第2話:朝の城

「――っ、えみ―、る」

 オスカーの目を覚まさせたのは自分の声だった。

 寝相の悪い妹たちに踏まれることも、弟のよだれを拭くことも、朝から姉の怒号が来ることもない朝。

 一人で目覚め、そこにいるはずのない人の名を呼んだ。

――また、同じ夢を見た。

あれから半年も経ったのか。


 神話と歴史が混沌し、魔術が息づく時代。

フェーリーン大陸の中心に築かれた王国の城の一室。そのベッドの上でオスカーは目を覚ました。重厚な石壁と樫で作られた部屋に、開け放たれた窓からは、小鳥のさえずりが響く。差し込む光は薄暗く、夜明けが近いようだ。

 オスカーはベッドから転がり降りて、水差しからそのまま浴びるように飲んだ。

 もう一度眠ることが怖い。

 朝日が昇りきらぬ時間だが、仕方ない。

 暇をつぶすには部屋の中は退屈で、空想に耽るくらいしかないのだ。

 寝具とクロ―ゼットと燭台置き、小さな机と椅子。

 一人部屋にしては十分な広さのため、必要最低限のものしかないこの部屋は殺風景かもしれない。

オスカーは以前の使用人が使っていた置かれたままの鏡の前で身支度をした。

 ココアブラウンの髪は伸びてしまい、悩みの種であるくせが出てきてしまった。

 髪と金色の目に映えるチャコ―ルグレイの従者の服。革製のベルトや胸と腰にあるポケットにナイフとシルクのハンカチ、貸与を許された複数の部屋の鍵をしっかりと収めた。

 品を出すため、とはいえ白いフリルスカ―フは少し苦しい。趣向を凝らした編み上げブ―ツも履きなれてきた。

 一息ついて、部屋を出た。薄暗く静かな城の中をオスカーは歩いた。

 

 かつて女神グラシアールが創造したというフェーリーン大陸。その中心で最大の領土を持つグラン・シャル王国は第十二代ベルンシュタイン王家当主にして十一歳にて即位したシリウス女王の統治下であり、城塞都市である王都トワイライトはその栄華を極めていた。

 五つの棟と居館(パラス)、王都を一望できるフェーリーン最大の城の中の石畳を、オスカーは慣れた足取りで歩いた。

ビ―ネンコルプ城。

王都の城塞と同じく絹茶色エクルベ―ジュと赤褐色の石と煉瓦で造られているそれは、蜜蝋と花の城とも呼称される。

人の手ではなく神々により創造されたとされるその城は、確かに人の手で造られたとは思えないほどに複雑かつ無数の部屋がある。王国に生まれた者ならばその城を一度目にしなくては死にきれないとさえ言い伝えられるほどである。

 夜になれば城中の明かりが灯り、城はまるで蝋のように甘い色に染まり、そしてその火は絶えることのない王の治世を意味していた。

 木々や季節の花が豊富な庭園、城内の渡り廊下にはツタが白い花弁を咲かせている。

 城外には交易船が行き交う程の水路があり、その水路は谷を渡って西海へと続いていくという。

 城には東西南北、そして中央の居館(パラス)があり、女王と親類者はその居住を許されていた。

「オスカー」

 緋色の髪を束ね、長身で鍛え上げられた体。その手にはいつも名剣が握られている。先ほどまで鍛錬していたのか、額に汗が滲んでいる。三十にもなるが、その行動は若さに満ちている。流石は、その身、一騎で戦場の英雄の名を手に入れた騎士。フェーリーンの南西部に位置する「紅の国エカルラ―ト」のココアニス家の次期当主。テオドロス・レグルス・ココアニス卿。

「おはよう、いい朝だ」

「テオ………」

 優しく響く声音からは、勇猛な騎士の恐ろしさの面影はない。

「日の出前に起床とは、精が出るな」

「いや、寝覚めが悪くて―――」

 オスカーの不調を察したのか、テオドロスは心配そうにオスカーの顔を覗き込んだ。

「体調が悪いのか? 無理はするな」

「大丈夫。そろそろ、シリウス………じゃない、陛下を起こさないと。寝起きが悪いから」

「そうか、それはご苦労なことだ。昨夜は陛下とクロッカ(九つの駒を使う戦略的盤上遊戯)はしていないから、機嫌は悪くないと思うが」

 女王は幾度となくテオにその勝負を挑んでいるのだが、どうやら連戦連敗を喫しているらしい。その悔しさは翌朝まで続き、女王の部屋の扉をノックする身としては寝起きの機嫌は最重要事項なのだ。

オスカーはシリウスの側近という名の身の回りの世話係を任されていた。身分ある女性であるならば、その世話をするのは女性であるべきなのだが、シリウスは女性を傍に置きたがらなかった。しかし女王の命令なのだから仕方ない。命じられたら、理由など必要なく頷くしかないのだ。

