第二章「眇」⑤
石灯籠に、ぼう、と炎が灯っていた。
その屋敷は、暗い山道に突然現れたようにしてそこにあった。
山中にあるとは思えないほど、広い敷地に建てられている。わざわざここに屋敷を作るためだけに、険しい土地を平らに切り拓いたような印象を受けた。
「ここだ」
ワイシャツ姿の秋人は屋敷の門を叩いて「ごめんください」と声をかけた。その表札はほとんど朽ちてしまっていて、書かれていた文字を読み解くことはできない。
「アニキ、終わったらすぐに帰るんだよな」
後ろにいるナツキが念を押して確認してくる。夜になって冷えて来た事もあり、ナツキはワンピースの上から男物の背広を羽織っていた。秋人が着ていたものだ。上着を重ねても、身体の震えは止まらない。震えの原因は気温のせいだけではないようだった。
「わかってる。仕事が終わったら、すぐ山を降りる」
秋人が藍那に頼まれた仕事は、ナツキを連れて新江田家の当主と対面すること。そして、彼らとの取り引きを続けるか否かを決めることだ。店主の代行として赴く以上、決断には責任が伴う。ナツキにはすぐに仕事を終わらせるような口調で答えたものの、果たして自分にそれを決め切れるのか、という不安が秋人の頭をもたげていた。
目の前の門が、ギギ、と音を立てる。
重そうな分厚い木製の扉が引きずられるようにして動く。開いた場所には、一人の男が提灯を携えて立っていた。
五十代の前半ぐらいだろうか。がっしりとした体格で肌は真っ黒く日に焼けている。目元に深く刻まれた皺は、土地と共に過ごしてきた長い年月を感じさせた。男は仏頂面をしたまま、手にした提灯の灯りで秋人達を照らした。二人の姿をジロリと見やる。
「夜分遅くに申し訳ございません。私、こちらに代行としてお伺いしたものでして」
そう言って秋人は懐から封書を取り出した。藍那から預かったものだ。封書を手に取った男はそれにゆっくりと目を通し、そしてニンマリと笑みを浮かべた。
「藍那堂の方々でしたか。不躾な出迎えをしてしまって、すみませんな。こんなに歳若い方々だとは思っていかったもんですから」
先程とは打って変わり、男はわざとらしいほど笑みと調子の良い声色で、秋人達を門の内側へと誘った。
「ささ、どうぞこちらへ」
提灯に導かれて秋人とナツキは新江田家の敷地内に足を踏み入れる。
「そこに大きい段差があるんで気をつけてくださいね、お嬢さん」
男がナツキに声をかけ、その足元に提灯のあかりを近付けた。
生物学的にはナツキの身体は男性なのだが、今はワンピースを着ているし、目の前で言葉を発していない事もあって、その男には女性と認識されているようだった。
いちいち説明するのも面倒なので、ナツキは特に否定はしなかった。小さい声で「ありがとうございます」と礼を言い、段差を避けるようにして、足を地面から少し離す。
不意に、ねっとりとへばりつくような視線を感じた。生理的な嫌悪がナツキの背中をぞわぞわと駆け上がる。
スカートの裾からのぞいたナツキの白いふくらはぎを、目の前の男が舐めるような目つきで眺めていた。舌舐めずりをする仕草が下品でいやらしい。
ナツキはその整った容姿から、街中で行き交う人々の視線を集めている自覚はあった。けれど、ここまで至近距離で、露骨に性的な欲求をぶつけられたのは初めての事だった。
平素であれば「見てんじゃねぇぞ」と凄んで威嚇するぐらいの気骨は持ち合わせているナツキである。だが、この土地に足を踏み入れてから、おぞましい何かの気配を感じ続けているせいで、その精神は摩耗していた。怒るようなエネルギーが、残っていないのだ。
ナツキは男の視線を防ぐようにスカートの裾を正した。早く家に帰りたい、と心の底から思った。口から自然にため息が洩れた。
提灯を持って現れた男は、藤谷と名乗った。新江田氏の世話役として、この屋敷に住んでいるらしい。
屋敷の中は想像以上に多くの人がいた。
