とおてくう、とおてくう、とをるもう
藤田桜
駅
暮れなずむ空はきれいな蜜柑の色をしていて、不吉な、世界の終わりの兆しのように思えた。蚕蛾が群れを成して飛んでいる。やや私たちの方が速い。放っておくとすぐガラス戸が曇るのが気に入らなくて、乱暴に袖で拭った。
「汚いぞ、お前」
向かいの座席に座った少年――真くんが眉をひそめた。私は冷たく濡れた袖を見つめる。そして、もう一度彼と目を合わせた。
「服でモノ拭いたり、口を拭いたりする癖。汚い」
しばらく見つめ合っていると、真くんは恥ずかしくなったのか学生帽で目元を隠した。
そっか。汚いのか。……汚いな。どうして気付かなかったのだろう。
私は上着を脱いで、袖の部分を内側に隠すようにして畳んだ。さっきまで自分の体の一部だったはずなのに、気持ち悪い。喉の奥から何かがせりあがってくるような気がした。俯いて、唾ごと飲みこむ。すると痩せっぽちの、骨だけの腕が露わになっていたのに気が付いて、何か羽織れるものはないかとバッグを漁った。
「寒いだろ、そりゃ。僕のを着るといい」
「違うくて、」
「僕は下はシャツだから。大丈夫」
真くんの学生服は温かかった。仏壇のお線香みたいな、真新しい畳の藺草みたいな、いいにおいがする。真くんは何度も学生帽をいじって、その度に深くかぶり直そうとしていた。会話もなくなって、暇を持て余した私は窓の向こうを見やる。
蚕蛾の群れ。橙色。寺の鐘。フェンス。坂道。枯れ木には色一つなく、白いもやが桜の花のように咲いていた。雲の端が紫色に染まっていて、遠い山並みの方にはすでに夜が来ている。古びた墓石の広告が孫をつれて歩いていた。夜。夜。夜が来る。電灯の夫婦がチカチカとたのしそうに話をしている。次に目を開いたときには、空はもうすっかり暗くなっていた。
――。
――まもなく、■■■。■■■です。
目が覚めたのは、アナウンスが聞こえたからだと思う。降りなきゃ。目の前に手が差し伸べられた。すべすべとしてきれいだけど、ちゃんと男の子の手だ。ひんやりとして心地良かった。その時私は自分の寝汗が服に染みていることに気付いた。どうしよう。返せなくなっているかも知れない。でも、真くんは怪訝そうな顔をして、
「? 早く降りるぞ」
「、うん」
しゅー、という音を立てながら、扉が開いた。彼のやや斜め後ろを歩きながら電車の外に出ると、巨大なくらげがふよふよと改札口にしがみついて塞いでいる。たぶん、電気を食べているんだ。けだるそうにこちらを見やると、きゅおうきゅおうと鳴いて威嚇し出した。
「離れていろよ」
と真くんが言ったから、私はその通りに従って時刻表の陰に隠れた。彼はズボンのポケットから小さな手帳を取り出すと、そこから一枚頁を千切って、書かれていることを読み上げていく。
『エーテルは重く、泳ぐ海月をつらまえて』
歌うように歩み寄る彼の頬をくらげの触手が切り裂いた。とくとくと赤い血が流れる景色に飛び出しそうになったけれど、さっき彼に言いつけられたことを思い出して、とどまる。
『はや草花もぐったりとして』
一秒ごとに真くんの姿は触手に包まれて消えていく。私は気が気でなかった。
『月明かり幾つか筋をゆらめかせ』
けれども、凛とした声だけは響きつづける。それだけが頼りだった。
『この無数の手で、私は
最後の一行を読み終えたとき、くらげの体から何かきらきらとしたものが漏れ出して、空気へと溶け出していった。やがてそこには紙きれが一つ残るばかりで。物陰から出てきた真くんは、その一枚を拾って手帳の中に挟み込むと、私の方を振り向いて言った。
「さ、行こう」
私たちは改札に切符を通して、駅をあとにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます