第8話 光の帝国
部屋の中は薄暗く、正面のテーブルだけがランプの明かりで照らされていた。
こちらに背を向けるようにして、大柄な誰かが座っている。紺色のカッターシャツを着ているが、今にも破れそうだ。真っ赤な髪はごわついていて、肩まである。
その人物の手元には、本が山と積まれている。ページをめくる音。本を読んでいるのだ。
「あの」
声をかけると、その人物はゆっくり顔を上げ、振り向いた。
眼鏡をかけている。顔の表面まで金色の毛が覆っており、鼻は黒く大きい。口を開くと、並んだ牙が見えた。髪の毛だと思っていたのは、真っ赤なたてがみ。
ライオンだ。
「何か用かね」
理知的な声だ。彼は、右手の人差し指で眼鏡を押し上げ、こちらをしげしげと見つめる。
「私はハル。姉を探しに来たの」
「ハルか。プリマヴェーラは知っているかい?」
あきれたことに、ライオンは船頭のマルコと同じことを言い始めた。
「絵の話はもういいの。私の姉の話を聞いて」
「もういいなんて、とんでもない。絵はいいものだ」
ライオンが指を弾くと、部屋に明かりが灯った。
暗くて見えなかったが、部屋の中にはいくつもの絵やタペストリーがかけられていた。ドリームキャッチャーやガラスの風鈴など、ごく普通の土産物までぶら下がっている。ライオンはその中の一つを指さした。
「あれを見たまえ。マグリットの『光の帝国』だ」
一本の街灯がともる、薄暗い家が描かれている。家の周囲は森のようだが、暗すぎてシルエットにしか見えない。しかし、その上空は青空だ。青と白のグラデーションで描かれた空に、雲が浮かんでいる。
「晴れているのに暗い。朝なのに夜。光あれば闇あり。矛盾したものを一つの絵に収めているのだ。素晴らしい出来だと思わないかね」
ライオンが再び指を鳴らし、部屋の照明は元通りに暗くなった。
「君のお姉さんの話を聞く前に、私からいくつか質問させてくれたまえ」
ハルはうなずく。どうやら話を聞く気はあるらしい。
「君はここに来て、イカスミのパスタを食べたかい?」
「いえ、まだよ。食べてみたいとは思うけれど」
「あれはおいしいよ。なんとも言えない海の味がする。口が黒くなるのが玉にきずだがね。ぜひ食べてみるといい」
何の話をしているのだろうか。お土産を並べた露店の店主と話している気分になってくる。
「では、世界最古のカフェには行ったかい? サン・マルコ広場にある」
「今日はそこでコーヒーをいただいてきたわ」
「それはうれしいね。あれは十八世紀からずっと続いているカフェだ。少々値は張るが、それに見合うだけの素晴らしい店だ。ぜひ友人にも紹介してくれたまえ」
「ええ。そのつもり」
ライオンはその後も、あれを見たかここに行ったかと質問し、ハルは正直に答え続けた。ライオンは満足げに鼻を鳴らす。
「次が最後の質問だ」
「これに答えたら、姉の話を聞いてくれるの?」
「もちろん。ただし、聞くまでもないかもしれないがね」
「どういうこと?」
「私は、君たちが思う以上に、君たちのことを知っているということだよ。さて、それでは質問をしよう。君は今どこにいる?」
ハルは面食らった。今までの質問と違う。何と言えばよいのだろうか。
「あなたの部屋」
ライオンは顔の前で人差し指を振る。
「分かっていると思うが、ここは本来なら存在しない部屋だよ。ライオンがしゃべるはずないだろう」
身もふたもないことを言う。それではあなたは何なのだと言い返したい気持ちを抑え、どう答えるべきか考える。
「ベネチア?」
ライオンは、ふむ、とうなずいた。正解だろうか。
「確かに、ここはベネチアに他ならない。言うなれば、ベネチアの裏側だ。さあ、もっと集中して」
集中しろと言われても、何をどうすればよいのか分からない。きょとんとしていると、何かが聞こえた。同時に、不思議な浮遊感がやって来る。
潮の匂いがする。湿り気のない風が肌に当たる。音の正体が分かった。潮騒だ。
目の前のライオンが微笑んだ気がした。
「そう、ここはゴンドラだよ」
遠くで彼の声が聞こえる。風景がぼやけ、溶けていく。
視界の隅に、街灯が映った。『光の帝国』。
気づくと、ハルは一人、夜のゴンドラに乗っていた。
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