時空超常奇譚其ノ弐. OH MY GOD/夢現の時空線

銀河自衛隊《ヒロカワマモル》

時空超常奇譚其ノ弐. OH MY GOD/夢現の時空線

「神様お願い」

 朝から雨が降っていた。七月とは思えない冷たい雨粒が弾け、新緑に映える青い匂いが震えながら街を包んでいる。

 東京都内東池袋に新設された国立新東京大学の非公認サークル『超々常現象研究会』代表の七瀬奈那美は、その日も大学近くの喫茶店サンジェルマンでいつものように朝食を済ませた後、部室を訪れた。早朝の部室には既に後輩二人、小泉亰子と前園遥香が来ていた。

「先輩、お早う御座います」「お早うさんです」

「今日はやけに涼しいね。ところで、お前等今日の講義はないのか?」

「ありますけど、雨だから多分休講です」

「ウチも休みです」

 小泉のきっぱりとした声とチョコレート味のクッキーのような前園の甘ったるい声が、いつもの一日の始まりを告げている。小泉亰子はモデル系顔の美人、前園遥香はアイドル顔で可愛い。どちらも街で男から声を掛けられる事も多いだろう、小泉は竹を縦にすぱっと割るような性格、前園遥香はインドアのオタク嫌いを自慢している。

「それなら小泉はデートにでも行きゃいいじゃないかよ、あの顔だけイケメンの慶應ボーイのボクちゃんとさ」

「先輩、それはまたこれです」

 前園が左右の人差し指でバツを描いた。七瀬はその言葉に呆れた顔をした。

「何、また逃げられたのか。しょうがないねぇ」

 小泉は、慌てて即座に反論した。

「違いますよ、私がフってやったんです」

「そうなの、それにしちゃ毎回同じパターンじゃない。もしかして、何か変な趣味でもあるんじゃないのか、縄とムチとロウソクとか、縛られてブタとかイヌとか言われないと駄目とかさ?」

「そ、そんな趣味はありませんよ。世の中の男共がノータリンで、まだ私のこの素晴らしさを理解出来るレベルに達していないだけです」

 小泉は口をへの字にして七瀬の言う性癖を必死に否定した。強くなった雨がガラス窓を叩いている。

「もう、いい男いないかな。遥香もそう思うでしょ?」

 小泉は都合の悪いその状況を打開すべく、相方の前園に話を振った

「いやいや、ウチには俗世間の欲など全く必要ない」

 前園は顔の前で手を左右に振り否定しつつ、鞄から出した宝くじの束を机の引き出しに仕舞い込んだ。

「七瀬先輩こそ講義はないんですか?」

「私は既に卒業単位は取得済みで全て優、あるのは日本経済論のゼミだけだ。今日も午後から日本経済論橋田ゼミの討論会がある。議題は確か『バブル経済とスタグフレーション』だ。サブテーマは『人は性善か性悪か』だね」

 講義途中で日本経済論とは関係のない討論を始める事で有名な経済学部教授端田誠

ゼミは、端田がTVコメンテーターとして活躍している事もあって、学生達に絶大な人気を博していた。

 今日も端田の行き付けの喫茶店で開かれる月イチ定例討論会は、『バブル経済とスタグフレーション』なるテーマに沿って開催されるらしい。学生達は、それが大学への体裁であり、サブテーマが事前に知らされている意味、即ち日本経済論など発哺らかして全員で自由にサブテーマを議論するという事を、暗黙の内に理解している。

サブテーマ『人は性善か性悪か』のルールなしの論争が始まるのだ。「やるぞ」と七瀬が気合いを入れると、小泉はいつもの事ながら心配そうな顔をした。

「先輩、またやるんですか?」

「またって何だよ?」

「だって先輩、先週の議題は確か『戦争とは何か』でしたっけ、その討論でゼミの男の人達を凹凹にしたばかりじゃないんですか?」

 七瀬は眉間に皺を寄せた。その顔に、不満、怒り、反発、憤り、その他諸々が浮き出ている。

「そんなモン当然だよ。奴等はな、「戦争は人間のエゴだ」なんぞと、何の疑いもなくアホみたいに抜かしやがったんだから全く以って話にならない。余りにも低レベル過ぎて馬鹿を言うにも程があるだろ、今日の討論はその続きなんだよ」