見た感じ、みんな五十代から六十代の男女である。十数人は居たのではないだろうか。
その全ての人が、新江田氏のお手伝いとしてこの家に住み着いているという。
藤谷は、秋人達とお手伝い達が廊下ですれ違うたびに、この人は飯炊き、この人は洗濯、などといった様子で一人ずつ紹介をした。
その度に足を止めるのも億劫だったし、何よりナツキが嫌だったのは、脂ぎった男性達が自分に向ける視線だった。
その屋敷にいる男たちは、藤谷と同様に皆すべからく、ナツキの身体をいやらしい不躾な目つきでジロジロと見た。
秋人も戸惑っていた。すれ違う女性たちが、声をかけるついで、といった様子で自分の身体を触ってくる。ギラついた目で、尻や背中を見られている事が分かる。
屋敷の奥の客間に通された時には、二人ともぐったりと疲れ果ててしまっていた。
「では、ここで少しお待ちください。今、晩飯の用意をさせていますんで」
そう言って襖を閉めようとした藤谷を、秋人は慌てて呼び止めた。
「そんな、ご馳走になるわけには。ご当主に会わせていただくだけで良いんです」
隣でナツキもウンウンと強く頷く。屋敷の中に入ってからも、強大な何かに周りを探られているような感覚は変わらない。お腹が空いているのは確かだが、この場所には一刻も居たくはなかった。秋人もそんなナツキの様子を汲み取って藤谷に声をかけたのだが、若い二人の申し出は一笑に付された。
「客人をもてなさなくては、我々が叱られてしまいます。どうぞ、ごゆるりとお寛ぎください。極上の山菜料理をご用意致しますよ」
そういって藤谷は客間を去っていった。
八畳ほどの和室に、ナツキと秋人の二人だけが残される。
秋人は畳の上に鞄を放り投げ、尻餅をつくようにべたんと座り込んだ。
「……なんなんだ、ここは。そんなに僕たちが珍しいのか」
ナツキも、秋人の隣に腰を下ろした。片膝を立てて、背中で壁にもたれかかる。
その表情は冴えない。
「最悪だ。俺はアニキを恨むぞ」
「……仕事の内容をちゃんと説明しなかったのは、悪かったと思ってる」
「それだけじゃねえよ、ったく……。アニキは鈍感でいいよなぁ!」
「ぼ、僕が鈍感……」
秋人は、ナツキの言葉にショックを受けているようだった。
「この場所はよくない。こんな所でずっと暮らしている奴らもだ」
「……けど、藍那さんはこの人達と、長い間取り引きをしているんだぞ。そんな怪しい相手と関係を続けるものか?」
問いかけた秋人にナツキは視線を向ける。
「続けるよ。あの人ならそうする」
ナツキはそう答えた。
「藍那さんの行動原理はシンプルだよ。欲しいもの、見たいもの。その為なら行動を起こす。何でもやる。その逆も然りで、興味がなければ動かない。それこそ、対価でも支払わない限りはね」
そう言い切るナツキの言葉に、秋人は釈然としなかった。
確かに藍那は、骨董や珍品が絡まない限りは滅多に動かない。秋人達の部屋に来てお菓子を食べている時間の方が長い日もある。
けれどそれは骨董屋としての職業柄ではないのか、と秋人は考えていた。物と客の双方がなければ仕事は成り立たない。仕事である以上、そこには一定のモラルと常識が存在するはずだ。秋人には、藍那がそういったモラルの無い人間だとは思えなかった。
「納得いかねえって顔だな」
考え込んだ秋人に、ナツキが声をかける。
「……別に、そうじゃない。見解の相違だろう」
「ま、アニキにとっちゃ、藍那さんは恩人だもんな。気持ちはわかるよ。……けど、用心するに越した事はねえ。ほら、見ろよ」
ナツキは顔の前に自分の左手をかざした。
その指は、未だに震え続けている。
「止まらねえんだ、この山に入ってからずっとだ。アニキには分からないかもしれないけど、こんなのは初めてだ。異常なんだよ」
ナツキは震えている自らの掌に、沈めるようにして額を押し付けた。
「クッソ……」
止まらない身体の震えに、ナツキ自身も歯痒い思いを抱いているようだった。
