薯の生産量を増やすのに生贄の儀式が必要だとしたら、贄の血筋は絶やさずに増やし続ける必要がある。
おそらくその血筋を持った最後の人間であった新江田四郎は、神への生贄として捧げられて正気を失った挙句、新たに贄をつくりだす為の種としてこの場所に囚われた。
半死の肉体に、自然薯の切れ端を与えて無理やり生命力を注ぎ込み、さらに『月鱗』を用いて性に狂わせ、子供を作らせる。その子供を生贄に捧げる。何度も、何度も。
そして集落は『山神の乳』を採取し続ける。あの異様に健康的な老人達は、生命力に漲った自然薯を食べて若さを保ち、余ったものを売って大金を得る。そういう筋書きだ。
反吐が出そうだった。秋人は無意識のうちに、拳を固く握りしめていた。
取り引きを続けるのか、やめるのか。
それを秋人とナツキで決めるように、と藍那は言った。
取り引きを続ける、ということは『月鱗』を渡して、生贄の子供がただ捧げられる為に産み続けられるのを容認するということだ。
秋人とナツキの協力が必要になる、という藍那の言葉は、そういう意味だ。
「アニキ……俺は今、死ぬ程胸糞が悪い」
秋人に横に立ち、ナツキはそう呟いた。
その足元には四郎がうずくまっている。
「……珍しく気が合うな」
秋人が答える。
「ここで仕事があるってんなら、さっさと済ませて山を降りようぜ。……もう、どうするかは決まってるんだろ」
ナツキはその細い腕を身体の前に構えて、ファイティングポーズをとる。
「ああ……そうだな」
秋人は首に締めたネクタイの向きを片手で正し、藤谷に向けて言い放った。
「藤谷さん、私たちは今後一切、あなた方の集落と取り引きは行いません。協力も致しません。今日この時をもって、我々の関係性はおしまいにします」
「……なんだと?」
藤谷の顔に張り付いていた笑顔が、歪む。
「あなた方の新江田氏に対する不当な扱いは、傷害、そして虐待と判断します。我々は彼を保護し、警察に事情を説明します」
「随分な事を言うもんだなぁ、若造。そこに当主を封じ込めるように言ったのは、あんた達の社長だぞ?」
藤谷は、俺たちは共犯者だ、とでも言いたげな態度であった。しかし秋人は怯まない。
「だとしても、私の決断は変わりません。うちの社長に過失があったのなら、それは償ってもらいます。ここで行われている非人道的行為は、許されるものじゃない!」
「そーだ、そーだ!」
拳を突き出しながら声を上げ、ナツキも秋人の言葉に賛同する。
藤谷は顔を赤黒く紅潮させ、声を荒げた。
「『山神の乳』は私らには必要だ。この集落は何百年も前からそうやって続いてきた。それを壊そうっていうんなら、あんた達をこの山から帰すわけにいかん」
バタバタ、という足音がして、部屋の中に人が入り込んできた。秋人達が気づかない内に、合図を飛ばしていたのだろうか。包丁や鍬など、物騒な得物を持った老人達が出口を塞いでいる。
「当主と『月鱗』を渡すなら、命まではとらん。大人しく言うとおりにするんだな」
袋のネズミを追い詰めた、と言わんばかりに藤谷は舌舐めずりをした。
相手は老人ばかりとはいえ、多勢に無勢である。秋人はネクタイの裏地に手をやった。
そこにはナツキの身体から剥がした『月鱗』が、一枚だけ縫い付けてある。
人を狂わせる薬効を持つ『月鱗』であるが、竜堂の血を引く秋人は、特殊な方法を用いてその副作用のみを引き出す事ができた。副作用とは、大幅な身体能力の強化である。
『月鱗』を使えば、この状況も力ずくで突破する事が出来るだろう。しかし。
「アニキ、それはやめとけ」
ネクタイに触れた秋人を、ナツキは言葉で制止した。
一時的な身体能力の強化には反動がある。『月鱗』の効果が切れれば、数分もしない内に秋人の身体は痙攣を起こして身動きが取れなくなってしまうだろう。他の集落から遠く離れたこんな場所では、それより先に逃げ切ることはまず不可能だ。