「端田ゼミって有名やけど、変なゼミやなぁ」

 前園がぼそっと呟いた。何の事はない、単純に教授端田が討論好きなだけの話なのだが、日本経済論と言いつつ討論会の評価がゼミの評価点になっているらしい。

「まぁ、私も嫌いじゃないから、付き合ってやっているだけなんだけどね」

 大学内では日本経済論端田ゼミはかなり有名で、教授の端田も頻繁にTVに出る有名人ではあったが、実は月一討論会ばかりか講義中にも日本経済論が語られる事など殆どないハイポップなゼミであり、ゼミ生の誰もが奇妙なゼミだと思っている。

「それで、先輩は性善説支持なんですか?」

「それはそうですやん。人間は霊長類の頂点なんやから、性善でないとマズイんやない?」

 小泉の質問に、前園が「当然だ」と言わんばかりに同調すると、七瀬はその期待を裏切ってきっぱりと否定を口にした。

「いや、人間なんて単なる生物に過ぎないんだから、性悪に決まっているよ。尤も、根本的には性善も性悪もないんだけどね」

 七瀬の言葉に小泉は驚き、前園は珍しく持論を主張した。

「えっ、性悪なんですか?」

「性善説がエエと思いますよ。人間だけが高度な思考をする訳やから、人間が性悪やったら地球はどうなってまうんですか?絶対に性善がエエと思います」

 七瀬は前園の持論に思わず吹き出した。

「前園、それは違うぞ。人間なんて猿や犬や猫、蛙や蝿と大して変わらない。チンパンジーと人間の遺伝子の違いなんてたったの2%程度だと言われているし、他の生物と比べてたってほんの少し遺伝子が違うだけなんだそうだ。人間が勝手に『我々は生物の霊長類の頂点であり全ての生物よりも賢い』と思い込んでいるに過ぎないんだ」

「けど、人間は牛や犬猫とは違うやないですか?」

「そうですよ、人間は他の生物とは違う高度な思考を持っているんですから」

 二人の言葉に、七瀬の笑いが止まらない。

「猫の中にはヒトと90%以上の遺伝子が類似している種があるし、ネズミや牛だって85%、何とバナナは60%の遺伝子が人と類似しているんだ。それに、そもそも『犬や猫は高度な思考をしていない』なんて断定出来るものなのかな?」

 七瀬は単純な正論を提議した。

「『蛙や蝿は哲学を語っていない』と何故確定出来る、『ネズミやミミズやモグラは神に祈らない』と何故言い切れる?」

 腕を組み、納得のいかない前園は唸りながら反論した。

「ほな、何で先輩は『人間が性悪だ』と言い切れるんですか?」

「そんなの簡単だよ、全ての生物は遺伝子の呪縛に操られている。遺伝子の究極行動が何だか知っている?」

「えっ、何だろう」と今度は小泉が首を唸る隣で、前園が即座に「そんなの簡単、増殖です」と答えた。

「その通り、生物は細胞が分裂増殖するのと同じように、遺伝子に縛られた増殖を運命づけられているんだよ。そして、増殖とは即ち『争いと勝利』に他ならない。簡単に言うなら、自分のコピーを増やす争いに勝利する事こそが、全ての生物の生存の基本だって事なんだ」

「なる程」「なる程」二人は頷きながら聞き入った。

「生物は、ウイルスであろうがバクテリアであろうが、犬猫あろうが、全ては同じように自らのコピーを増やし続ける事を生きる目的としている、と言われている。爬虫類であろうと高等生物と言われる哺乳類であろうと、その頂点に立つ人間であっても、何ら変わる事はない。雄は雌を奪う為に命を掛けて戦い、そうして得た雌を通して自分の遺伝子を撒き散らし増殖していく。雌は雄を通して、如何に強く優秀な遺伝子を獲得して子孫を残すかに運命を託す。それを本能と呼ぶんだよ」

 生物の行動は、全てこの自己増殖行動で説明する事が出来るし、生物とは常に自己増殖行動を仕掛ける事を遺伝子の本能とする存在と言う事が出来ると言われている。

 極端ではあるが、イギリスの生物学者ドーキンスは『生物は遺伝子の乗り物だ』とまで表現している。

「そんな生物の一つに過ぎない人間が、善、即ち闘争という他者との本能的な関わりを持たない存在である筈がないし、根本的に本能を否定して争いがなくなる事なんてない」

 七瀬の言葉に、今度は小泉が持論を吐いた。

「『根本的な生物行動が増殖であって、根本的に争いがなくなる事がない』っていう先輩の主張は理解できますけど、でもやっぱり人間の叡知で戦争をなくす事だって不可能じゃないと思うんですけどね」

「無理だね、私達人間が『単なる生物如き』である限り、その本能を超越するなんて洒落た芸当は出来る訳ない。自然摂理の前では、人間の叡知なんか屁の突っ張りにもならないのさ」

「そうなんですか?」「そうかぁ、嫌やなぁ?」

「当然だ。もし人類がいきなり世界政府を樹立して、完全な管理システムが機能するなんて奇跡があれば、戦争がなくなる可能性もあるかも知れないけど、それでも人間同士の諍いや局地的な争いが全てなくなる事はないだろうね。人間なんてその程度なんだよ」

 小泉は更に反論した。

「でも先輩、連鎖で考えるなら、一概に全ての生物が性悪だとは言えないんじゃないですか?例えば、植物と動物や生物同士は連鎖という素晴らしい自然のシステムで繋がって、豊かな母なる地球を育んでいる訳だから」

 小泉の言葉に、七瀬は鼻で笑い出した。

「連鎖やら自然のシステムと言えば聞こえはいいけど、それは即ち補食であり戦争だ。連鎖を補食される生物の側で考えるなら、それは死であり恐怖でしかない」

「そっか」「そやな」前園と小泉が唸った。

「それに、連鎖で生まれるものが地球にとって豊かだと思っているのは、人間の錯覚かも知れない。私達が母なる大地だと思っている地球が、それを望んでいるかどうかだって疑問だ。生物のいない何もない砂漠の大地こそが地球の理想なのかも知れないし、そうじゃないとは誰にも言い切れない。地球が私達を子供、或いは好ましい生物だと思っているかどうかだって怪しいもんだね」

 小泉と前園は唸る声もない。

「人間なんてさ、所詮は地球というナベの底に張り付いたカビ、その程度のものなんじゃないかな。カビ如きが何が霊長類だ、何が母なる地球だ、何が性善の存在だよ、カビの分際で傲るのも大概にしやがれ、って地球が叫んでいるかも知れないんだ」

「ええぇ、カビですか?」「カビかぁ」

「カビが嫌ならゴキブリかな。所詮、人間の行動なんて雄雌の生殖行動から戦争まで、全てはこの遺伝子の本能的活動だけで説明する事が出来る、それ程単純だ。先週の討論もそれだけで勝ったようなもんだ。根本的に説明できないものなんて、宗教と神くらいだよ」

 七瀬の生物概論が続く。

「更に言うなら、宗教そのものは特異な増殖行動と考えられなくもないけど、単なる偶像ではない『生物学的な神』という存在が、人間にとってどういう意味を持っているのかは永遠の謎だね」

「でも先輩、神に祈る存在だからこそ、人間は他の生物とは違うんじゃないんですか?」

「そうですやん」

 小泉と前園の力強い反論が続く。

「でもさ、『犬は、神に祈らない』『猫は、運命を嘆かない』『蛙は、輪廻を知らない』、もっと単純に『鼠は、喜びも悲しみも知らない』『蝿は慈しみも憂いも知らない』なんて、どうして言えるんだろうね?」

 更に唸る小泉が、ギリギリで言い返した。

「でも、大規模な戦争をするのは人間だけじゃないですか?」

「とんでもない。さっきも言ったように、連鎖は補食であって命懸けの戦争だ。バクテリアから虫や鳥も猫も鼠もサバンナの猛獣に至るまで、全ての生物は毎日命懸けの大戦争の中で生きているって事だ。それに比べたら、人間の戦争なんてちっちゃいもんだよ」

 討論に疲れた小泉が突然キレた。

「あああああぁ、もういい、もういいです。性善でも性悪でもどっちでもいいです。そんな事より、突然神様が現れて『何でも願いを叶えてやるぞ』なんて言ってくれないかな。そしたら、絶対にイケメンの彼氏をお願いするんだけどな」

「そもそも神様とは何なんやろねぇ?」

生物論争に飽きた小泉の横で前園が神の謎を振ると、七瀬はにっと笑いながら目を輝かせた。

「可能性として言うなら、神とは存在なんだよ」

「存在?」「?」

「そもそも神とは何か、神がどうして存在するのかというと・」

 七瀬の神の存在論が始まり掛けた時、ドアを叩く音がした。と同時に、開けた覚えのない。何故か鍵の掛かった扉の内側に、見慣れない一人の老人が立っている。

 三人共、そんな老人に見覚えはない。長い髭を蓄えて、コブの付いた杖を携えて立つ老人は、まるで神話にでも出てきそうな出で立ちで唐突に言った。

「ワシは神なのじゃがな、何か叶えて欲しい願い事はないかな?」

「えっ、神様?」「?」

 小泉と前園は、老人の見た目の怪しさと余りのタイミングの良さに、閉口したまま立ち尽くしている。その傍らで、七瀬はいきなり現れた胡散臭そうな老人に忠告した。

「おい爺さん、どうやってこの大学のセキュリティを潜ったのか知らないが、校内での商売は禁止だよ。追い出されない内に早く帰った方がいい。ウチの大学の警備員はかなり荒っぽいからね」

 老人は耳が遠いのか、七瀬の話を聞いていなかったように同じ言葉を繰り返した。

「何か願いはないか、誰でも良いぞ。何でも叶うぞ」

 七瀬が不満そうに、迷惑顔で言った。

「しつこいな爺さん、いきなり来た訳のわからない輩に『神様お願いします』なんぞと言う間抜けな奴はいないだろう?」

 老人は七瀬の拒絶など諸共せず、依然として同じ事を呟いている。

「ワシは神じゃよ、願いはないかな?」

 七瀬がキレ掛かっている。

「何が神だ、どう見たってどこかの危ない爺にしか見えないじゃないか。帰れと言ったら、とっとと帰れ」

 自称神は、ちょっと腹立たしそうに同じ言葉を繰り返した。

「娘子よ、疑い深いな。ワシは神じゃ、何でも願いを叶えてやると言っておるのだ」

 神を自称する老人が何故ここにいるのか、何をしようとしているのか、皆目わからない。唯、七瀬は押し売りのように願いを促す老人から、微かにどこかで嗅いだ事のある吐き気のする腐臭を感じていた。

