第25話 婚約してくれないか

湖畔沿いに設けられた遊歩道は、湖から吹く初夏の風が気持ちよく、ネオンブルーの湖面が陽が下がりかけてきた午後の柔らかい陽射しを受けて輝いている。

 初夏の風に揺れる若葉が鮮やかな緑のコントラストを描いていて、その木漏れ日が優しい。



「ディル、この間は手紙をありがとう。風魔法で届いたのにはびっくりしたわ!」

「無事に届いて良かったよ。」


 ゆっくり遊歩道を歩きながら、手を離すタイミングを逃して、ずっとさっきから繋いだままだ。


 手紙のお礼を言うと、ディルが少し照れている。

 わたしもディルからの「一分一秒でも早く逢いたい… 春の木漏れ日のような君の笑顔…」と熱烈な手紙の内容を再び思い出して、頬が熱くなる。


「ディルの風魔法を見たのは2回目だったけど、あの魔法すごいわね。ディルも魔力は強いの?」

「そうだな。強い方かも知れない。あの魔法は雨の日は禁忌だけどな。」

「そうね。雨の日に飛ばすと手紙がずぶ濡れになってしまうわ。」

 雨でインクが滲んでしまい、ぐしゃぐしゃになってしまった手紙を想像して、ふたりで顔を見合わせケラケラ笑う。


「ところでディル。仕事はいつもは王都なんでしょう?今回、仕事でラストリアに来たのは無理をしてないよね?」


 これはちゃんと確かめたかったことだ。

 わたしが湖の絵を仕上げたいと言ったものだから、優しいディルのことだ。無理にでも仕事でラストリアに来れるようにしたのではないかと心配だった。


「大丈夫だよ。本当に偶然にラストリアでの仕事があるんだ。」

 ディルが力強くわたしの懸念していたことを否定してくれたので少しホッとした。

「そうだったのね。良かったわ。ディルが無理をしたのではないのかと少し心配だったの。」

 ディルがそれを聞いて、優しく微笑む。

「でもレナのためなら、無理矢理にでも来るつもりだった。」

 真剣な眼差しを向けてくる。


 ディルが立ち止まり、わたしのほうに向き直って繋いでいた手を強く引っ張ってわたしを引き寄せた。

 わたしの背中にディルの腕がそっと回る。


 わたしはディルの腕の中にすっぽり埋まってしまった。


「レナ、このまま聞いて。」

 わたしは突然抱きしめられたので余裕がなく、ディルの腕の中で声を出すことも出来ずにうんうんと頷くしかできない。


 ディルの腕に力がこもるのを感じる。


「もうわかっていると思うけど、俺はレナが好きだ。きっと、初めて出会った6年前に俺はレナに一目惚れしたんだ。今回、レナに再び逢えて、さらに愛おしく思ったよ。レナ、俺と婚約してくれないか?」


 婚約…

 甘く、とても甘く、素敵な響き。

 学園の友人や周りには婚約者がいる人がとても多かったので、いままで婚約者のいなかったわたしにとっては憧れの響きだ。


 いつか好きな人と…


 皇女の役割を理解していない幼い頃は、そんな婚約を夢に描いたこともあった。


 

