影牢
小富 百(コトミ モモ)
影牢
今年もとうとうこの日がやってきた、かげろう達が陽の光を拝むこの可愛想な日が。それはそれは眩しいだろう、それはそれは切ないだろう。商店街の外れの白い聖堂はそれ自体が大きな棺桶みたいで私は一度も入ったことがない。毎年この日の午後ちょうど、前で両手を緩く結ばれたかげろう達が棺桶から起き上がってくる。彼らはゆっくり一歩ずつ進み、そしてそれぞれがぼんやりと方々へ散り始める。かげろう達はみな一様に薄い墨色で輪郭も曖昧で、夏の夕日の伸びた影によく似ている。耳も口も鼻も無くただ白い両目がぽつんと小さくふたつ空いている。
私は商店街の中心にある噴水の淵に腰掛けて茫とかげろう達を眺めている。道ゆく人々はかげろう達に見向きもせず足速に過ぎ去っていくだけ。目の端に入れてもいないのにかげろう達が少しでも近くなると本能のように避けてゆく。私はそれが不思議でしょうがなくて幼い頃母に問うたことがある。
「かげろう達は何処へゆくの」
「かげろう達は何処にもゆけないのよ」
何処にもゆけないのに毎年毎年この商店街に戻ってくるのか。事実かげろう達はこの商店街から出ることができない。この商店街はアーケード式で、せっかくかげろう達が棺桶から出てきても陽の光を直接浴びることはできないのだ。そしてはなから出ようという気もないようで商店街の出口に近寄るものすら居ない。
「かげろう達はなにものなの」
「かげろう達は悪いことをしたものの成れの果てなの。だからほら、両手を縛られているでしょう」
母はそう言ったけれどかげろう達の腕を縛る物は太い縄なんかじゃなくて細くて赤い一本の糸なのだった。あんなの私でも千切れるよと言うと、あの色が悪いことをしたっていう印なのよと教えられた。
「それからね、決してかげろう達に近寄っては駄目よ。かげろう達が帰ってくる日はなるべく商店街に居ても駄目」
「どうして?」
「かげろう達に捕まったら最後、もう二度とこちらの世界には帰って来られなくなるのだから」
ああ、今年も暑いわね。
そう言った母はその年の真冬に死んだ、急な肺の病気だった。私は母の言いつけを破り毎年この商店街に来ているけれどかげろう達が人々に何か害を成したところを一度も私は見たことがない。それよりも人々のほうがかげろう達を忌避しているように見える、かげろう達はただ何かを探すようにゆったりと、そして今にも何処かへ沈みそうにゆっくりと歩き回っている。
きっと母はバチが当たったのだと私は思っている、かげろう達のわるくちを言ったから。だからあんなに早く逝ってしまったのだと。
私はひとつ欠伸をして鞄を持ち立ち上がった。今年もかげろう達を見たから私の今年の夏ももう終わり。さあ長茄子を買って帰ってお浸しでも作ろう、そして夕方まで窓を開けて映画を見よう。きっとその頃にはかげろう達も元の聖堂へ帰ってゆくのだろう。彼らがあの中で一年間も何をしているのか誰も知らない、私も知ろうと思ったことは一度もないのだから。
安売りしていた三本の茄子の袋を片手に私は商店街の出口まで来て赤信号でその足を止めた。ふと、左隣を見やる。左隣のものがふと、私の方を見やる。かげろうだった。私の胸ほどの高さしかない小さなかげろうと目が合って、そのかげろうはゆったりと私から顔を背け、そして茫と商店街の外を見る。信号が青に変わる、人々が俯き加減に夏の陽射しに晒されてゆく。かげろうはただ空を見ている、外が近いせいでそのかげろうを縛る糸の赤が酷く目に付く。
ねえ。
「…出たいの」
私は呟いた。
かげろうは何も言わない。
かげろうにはぽっかり空いた目しかない。
「…出よう」
気付けばそんなことを言っていた。けれどこの流れる季節で私はこのままこの子を見逃せなかった。
「出ようよ、一緒に」
私と、一緒に。
私は幼いかげろうの赤い糸を引っ張ってアーケードの外へと踏み出した。確かな重みが私と左手に伝わってくる。右手の袋が滑って地面に落ちる、茄子がひとつアスファルトに跳ねる。ちりんと鈴に似た音がしてぷつんとその糸が容易く切れた。
「今年も暑いね、エリ」
振り返る、雫が光る、優しい声。
点滅信号の中、私達合間見える。
陽射しの中、紫がひとつ横たわる。
自由になったその手で彼女は私の頬に触れた。得意げに、私は笑う。ほらねと、私は言う。子供のように胸を張って。
ほら、言ったでしょ。
「そんな糸、簡単に千切れるよって」
お母さん。
「ええ、本当ね」
そして、ありがとうね。
「ただいま、エリ」
彼女は長い袖で私の頬を拭った。
うん。
「おかえり、お母さん」
そして、さようなら。
私の夏と彼女の牢屋。
さようなら、自由の際と彼女の罪。
さようなら、空の青さと私達の結び目。
さようなら、さようなら。
そして母は笑みだけ遺して、夏の光に微睡み消えた。
影牢 小富 百(コトミ モモ) @cotomi_momo
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