降る朝

石田明日

「降る朝」

 カーテンが滲んでいた。二人で早起きした時とは反対の色で、寂しげにはじまりを僕に伝えている。僕の温もりしか残っていないベッドにもう一度倒れ込んだ。部屋は明るいと言えば明るいが、色のせいで空寂の世界に変わってしまっている。捨てられなかったDVDの表紙は霞んでいてよく見えない。

 

「おはよ」

 朝の弱い彼女は、僕より先に目を覚ますことはない。なのに手を離してはくれないから、彼女が起きるまで僕は身動きが取れない。その事実に愛おしさを感じたまま、彼女の体温や朝の空気を楽しんだ。

 ずっとこのままでいい。少し彼女のせいで不自由を感じるくらいの朝が僕にはお似合いだ。

 返事は聞こえてこないのに、安心し切った寝息が聞こえてくる。色のない光が強く差し込んできたら彼女を起こそう。また、今日を一緒に歩こう。

 七畳もない寝室には何度も見た映画のDVDや、僕たちが面倒を見なくても同じ時を長く共有してくれる観葉植物がある。他にも映画のポスターやグッズがバランスよく並べられている。

 お菓子のゴミや、二つのマグカップは昨日見た映画を思い出せてしまうくらい、僕たちの景色によく馴染んでいた。

 明るくても暗くても騒がしい部屋。色が多く、胡散臭い可愛らしいポスターは一人でもきっと満足してしまうだろうけど、この部屋には僕たちがいないとだめだ。

「おはよう」


 一人に耐えきれずに掛け布団をクシャクシャにした。僕一人でも乱れることのできるベッドが憎い。今日も相変わらず薄明の中に僕だけがいる。 ゆっくりと鳴き始める蝉の声に耳を傾けても、空疎な時間が過ぎていくだけだ。耳を塞ぐためにイヤホンをつけた。

 こもった匂いがまだ部屋に残っていて、いても立ってもいられなくなった。勢いよくベランダに出ると、夢だと勘違いしてしまうくらい光が強く、まだ現実を受け止めなくても許されるような気がした。

 何となく深呼吸をした。大きな酸素が僕の体を壊す気なんて一切なく、ただ当たり前に体の一部となっていく。それを体感しては手に力が入り、掌が痛くなった。



 私の声を聞いた途端クシャクシャに笑う彼の顔がそばにいて、私も笑ってしまった。今日も彼の手を離すことを忘れていたみたいで、それもまた可笑しくて笑ってしまった。

 私の絡まった髪の毛を優しく撫で、またおはようと小さく言う彼がどこか儚く、愛おしい。

 ふと視線をテレビの方にやると、昨日食べ散らかしたお菓子のゴミが浮いて見えた。この部屋にはふさわしくないというのに、なんだかんだインテリアでも問題がないくらいには馴染んでいる。私たちのマグカップは仲良く並んでいて、些細な幸せにほっとした。

 梅雨が明ける前の夏。眠気が抜けずにダラダラと二人で過ごす休みの日に、何となく寂しさを感じた。どこにも行かず、お互い交代交代でご飯を作り、いつもと同じように映画を見る。

 愛し合っているジメジメとした昨日も今日も、無くならないで欲しい。きっと明日も同じように願い、新しくいつも通りの愛を実感してしまうんだろうけど、私はそれさえあれば十分だ。


 午後三時。ふと何度も行ったパン屋さんのパンが食べたくなった。彼は仮眠をとるといい、一人で賑やかな寝室に溶け込んでいる。

 行ってくるねと小さく声を出し、外に出た。蝉が鳴くには少し早すぎると思うが、夏だなぁとしみじみとしてしまうくらいには暑い。うるさい蝉時雨をかき分けて、パン屋さんに急いで向かった。

 パン屋さんのガラス窓に映る私は一人で、彼の手の温もりだけが残っていた。静かに終わってく四季がどんどんと乗り越えられないものに変わっていく。私だけの愛が、ひたすらに地面ではねているような気がして、下を向くことはできなかった。



 彼女の笑い声が大きくなり、まだ離していない手の体温が上がった。それになんだか恥ずかしくなってしまい、乱れた髪を撫でた。笑い声の絶えない朝に何度もおはようと言いたい。彼女に聞こえているのかわからないが、本当に声に出てしまったおはようを隠すために、体を起こした。

 観葉植物にひさしぶりに水をあげた。

「なかなか枯れないね」

 後ろから彼女はくすぐったく髪を当ててきた。

「そうだね、まだきっと生き生きしてるよ」

 この木の寿命は知らない。僕は何度か調べようとしたが、終わりがわかってしまうのは悲しいと彼女が話していたことを思い出し、何度も検索せずに携帯を閉じた。

 夏が来そうな中途半端なこの時期に眠くなる昼過ぎ。僕はうとうとしたまま電気のついていない部屋で、かすかに聞こえる蝉の声を聞いて目を閉じた。


 体が落ち着かない。真っ青な夏の空。この時間帯によくパンを買いに行った。二人で手を繋ぎ、花壇の花を見つめながら匂いに誘われて、顔を見合わせてはしゃいだ道。

 引っ越したのは彼女の方だった。僕の街は何も変わらず、あの時の思い出が閉じ込められたままだった。

 何度も遊んだ公園の遊具はあの時よりも塗装がひどく剥げていて、色なんかおまけと同じくらいに小さく、なんの意味もなかった。そうやって僕だけが前に進むことができずに、色褪せては消えきらない思い出を抱えるだけ。

 このベンチでアイスを食べ、意識できないくらいに幸せだった一時では溶け切らなかったアイスは鬱陶しかった。だけど、それすらも僕は愛していたんだ。

 後ろの方から子供の笑い声が聞こえた。その笑い声に素直になることができず、汗と一緒に下を向いた。都合よく花が咲いていて、僕の知らないところで、誰にも知られずに散ってくれるようにとただひたすらに願った。



 帰り道、マリーゴールドが枯れて死んでいた。私たちみたいで、胸が苦しくなったのと同時に、必ずある終わりにどこか安心した私もいた。

 もう二度とこの街に足を踏み入れることはないだろう。今日で終わりだ。明日になったらこの街とは正反対の都会が広がった、青白く汚い新しいところに行く。




 何度も見た入道雲。僕たちが歩いてきた未来という過去は、この部屋にこもってる匂いと同じように消えることはない。頭が割れそうなほどうるさい蝉も、来年必ず僕たちの元へと戻ってくる。

 目を瞑れば簡単に思い出せる映画の感想をひたすらに考え、夏に絡まったそれらをとにかく引き剥がそうとした。

 キラキラしていない夏を何度だって迎えたい。夜には蛙が泣き、朝になれば視界に入る植物全部が枯れ果て、ただ眩しいだけの光と並んでいたらいい。死んだ僕はきっと眩しいだけがお似合いだ。

 

 久しぶりの早起きに目があった空の色はオレンジだった。昨日はやけに外が騒がしく、ぐっすりと眠りにつけた気がする。

 目を細めるほど明るくなくて、汚いオレンジ色の空には出来過ぎだと鼻で笑ってしまうような虹がいた。

 透き通った空気に欠伸した。苦味が口に広がった。苦しくなれないが、ただ私の口の中には苦味だけが取り残されている。

 そのくらい好きだった。静かに始まる夏の合図はあなたを捨てた私を責めているんだろう。一緒になって泣き叫びたい。


 抱きしめられないオレンジに青、また二人で迎えられたらなんて。



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