閑話:レモンの船旅

 レイニー・ディックは闊歩するシリウスの後ろを追いかけていた。

 中央の居館から自室に戻るまでの渡り廊下で、何やら口論している。使いを頼まれていたオスカーは、丁度その二人と鉢合わせをした。

 少女の歩幅に追いつけないことにディックは気が付き、少女がわざと小走りしていたと分かった。度重なる忠告にうんざりしていたらしい。

 シリウスに声を掛けられ、反射ですぐに応じたことを後悔した。

 オスカーはシリウスの小さな反抗と、ディックの苦労の板挟みになり目を宙に泳がせた。

「―――ですから陛下、民たちには早く王の健在を示さねば。小評議会も待ちわびています。いくら玉座が約束され、ベルンシュタイン王家に絶大な力があっても諸侯たちの忠心が離れれば彼らは小国と手を組むでしょう。玉座につき、戴冠し、自らが王であることをフェーリーン中に知らしめる。それこそが急務なのです」

「だから、玉座に就く前に事を成さなければ、誰が王と認めるんだ?」

 お互い譲らない口論は居館中に響き渡り、ディックは慌てて声を落とした。

「何故、玉座を拒まれるのです? あなたはベルンシュタイン王家の最後一人。玉座に就いてしまえば誰も反対することはない」

 この苦労人を絵に描いたようなレイニー・ディックは、シリウスが玉座に就くため尽力した立役者の一人。彼が小評議会を説き伏せなければシリウスの王位継承権は認められなかったことだろう。シリウスもそれは重々承知していた。

 ただの側近であるオスカーは、政治に口出しすることは許されておらず、それを傍観するしかない。

 ディック候の功労と後ろ盾も理解した上でシリウスは断言する。

「私はそうは思わない。戴冠式の日取りを早めるより先にやることがある」

 シリウスの小さい背丈ではディック候を見上げる体勢になってしまう。それでもシリウスははっきりと言い放った。

「上等なレモンを橙黄の国に届けることだ」

「…………」

「…………」

 シリウスの思惑を事前に知っていたオスカーでさえも言葉を失い、頭を押さえた。言葉足らずで語弊を与えてしまうところはいい加減どうにかならないものか。

「聞き違いでしょうか? レモン、とおっしゃいましたかな?」

 自身の耳を疑うディックは目を丸くし、シリウスは大真面目にそして堂々と応えた。

「そうだ」

「失礼ですが、陛下。何故レモンなのですか? 橙黄の国がレモン好きであるなど私は知りもしませんでしたが」

 ディックからすれば、七星卿のご機嫌取りのために、橙黄の国出身であるヴェロスのために動いたとしか思えなかったのだ。しかしディックの考えの半分は当たっている。

「橙黄の国は二年前の砂嵐で果樹園が全て枯れてしまった。近隣の千草の国は農業が巧くないから大して取れない。果実が不足しているせいで熱病が防げず、蔓延しているのだ」

 橙黄の国は厳しい砂漠の国。食糧不足は深刻な問題となっており、特に小国が独立してからはその国交の不便さ故に、一部の富裕層を除き、庶民は貧しい生活を強いられているという。

「お言葉ですが、陛下。橙黄の国が何故、長い間諸侯を召し上げられていないかご存知でしょう。灼熱の砂漠を超えるのには三日かかります。その間に果実は腐り、運び屋は倒れるでしょう」

 砂漠は自然要塞ともなるが、荷運びにとっては命懸けになる。それ故、困難な砂漠越えから橙黄の国は王都から見放され続けていたのである。

「先代の王たちはそんなことで橙黄の国を見捨てたというのか?」

 しかしディック候は助言を繰り返す。

「いいえ陛下。彼らは蜂起したのです。メノリアス王は捕虜数百名の代わりに彼らを許す寛大なご処置をされた。橙黄の国に居続けるよりも奴隷たちは良い暮らしをしています。例え陛下が奴隷を解放したとしても、彼らは故郷には帰らないことでしょう」

 ディックの意見も一理ある。

 今、王都にいる奴隷たちは彼らにとって三代前のこと。故郷がどんな場所かも知らずにいるが、王都には十分な労働力がある故か、メノリアス王時代よりも重労働を強いることはなくなったのだ。

「ディック候、確かに歴史は尊いものだ。しかし全てが正しくはない。歴史は正しさもあれば過ちもあることを私は知っている。奴隷を引き合いにしても、橙黄の国を見放す理由にはならない」

 シリウスの反論に、ディックは深くため息をついた。

 二人の口論はこれが初めてではない。王都のことも歴史のことも理解していないシリウスに、諸侯たちと軋轢を生まないよう玉座に就けようと苦心しているディックを見て、オスカーも申し訳ないという気持ちが湧いてくる。

「グリシア殿からどのような入れ知恵をされたのかは存じ上げませんが、彼の意見だけを鵜呑みにするのはいかがなものかと」

「入れ知恵したのはグリシアだけだと思うか?」

 シリウスは首を傾げた。この人を少し小馬鹿にしたクセに、オスカーも前々からどうにかせねばと気を揉んでいた。

「ヴェロス卿ですか? 彼にせがまれましたか」

「いけないか?」

「彼だけを贔屓にするなど」

「贔屓にして何が悪い」

「………」

「レモンは青の国から青いまま。紅の国で砂糖漬けにする。そして千草の国の船で届けさせる。今の季節なら東へ吹く風が強い」

「まさか、陛下お一人でお考えになったのですか?」

「そう思うか?」

「―――っ」

 にやりと笑う少女の笑みに、ディックは女王の片鱗を見た。

「関係諸国には七星卿を通じて手配をしてもらう。そのための書状を貴殿にも手伝って貰いたい」

 凛としたシリウスの言葉。今度は安堵に似たため息をついたディックは恭しくお辞儀をした。

「———陛下の御心のままに………」

 

 城中に蝋燭が灯る。

 シリウスは城下の家々の灯を眺め、賑わいと微かに漂う食事の匂いを感じていた。

 城よりも森で暮らしていた年数の方が長いシリウスにとって、上から町の様子を見たことなどなかったのだろう。自室の窓辺に腰を掛けて、夜風を浴びるシリウスはどこか寂しそうだった。

「シリウス、夕食の準備が出来たって」

 扉を開けることにも気が付かないくらいぼうっとしていたシリウスは、オスカーが部屋にいたことに少し驚いていた。

 それからオスカーはシリウスと共に夕食のために食堂へと向かい、その途中でシリウスは疑問を呈した。

「熱病にレモンがいいと何で知っていた?」

 入れ知恵をしたのは、グリシアや七星卿だけではなかった。

「それは、その………昔本で読んだんだ」

 オスカーはレモンに含まれる成分が当時流行っていたはやり病に効くことを知っていた。

 紅の国と青の国は他国に比べ疾病率が低い。健康的な民が多い理由は、豊富な農作物が採れることが大きい。特に青の国で採れるレモンは、長寿の妙薬とまで言われる程に栄養価が高い。

 シリウスが命じたレモンの船旅は女王の死後も続き、千草の国が掲げた旗は後に女王を象徴する紋章になった。

 女王の判断が一年遅れていれば橙黄の国の熱病の死者は数千人を越えたと推測されている。幼い女王が下した初めての功績である。

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