「……そうだな。けど、どうする?」
「ハッ! いざとなりゃ、気合と根性だ!」
どうやら、ナツキに策は無いようだった。
拳を構えるナツキの後ろには、新江田四郎が這いつくばっている。
あうあうと声を発しながら、四郎は何も無い宙へと腕を伸ばした。
「……なんだ、どうかしたのか?」
何かを察知したのか、ナツキが四郎に声をかける。返答は無い。しかし、ナツキはその表情の変化に気がついた。グルグルと忙しなく動いていた残された右の瞳が、ピタッと静止する。その焦点は、何かを見据えた。
途端、足元が大きく揺れた。
「うわあッ!」
ナツキはバランスを崩し、膝を付いた。床が波打っている。それだけではない。家屋の柱や梁も大きく歪んでいる。屋敷全体、いや、山全体が揺れているのだ。
突然足下から襲ってきた衝撃に、老人達も驚いたようだった。密集して出口を塞いでいたせいで、複数人がもつれあって床に倒れている。
「……山神様じゃ」
老人の一人がそう呟くと、集団はどよめき始めた。口々に山神への祈りを唱え、秋人達への怒りを叫ぶ。
「山が震えている……山神様がお怒りだ」
「全部、お前達のせいだ」
「当主様を連れ出そうとしたからだ」
「いあ、いあ、お鎮まりください……」
地震の動揺から、老人達は統制を失っていた。今なら、人の壁を突破することも出来るかもしれない。足元の揺れに耐えつつ、秋人はナツキに声をかけた。
「いくぞナツキ! 新江田氏は僕が背負っていく。鎖を外すのを手伝ってくれ!」
「アニキ、ちょっと待て!」
ナツキは四郎と膝を突き合わせるようにして向き合い、その真っ暗な眼窩と、残された右眼を見ていた。
その瞳は、確かに何を見とめていた。秋人やナツキが見てはいけない、何かを。
「……あんた、もしかして『あちら側』に行きたいのか?」
物言わぬ四郎の手を、ナツキは左手でふんわりと握った。目を閉じ意識を集中させる。
ほんの僅か、身体に取り残されていた新江田四郎の魂の残滓が、ナツキに訴えかけた。
私はもう、こんな世界には居たくない。
「……わかった」
ゆっくりと瞼を開き、ナツキは立ち上がる。その手が、四郎の身体から離れる。
「なにしてるんだ、早くしろ!」
秋人がナツキを急かす。
「アニキ、この人の身体はここに置いてく」
「は? お前、何言ってるんだ! こんな所に縛り付けられて……このままにしておく訳にはいかないだろ!」
「もう、誰もこの人を縛れないよ。こんな鎖でも、血筋でも、集落のしきたりでも」
ナツキは秋人を見据えた。
その瞳の色は黒曜石のように黒く、そして深い悲しみを湛えている。
「『迎え』がもうそこまで来てる。俺たちに出来る事はたった一つ。その目眩しの結界を破ることだけだ」
ナツキは四郎が囚われていた部屋を囲う、紙垂のついた荒縄を指差した。
「あれはこの人をここに縛り付ける為のものじゃない。外側から、見えなくする為のものだ。大量の札も、焚かれたお香も、あいつらが言う『山神』から、この人を隠す目的でここにあった」
山神。集落の人々がそう表現する名状しがたきものの存在を、ナツキはこの山に足を踏み入れた時から感じていた。それはずっと、この領域を探っていた。探し物はここに隠されていたのだ。
山神は、かつて己に捧げられた筈の生け贄が、まだここに生きている事を知っている。生け贄自身が、神のところに向かうのを望んでいることも。
秋人はナツキの眼を見た。
本気の眼だ。一片の混じり気もない。
ナツキは時々、秋人の理解の範疇を超える言葉を口にする。怪異を感じ取れない秋人にはそれが正しい事なのかは分からない。
普段のナツキはワガママだし、自分勝手で、文句を言ってばかりだ。けれど、この瞳は信じられる。
