第26話 江戸時代に考えられた未来都市
新潟湊が築港されたのは江戸時代中期。
長岡藩の領内でとれるお米を信濃川で運んであつめて、集約する出荷港をつくるためでした。
そのため、初めから計画的に整備されています。
この西堀通は、街を計画した時点では街はずれの一番西側でした。
そこに墓地を整備するために、お寺を配置しました。
1番町から12番町までずっとお寺が並んでいます。
1.5kmの距離にずっとお寺が並んでいます。
将来の人口増に対応するため、死者を埋葬する寺町を整備したのです。
このような巨大な寺町の存在は日本の他の都市に類をみません。
(ちなみに江戸末期の開港時、お寺の建物は大きく部屋も多いので、イギリス、フランス、ロシアなど、西堀通は各国の領事館として使われました)
つぎに、人口増に対応するための一番の問題は「し尿処理」です。
江戸時代に考えられたのは、堀(運河)を縦横に巡らして、船で運搬する方法でした。
このようなし尿処理の仕組みが大規模に整っていたのは、江戸、大坂、新潟の三都市が代表でしょう。
江戸、大坂は城下町なので堀は防御施設も兼ねていましたが、新潟は純粋な都市輸送システムでした。それで人口増にも対応できて、江戸末期に多くの住人がいたと言われています。
このお堀は新潟国体時に水質悪化のためにほとんど埋め立てられ、道路になりましたが、
この西堀通からすぐ、日本銀行新潟支店のハス向かいに
「英国紅茶サロン メイフェア」(新潟市中央区寄居町343−38)
ここで散策のあと、ゆっくり午後の紅茶はいかがでしょうか。
本格的な午後の紅茶を味わうことができます。
※皇后さまのご実家のお墓もこちら西堀通にあるそうです。
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