月鱗のナツキ

エビハラ

第一章「夢の帆船」①

 薄汚れた灰色の灯台の下に立ち、私は南方を見つめている。

 月が一際に明るい夜だった。

 眼前には遥かな水平線が広がっていて、その水面に淡い燐光が漂っている。

 湾を囲う小高い山の稜線は、月光を受けて薄くぼやけているようにも見えた。

 岸には風ひとつなく、波音すら聞こえない。しん、と静寂は帳を下ろしている。

 見覚えのない景色だった。

 けれど、不思議と不安は感じなかった。

 裸の素足を踏み出して、煌めく海へと近づいてみる。足取りはふわふわと軽い。足の裏に小石が刺さることもなかった。

 波打ち際を歩くと、引いて寄せる波が私のくるぶしをそっと撫でた。紺色のパジャマのズボンの裾が濡れて、少しだけ生地の色が変わる。水の冷たさは感じなかった。

 これは夢なんだ、と私は思った。

 夢の中にあって、夢だと自覚する。明晰夢だ。ずっと脳裏にかかっていた薄靄のような多幸感。へその奥のほうから発せられる心地よい浮遊感。それらはここが夢の中であるが故に感じられるものだった。

「そう、これは夢」

 どこからか、声がした。

 甘く澄み通るような声だった。

 ふと気付くと目の前に少女の姿があった。

 紺色のセーラー服を纏った少女は、ゆっくりと片腕を上げて、水平に海上を指差す。その指に誘われるように視線をやると、水平線上に、白い何かが見えた。

 それは帆船だった。大きな白い帆を掲げた船が、南の方角からこちらに向かって海面をすべるように動いている。

 風のひとつも、吹いていないのに。

「乗りなさい」

 少女は、可憐な声で私に指示をする。

 私は、コクンと首を縦に振っていた。

 そうだ、船に乗らなければ。

 あの船に乗りたい。船に乗って、早く彼処に行きたい。

 どこからともなく湧きあがる衝動が私を突き上げる。

 彼の場所へ。彼の場所へ!

 帆船はいつのまにか岸辺へと辿り着いていた。

 私の足元へ、光輝く橋が伸びる。

 その橋は、光そのものだった。満月の放つ猛き月光。

 私は光の橋を渡り、白い帆船へと乗り込んだ。その瞬間、はじめて不安がよぎった。

 私、どこに行こうとしていたんだっけ。

 焦燥感に駆られた私は、船の甲板から身を乗り出した。視線の先には、先刻まで私がいた岸がある。

 そこには、あの少女がいる。

 名も知らない、見たこともない少女。

 私はその時、はじめて少女の表情を認識した。どうしてだろう。さっきまであんなに近い場所にいたのに、私は彼女の顔をはっきりと、認識することができなかった。

 私は、膝から崩れ落ちるようにして甲板に突っ伏した。目から涙が溢れ、嗚咽が漏れた。少女の顔を見たその瞬間に、絶望的な確信が胸を抉った。

 もう二度と、岸へは戻れない。

 遠く離れていくこの世の岸辺で、少女は笑みを浮かべていた。

 真っ白い陶器に紅の亀裂が走ったような、笑みだった。

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