「要らないと言ったら要らないんだよ、帰れ爺」

「願いを叶えてやると言っておるのだぞ」

 執拗に促す老人に、七瀬は既にムキになって答えた。

「私の座右の銘は『タダより高い物はない』だ。わかったら、大人しく帰れ」

「タダではないぞ」

「金を取るのか?」

「違うな」

「じゃぁ、神が魂でも抜くのか。ベタな話だな」

「それも違う」

「じゃぁ、何を取るんだ?」

「それは秘密じゃ、何か当ててみるが良いぞ」

 七瀬奈那美はそこでキレた。握りこぶしを机に叩きつけ歯ぎしりの七瀬が叫んだ。

「煩いクソ爺、今直ぐ消えろ」

「先輩、落ち着いてください。ストレスはお肌に良くないですよ」

「前園、クソ爺を追い出して、扉を閉めて塩でも撒いとけ」

「お爺さん、もう帰った方がエエよ」

 左手で他人の感情を読む事が出来る前園は、老人を外に誘ない、扉を閉めながら左手を翳した。

「遥香、何か見えた?」

 手を翳す前園は、正体不明の老人の心理に首を傾げた。

「ん、何やこれ、カオス?オッサンの中に、嬉、楽、悲、哀、混濁した色んな感情がごちゃごちゃしてた」

「クソ、気分が悪い。前園、塩撒け。小泉、変なジジイが来たってチャオに書き込んでおけ」

 七瀬は腹立ち紛れに言った。前園は関取が立ち合いでもするかのように塩を撒き散らし、小泉はサークルで立ち上げたインターネットサイト『チャオ』に書き込んだ。

キーボードを叩く音がした後、小泉が、何かを見て叫んだ。

「あっ先輩、もう同じような書き込みがたくさんあります」

『長い髭の神と名乗る者が来た。早速願いを言った、きっと叶うに違いない』

『長い髭の神と名乗る者に酒池肉林の生活がしたいと願った、きっと叶うだろう』『長い髭の神と名乗る者への願いは叶った、素晴らしい』

 その他にも、神を自称する老人を評する書き込みが散見される。内容は『願いが叶った、叶うだろう』というものが殆どで、酷評するものは見当たらない。

「本当なのかな?」と眉をひそめる小泉に、七瀬は強い口調で告げた。

「そんなモン嘘っぱちに決まってるだろ、マガい物のインチキ商売と一緒だ。どうせ自分で書き込んでいるんだよ、暇なジジイだな」

「でも、何が目的なんでしょうね?」

「ジジイの目的なんざ知らないけど、さっきの紫色の髭のジジイがあっちこっちで胡散臭い商売してやがるって事だ」

 七瀬が憂さ晴らしに言った言葉を、小泉が不思議そうに否定した。

「先輩違いますよ、髭は茶色でしたよ。遥香は何色に見えた?」

「ウチはグレーに見えたで」

「あれれ、何でかな?」

「さあ知らないね、汚いジジイの髭の色なんかに興味はない」

 そんな事件の数日後、老人は再びやって来た。

「先輩、またお爺さんが来てますよ」

「ワシは神なのじゃがな、何か願い事はないかな?」

「また来たのかよ、懲りない爺だな」

「そこの娘子達よ、願いを・」

 老人が小泉に同じ事を言い出すと、七瀬は迷惑気味に叫んだ。

「だから要らないって言ってるだろ爺、しつこいぞ」

「だが、願いが叶うぞ」

 七瀬は嘆息しながら、改めて老人に訊ねた。

「なあ爺さん、何故押し売りのように願いを叶えようとするんだ、本当は何かを売っているんだろ?」

「いやいや、ワシは物売りではない。唯々願いを叶えるのがワシの仕事だからじゃよ。金もいらんぞ」 

 老人は否定を繰り返した。何も報酬なしに願いを叶える事で得られるものとは何か。否、そんなものはあり得ない。ならば何を得ようとしているのだろうか、そもそもこの神と名乗る老人は何者なのか。そして相変わらず七瀬の鼻を刺す嫌な臭い。七瀬は、老人に挑戦的に言いつつ、あれこれとその正体を思索した。

「やれやれ、理屈っぽい事を考えておるの。これならどうじゃ、画・現・ほい・」

 老人が何かを唱えると、三人の目の前に大型のモニターが現れた。

「凄い」「手品かいな」

「これはな、ある時ワシが願いを叶えてやった娘じゃ。願いを叶える前と後の姿を良く見るが良い、随分と変わったじゃろう?」

 老人は得意気な顔でニヤついた。出現したモニターには、若い女の顔写真が二枚映し出されている。同一人物とは思えない程の変わり様は、整形外科の宣材写真にしか見えない。

「前と後で、随分と見た目が違うじゃないか?」

「全然違う」「違い過ぎちゃうか?」

 三人は、疑い深そうにモニターを見据え、そこから始まる何を興味深く期待した。

「インチキダイエット商売の使用前、使用後みたいだな」

「何か凄く怪しいですけど、美人ですね」

「綺麗やわ」

「おい爺、この女の願いは何だったんだ、整形手術でもしてやったのか?」

「いや、ワシはそういうのはせぬよ」

「それなら、金でも恵んでやったのか?」

「そうか、そのお金で整形したんだ」「そうやな」

 まるで、最初から用意されていたかのように出現したモニター画面と女の宣材写真。小泉と前園の二人も、流石に相当な怪しさを感じている。

「いやいや、この娘は前の彼氏が他の女と浮気してな、心に傷を負ったがワシが願いを叶える事で元気になったのじゃよ。この娘の願いは『イケメンで、私にだけ優しくて、絶対に私以外の女に興味を持たない、素敵な彼氏がほしい』だったな」