掌だけではなく、背中や腕も同様に震えている。肩に羽織っていたライトグレーの背広が、スルリと肩を滑って畳の上に落ちた。
「……怖いのか」
「ああ、そうだよ! 悪かったな、チクショウ!」
そう言ってナツキは両膝を手で抱えるようにして座り、膝と胸の間に顔を埋めた。
秋人とナツキはこれまでに何度も危険な目にあったきたし、世間一般でいう「恐ろしい」現象にも遭遇してきた。
そうする必要があっての事ではあったが、ナツキはどちらかと言えば恐れを知らずに積極的に首を突っ込んでは、巻き込まれるタイプだ。恐れ知らず、という印象だった。慎重で小胆なのはむしろ秋人の方だ。
だからこうしてナツキが恐怖で震えている姿を目にした事は、これまでに一度も無い。
こんな時、どうすればいいのか。
正直なところ、秋人は動揺していた。
強い言葉で言い合ったり、文句をぶつけ合う事には慣れているのだが、張り合うような元気がないナツキに対して、どういう態度を取ったら良いのかわからない。
記憶をたぐり、過去に似たようなケースがなかったか考えてみる。しかし、上手い方法は見つからない。
秋人はシャツの腕をまくった。ままよ、という気持ちでナツキの前に自分の左手を突き出してみる。
「人差し指をまっすぐに伸ばして、同じ手の中指を交差するように重ねてみろ」
「……は?」
「いいから、やってみろ」
何を突然言い出すんだ、と思ったが、秋人は有無を言わさない様子だ。ナツキは大人しく従う。掌を広げて、指を交差させてみる。
「英語圏ではこのハンドサインを十字架に見立てる。嘘をついた時に懺悔する気持ちをこっそり示したり、あとは相手の幸運を祈る時にこうやって顔の横に並べたりする」
そう言って秋人は、交差させた両手の指を自分の顔の高さまで持ってきた。
仏頂面をしたまま、そんなポーズをしているものだから、絵面がシュールである。
「……だから何だよ」
「見たまんまの意味だが、フィンガークロスと言う名前のサインらしい。神のご加護を、っていう意味も込められてる」
そう言って秋人は、表情を変えずに両手の指をぴこぴこっと動かした。
「フィンガークロスだ」
その妙に滑稽な姿を見て、ナツキは思わず吹き出してしまう。
「ハハ、なんだよそれ……。もしかしてアニキ、俺の事、元気づけようとしてんのか?」
秋人の仏頂面が、ピクリと反応する。
「…………だって、怖いんだろう?」
しばしの沈黙の後、秋人は言う。
仕事以外の対人関係においては、実に不器用な秋人である。そのハンドサインは、彼なりの気遣いだった。
「へっ、まさかアニキにそんな心配をされるとはなぁ。お生憎だけど、俺はカミサマにお祈りをするような、殊勝な心は持ち合わせてねえよ!」
ナツキはケラケラと笑った。
ばつが悪そうな表情で、秋人は掲げた両手のフィンガークロスをひっそりとしまう。
「……大丈夫そうで、何よりだ」
そう言って立ち上がり、ナツキの座る部屋の角とは反対側へ秋人は歩いていった。壁の方を向いて、べたりと座り込む。
それっきり、押し黙ってしまった。
「なんだよ、怒ったのか?」
ナツキが声をかける。
「……怒ってない」
「怒ってんじゃねえか」
「怒ってない!」
明らかに機嫌を悪くした秋人は、拗ねた様子で畳の目を数え始めた。
ナツキは肩をすくめる。
その時ふと、自分の身体の震えが少なくなっていることに気が付いた。
秋人とのやり取りで、ほんの少し恐怖が和らいだのだろう。
自分にだけ見えるようにして、ナツキは左手の人差し指と中指を重ねてみた。
「フィンガークロスか……へへ」
確かに神には祈らない。ご加護なんて、もっての外だ。けれど、そのハンドサインはナツキにとって、存外に頼れる効果を持っているように思えた。
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