それは秋人とナツキがこれまでに積み上げた時間と経験がある故の信頼だった。
「あの縄を切れば、目眩しの結界は破れる。そうすれば、この人は解放される。どんなに鎖で繋がれていても」
ナツキは四郎の肩に軽く手を置く。
秋人は、小さく息を吐いた。
信じて、行動しよう。
「わかったよ。お前の言う通りにする。結界を破ったら、僕たちはどうする?」
「決まってんだろ、逃げるんだよ。ずっと言ってるじゃねえか。ここから早く立ち去りたいって」
「……それは確かだ」
秋人は懐から十徳ナイフを取り出した。小さい刃ではあるが、縄を切るくらいなら問題はないサイズだ。
ナイフを携え、秋人は部屋と部屋との境にある結界へと向かう。しかし、行く手に塞がる影があった。
世話役の藤谷である。
「させんぞ……贄の血は、二蔵の為にある。何十年、何百年とこの村はそうして続いてきた。我々は新江田に尽くし、その分、新江田は我々に尽くす。それの、何がいかんというのだ!」
藤谷は、秋人の後ろに回り込み、ナイフを携えている腕を取った。八十代とは思えない動きで秋人の手首を掴む。
「ぐ、ああ!」
強靭な力で手首を捩じ上げられ、秋人はナイフを床に落としてしまう。
それを足で踏みつけた藤谷は、鼻で笑う。
「若造が、血迷いよって。逆らうなら、容赦はせん。『月鱗』をむしり取ったら、男女諸共、慰みものにしてやる。若い女は久しぶりだからな、みんな悦ぶだろう……」
藤谷はそう言って、ナツキの方に視線をやった。頭のてっぺんから足の先まで、犯してやりたい身体の箇所を、存分に品定めしてやる。そのつもりだった。
しかし、視界に入ったのはこちらに向かって飛んでくる肌色の何かだった。
瞬間、頭部に強い衝撃を受ける。
踏みつけていたナイフが滑り、身体のバランスが崩れる。
ぐりん、と眼球が白目を剥き、重心が宙に浮いた。
後頭部から床に昏倒し、頭蓋骨に二度目の衝撃を受けた事で藤谷は完全にブラックアウトする。
寸前、薄れゆく意識の中で藤谷は確かにその声を聴いた。
「俺は男だ、バーーカッッ!」
全体重を乗せた、ナツキ渾身の飛び蹴りだった。ライムグリーンのワンピースを翻すように放たれた左脚は、藤谷の頭に命中した。
その衝撃は、腕を掴まれていた秋人にも伝播する。倒れる藤谷に引っ張られるようにして秋人も床に倒れ込んだ。
「このっ……危ないだろうが!」
「助けられてて、良く言うぜ。アニキっ、ナイフを!」
「あ、ああ、そうだ」
秋人は床に落ちたナイフを拾い、結界を結んでいた縄を断ち切った。
その瞬間、屋内だというのに強い風が吹き荒れた。先程から続いていた地面の揺れが、前にも増して強くなる。
古い木造の屋敷は激しく軋み、梁に大きなヒビが入るのが分かった。
部屋に押し寄せていた老人達は、慌てふためいて狼狽している。
「アニキッ、走るぞ!」
その声を受け、秋人は床に置いた鞄を引っ掴んで、一目散に走り始めた。
ナツキもそれに続こうとする。が、一瞬だけ足を止めて振り向く。
視線の先には、宙をぼうっと見つめる新江田四郎がいる。
「…………元気でな」
別れの言葉を告げ、ナツキは部屋の出口に向けて走り出した。
その背中は遠ざかっていく。
古い屋敷の壁が崩れ、ギシギシと音を立てて柱が倒れる。
老人達は阿鼻叫喚の声をあげている。誰しもが我先に逃げ出そうとして、出口のまわりで足を引っ張りあっている。
他人を犠牲にしてまでも、生にしがみ付こうとする者たちが、そこで群がっていた。
崩壊する屋敷の一室で、四郎は天に向けて大きく腕を伸ばした。
その口角は、微かに笑みを浮かべていた。
得体の知れない何者かの巨大な咆哮が、山全体に響き渡った。
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