第4話 聖書の解釈

 マルクス主義について調べていた際に気になったのが、マルクスがヘーゲル左派の内部論争の過程で唯物論的歴史観を確立させたことでした。そこでヘーゲル左派について調べたとところ、気になる人物がいました。その人物は、ヘーゲル学派の神学者 ダーフィト・シュトラウスです。 シュトラウスは、この著作の聖書解釈の中で、福音書の中の歴史の史実性を否定し、すべて神話であったとする見解を示した。

 ヘーゲル学派の神学者 ダーフィト・シュトラウスは、進化論に立脚した汎神論的な思想を展開し、当時の青年ヘーゲル派の哲学者にはもちろんの事、実存主義の哲学にも間接的に影響を与えたとされていますので、マルクスの唯物論的歴史観にも影響を与えていると思われます。

 問題はシュトラウスがの著作の聖書解釈の中で、福音書の中の歴史の史実性を否定し、すべて神話であったとする見解を示したことです。聖書に限らず、どの宗教においても開祖が数々の奇跡を起こした話は珍しくありません。また、各宗旨の開祖も同じであり、様々な奇跡の話が残されています。しかし、世の中の知識人と呼ばれる人々は、これらの奇跡を全て神話であるとして否定する傾向があります。そして奇跡を全て否定することが科学的であるとか、進歩的な考えであると考えているのではないかと思われます。

 この時代には、チャールズ・ダーウィンの「種の起源」が1859年に発刊されるなどキリスト教の説く神によって生命が創造されたことが否定される学説が発表されるたことも大きな影響があったと考えることも充分に可能です。しかし、「ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハが主著「キリスト教の本質」が神仏の存在を否定する唯物論に加担したことは間違いないのではと思われます。

 これは何もキリスト教に限られた話ではなく、日本の仏教界においても見られる傾向です。しかし、宗教において神秘思想を否定することは、宗教にとって自殺行為になることに気付いてないようです。奇跡とは神仏の存在を実感することであり、人智を超えた偉大な存在を認識することでもありますが、奇跡を否定することで宗教の説く教えを神仏とは切り離した人間の英知の枠の中で考えることが科学的であり、進歩的な考えであると考える宗教家は少なくありません。

 これは科学的な思考のようですが、科学を否定することになります。科学者の武田邦彦氏は分からないことがあるから研究するのであって現代科学で全て解明できるのであれば、研究をする必要がないと言われています。つまり、科学は常に分からないことが存在していることを前提にしています。そのため、科学で説明できないことの存在を否定することは、簡単ではありますが、それは科学的な態度ではないと言えます。

 例えば、他力の教えは阿弥陀如来の存在を否定したならば成り立たない教えですが、門徒の前でも平然とあの世など存在していないと公言する僧侶がいることは事実です。神仏の存在を否定して心の教えを説くのであれば、僧侶の資格を返上して心理学者にでもなれば良いのですが、それすらもしないようです。それは破戒僧とも言えることであり、僧侶として最悪なのですが、何ともならないのが現状です。

 さて、話を元しますと、「シュトラウス」の主張は、当時のキリスト教会から激しい批判を浴びたとされています。しかし、ここで注意すべきは、このような主張が多くの人に影響を与えたことです。「シュトラウス」の説く思想は、宗教の形骸化と信仰の否定であり、聖職者が信仰を否定していると言えますが、このような思想が多くの人に影響を与えた背景には、当時の人々の心が闇の勢力に支配されていた可能性が高いと思われます。

 いつの世でも巨大な新興宗教が成立するのは、時代の転換期であり、人々の不安が増大する時期です。そのような時代には、闇の勢力が勢力を拡大する時期と重なります。

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