 わたしもディルに惹かれている。


 ディルのことをもっと知りたいと思うし、もっとディルと一緒にいたい。

 ディルの幼い頃からの話しを聞きたいし、わたしのことももっと知って欲しい。


 ディルのその漆黒の髪やわたしに優しい笑顔を向けてくれるその頬に触れたい。

 この温かい腕の中でディルの鼓動を感じていたい。


 強くそう思えるのに。


 でもわたしは皇女であり、ラストリアでの旅を終えたら政略結婚が待っている。

 国民の安定した生活と国の平和のために、皇女としての責務を果たさなければならない。

 そのために多くの人に傅かれ大事に育てられてきたし、王妃教育なるものもいろいろな方がわたしと国の未来のためにと尽力してくれた。

 そんな人たちを裏切ることはできない。


 自分の気持ちを優先してディルとの婚約は受け入れることなど、できるはずがない。


 ディルとの道を選びたい。

 優しくこんなにわたしを想ってくれるディルの手を取るなら、きっと温かい穏やかな未来が待っている。


「… ディル、ありがとう。とても…とても嬉しいわ。」


 顔を上げ、真上にあるディルの漆黒の瞳を見る。

 ディルの熱をもった瞳がわたしを映している。


「でも婚約は… 出来ない。」

 ディルの瞳が大きく見開く。


「わたしはディルのことが好きよ。そして貴方にとても惹かれているわ。」


「…ならっ!」

 わたしを抱きしめていたディルの腕が緩み、わたしの両肩を掴む。

 ディルの瞳がみるみる不安に覆われていく。


「ディルのことが嫌いだとか、この国の騎士様であるディルとわたしの身分が釣り合わないとか、そんなことではないの。」


 ディルはきっと覚悟を決めて、心を尽くして話しをしてくれている。

 ここで曖昧な返事をしたり、嘘を吐いたり、誤魔化すのはディルに対して不誠実だ。


「ディル、わたし…ね… ダズベル王国に帰ったら、政略結婚を… たぶん婚約はすぐだと思うけど… するの…。」


 最後のほうは声が震えて、消え入りそうな声になった。

 改めてこうして、政略結婚と単語を口にすると頭では理解していても、まだまだ自分で覚悟ができていないことを自覚する。


「は?政略結婚?婚約をする?」


 わたしの両肩を掴んでいるディルの手に力がこもる。


「うん。相手は誰かわからないんだけど…」


 西か東かどちらかの隣国ではあるが…

 西ならこのフラップ王国だ。


「友人が… たまたまというか、うっかりというか、わたしのこの政略結婚話が持ち上がっているのを秘密裏に聞いてしまって、父に話しが上がる前に急いで教えてくれたの。」


 そう。嘘は言っていない。


「だから、ディルと婚約はできない。」

 わたしの肩を掴んでいるディルを真っ直ぐに見る。

 

「レナはそれでもいいのか?知らない相手と結婚するんだぞ。それでもいいのか?」

 ディルの強く真っ直ぐな黒い瞳がわたしを映すのが辛くて思わず俯いた。


「仕方ないことなのよ。そういう家にわたしは生まれたの。わたしの知っている人が教えてくれたわ。思い出だけで何十年も生きられるって。だから、これから先、愛のない生活で愛されることも愛することがなくても、いま、このラストリアでディルと作る思い出とそれまでの思い出でわたしはこれからを生きていけるの。」

 一気に溢れる想いを正直に言ったら、一筋の涙が頬を伝った。


 ディルが息をのむ。

「そんな悲しいことを言うな。レナ、俺に恋をして。俺はレナに恋を…愛を教える。そして、愛で満たす。」

 ディルが悲しそうに微笑む。


「ありがとう。でも、わたしには時間がないの。あと2〜3週間で家に帰らないといけない。そして、それ以降はわたしに自由はないわ。」

「時間はある。3週間もあるじゃないか。レナが俺から離れられなくなるくらいレナを愛する。そして、その時にレナが俺を選んでくれたら、俺が使える全ての力で、全力で、君を守る。」

 

「ふふふ。素敵ね。」

「そうだろう。」

 お互い見つめ合い、硬かった表情を緩める。

 わたしの両肩を掴んでいたディルの指がわたしの頬を伝う涙を拭き、頬を優しく手のひらで包む。


「レナ、この3週間、君が背負う全てのことを忘れて俺だけを見て。そして、ダズベル王国に帰る時にレナが進む道を決めたらいいよ。俺はレナが俺との道を選んでくれるようにレナの心を俺で満たすから。」


 わたしの頬を包み込むディルの手ひらの温もりが心地良い。

 チャドワ湖の水面が揺れ、水面に差し込む陽射しもゆらゆらと揺れ、その光がふたりに当たる。

 鳥が羽ばたく音だけが聞こえる。


 ただただ見つめ合い、静謐な時間が流れる。


 口を開いたのはディルだった。

「いまから3週間、俺とレナは恋人だ。時間が許す限り一緒に過ごそう。」


 そのまま、ディルの精悍な顔が近づいてきて、唇を重ねた。

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