 まだ静かな城内にようやく朝日が差し込んだ。先々代の王は城内を緑豊かにすることに執心したためか、四季折々の花と豊かな水の庭園を城の中心に作ったという。

 庭園を抜けて突っ切った方が近道だと、オスカーは横着した。

「何している?」

 ふと庭園の中から声をかけられ、オスカーは慌ててその声の主を探した。

 リゲル・フロ―ライト。

氷薄色アイスブル―の瞳に銀糸の髪。姫であればその美しさを讃えていくつも詩ができたであろう美丈夫。

目の色と同じく、その言葉は氷のように冷たい。水辺に佇む彼はとても絵になる。

十一だというのに、品格と落ち着いた態度は成程「青の国」の神童である。

「陛下を起こしに―――ついでにアリスタとヴェロスも」

「分かった。二人は俺が起こす」

 身分ある者には部屋に朝食を運ばせるものだが、警備以外の従者を入れていないため、七星卿であっても足を運んでもらうことになる。揃って朝食を摂ると女王が定めたばかりに、リゲルはそれを何度も破るアリスタとヴェロスに腹を立てているらしい。

「リゲルはここで何を?」

「………」

 リゲルは無言で筒状に丸められた書簡を突き出し、オスカーは素直に受け取った。

「後で目を通しておけ」

「―――え、うん」

 そこに新たな来訪者だ。

「良い朝ですね、リゲル卿、オスカー卿」

「僕はただの『オスカー』だって」

「ご謙遜を」

 雪のように白い髪に赤い目。地下で暮らしていたという穴蔵(ニ―ヴォラスカ)人と疎まれながらも、その儚げで美しい少年、フィオーレ。「白の国パ―ルト―プ」の出自で神に仕える者にふさわしく、白い装束に身を包んでいる。フ―ドを常に目深に被り、時折覗く柔らかく笑う表情に、絆されないものはいないだろう。

「そうだ。僕の代わりに、二人のどちらかが陛下を起こしてきてくれたりは………」

「嫌だ」

「お断りします」

「………」

 女王に人望があるのかないのか、七星卿の反応を見る限りでははっきりしないところである。

「そもそも、王の部屋には不可侵の魔術がかかっている。女王が許可したのはお前だけだ」

「そうでした」

 オスカーはすごすごと引き下がり、重い足取りで女王の眠る居室へと向かった。

 不可侵の魔術、か。

 決して堅牢とは言えないその扉には、確かに古い魔術痕があるが、形骸化して久しいようだ。

 オスカーは扉をノックするも返事がないことは分かっていて、扉を開けた。

 王の寝室に相応しく、そこは人一人住むにはあまりにも広すぎる空間だ。

 小さな庭付きのバルコニ―に、巨大なクロ―ゼットと、上質なカ―ペットとソファ。どれも王都で作られたものではなく、各小国からの贈り物だ。

 オスカーは脱ぎ捨てられた服を拾い、食べかけの果物を片付けた。

 ベッドカ―テンの奥からは人が起きた気配はない。

 オスカーはベッドに眠る、この大陸の統治者を起こす重要な任務に取り掛かった。

「早く起きて、シリウス。みんなももう揃っているはずだから」

シリウス・クロ―ド・ベルンシュタイン。

 ベルンシュタイン王家の末子にあたり、このグラン・シャル王国の女王である。

 ハチミツ色の髪は日の光を浴びれば、淡いコ―ラルピンクの色が差す。

 見開かれたその瞳の色は琥珀色。ベルンシュタイン(琥珀)の名にふさわしいその瞳は、未だ虚ろだ。

「昨夜は、どうして来なかった?」

 シリウスは毎晩決まってオスカーを呼び出す。最近は呼び出されなくても夜更けには部屋を訪ねるようにしていたが、昨夜はそうしなかったと、彼女なりの寝坊の言い訳をしているのだ。

「来たけど、ノックしても出なかった。シリウスが先に寝ていたんでしょ?」

「おかげで夢見が悪かった」

―――だからか。

「僕も夢を見たよ」

 どういうわけかシリウスの夢見が悪い日は決まってオスカーも悪夢を見る。単なる偶然ではあるが、シリウスは夢見が悪いと特に起きる時間が遅くなる。

 数分の問答の後、シリウスはようやく身支度をし始めた。

 少年のように振舞うが、猛々しく、意地悪に笑うところはまさしく女王の片鱗だ。

 年齢の割には小柄で華奢であった。

 ドレスではなく、見習い騎士のような恰好ばかりを好み、そして体躯にあったレイピアを腰にさした。

 出会った頃は少年のように短い髪も、今は肩にかかるくらいにまで伸びた。髪の切り方を知っていても、結い方をしらないシリウスは、毎度オスカーに髪を結ってもらっている。

「皆を待たせているんだ。少しは焦ってよ」

「あいつらは待たせるくらいが丁度いい」

「そんなに億劫なら朝食を運ばせるよ」

「いい。今は城に使用人を増やしたくない」

「そういうワガママは言わないで。シリウスが決めたことなのに自分は反古にするなんて女王として示しがつかないよ。それからちゃんと皆に謝ること」

「―――分かっている」

 全く変なところで甘えるから困ったものである。

「―――詫びる代わりにお前が見た夢、今晩教えろ」

 王命ならば逆らえない、とオスカーは恭しくお辞儀した。

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