第11話 海
目を覚ますと、水上バスが港へ着くところだった。待ちかねていたように、乗客たちが立ち上がり、出口に向かって列を作る。
窓から、暮れかけた日が見える。時計を確認すると午後九時を示していた。イタリアの夏季は、陽が沈むのがひどく遅い。
ハルはのろのろとシートベルトを外す。時差ボケだろうか、それとも白夜を前に混乱しているのか、頭がうまく働かない。
水でも飲もうかとかばんを開けると、よれかけた紙箱が目に入った。購入したワイングラスだ。まだ下船が始まっていないのを確認し、箱からグラスを取り出してみる。
鮮やかなコバルトブルーが目を射る。とても軽いが、ベネチアングラスは頑丈だ。ちょっとやそっとの衝撃ではまず傷つかない。
グラスの表面をじっと見つめる。見つめ返してくるのは、反射した自分の顔だけだ。
姉は、今でもこの中にいるのだろうか。
この青くて狭い海の中――ベネチアの裏側で、バランスを守っているのだろうか。
不意にカラカラと音がして、グラスの口から、青のブローチが転がり出た。ハルは慌ててそれを拾い上げる。
姉はまた会えると言った。今回と同じように、マルコの船に乗っていけば。
次は母を連れて来よう。二人でグラスを買い、ゴンドラに乗ろう。そう心に決めて、ハルは座席から立ち上がった。
ハルを含む乗客全員が下船し、水上バスは静かにUターンを始めた。その後ろには、いよいよ沈もうとする夕日が見える。
乗船場からバス停までの間に軒を連ねた土産物屋は、ほとんどが店じまいを終えた。道には影が伸び始め、人々は足早に通り過ぎ、やがて誰もいなくなる。
夕日に照らされたベネチアの街並みが、小さく揺れる。海の中に浮かび、半ば沈みかけた街は、悠然とたたずんでいる。
海は、全ての境界を溶かしながら、静かに波打っていた。
夜の運河 葉島航 @hajima
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