「随分身勝手な願いだな」

「それじゃぁ、イケメン彼氏が出来て内面から綺麗になったって事ですか?」

「そうじゃな」

 老人の得意気な顔が鼻につき、胡散臭さは変わらない。何か裏がありそうな状況に変わりはない。

「素敵なイケメン彼氏だと、怪しい話だな。どうやったんだ?」

「世の中に優しいイケメンは幾らでもいるじゃろうが、そういう男は女にモテるからな。『絶対に、私以外の女に興味を持たない、素敵な彼氏』というのは実はかなり難しかった」

「どうやったんですかぁ?」

「企業秘密じゃな」

「爺、勿体振らずに早く言え」

 七瀬は、平然と、当然の如く強圧的に老人に指図した。

「やれやれ、仕方がない。企業秘密なのじゃがな、特別に教えてやろう。簡単な事じゃよ、これがイケメン彼氏じゃ」

「何だ、コイツは?」

「わっブサイク」「ヒド過ぎやで」

 映し出されたイケメン彼氏の余りにも個性的で前衛的な顔に、三人の目がモニター画面に釘付けになった。

「こいつがイケメン彼氏なのか?」

「そうじゃよ。娘に、この男がイケメンに見えるように強い暗示を掛けた。この男はイケメンではないが、真面目で気が小さいから浮気など決してせぬし、暗示は解ける事はないから何も問題はない」

「えっそれって、詐偽じゃないですか」「そうやで」

「いや小泉、前園、それは詐偽じゃない。このジジイは金も何も取っていない。それに、この女がイケメンだと思えるのならそれでいいんじゃないか?何故なら、そもそもイケメンの基準なんて他人が判断する事じゃないんだから」

「という事は、この神様に願いを叶えてもらうと、得するって事ですよね?」

「ブサイクで良ければな」

 神を自称する老人は、得意気に続けた。

「それだけではない。今では、この娘の浮気をしないイケメン彼氏は5人いてな、6人目が欲しいと言っておる。しかも、半年後には女優として銀幕デビューする予定になっているのじゃよ」

「彼氏が5人、6人目?」「女優、銀幕デビュー?」

 小泉と前園は、それぞれ別のポイントに驚いた。どちらも目が点になっている。

「やっぱり得かも知れない」「得なんかな?」

 老人の鼻が高く伸びている。

「当然ワシに願った方が得じゃよ。まだあるぞ、ワシは物欲を叶える事も出来る。これじゃ、この男が30年前に『1億円の金がほしい』と願ったな」

「出してやったのか?」

「当然じゃ、宝くじで三度程当ててやったな。前後賞3億円と言っておった」

「凄いやんか。3億円を三度やったら9億円やで」

「その次がアメリカ旅行のカジノで10億円、その後も宝くじが当たり続けて、合計500億円程になったかの」

 前園が羨ましそうに身を乗り出す横で、小泉がツッコミを入れた。

「あっ、わかった。その男は、死ぬ間際に『死にたくない、不老不死を願えば良かった』って言った、なんてオチじゃないですか?」

「何だそりゃ、ちっとも面白くないじゃないか。おい爺、こいつはまだ生きているのかよ?」

「当然じゃな。それに、もしこの男が不老不死を願うならば、今からでも叶えてやるがの」

 七瀬は改めて老人に訊ねた。

「爺さんよ、何故何も得るものもなしに願いを叶えてやるんだ、どう考えても理屈に合わないだろ、何故だ?」

「理屈などない。人の願いを叶えるのが、神としての崇高なる仕事だからじゃよ」

「何が崇高だ、タダじゃないと言っただろ。何が目的だ?」

「内緒じゃよ」

「凄い、私もイケメン彼氏が欲しい。あっでもブサイクなのは嫌だな」

「凄い、500億円やで」

 再び小泉と前園は目を輝かせたが、七瀬は一人怪訝な顔をした。七瀬には、鼻を突く腐臭から老人の正体に思い当たるフシがあった。

「でも、やっぱりこの神様に願いを叶えてもらった方が得ですよね」

「そうですやん、本物の神様ですよ。500億なんやから」

「そうじゃよ」

「爺、本当の事を言えよ。何を隠していやがるんだ?」

「いやいや、ワシは神じゃからな、何も隠してはおらんよ」

 徐々に、七瀬の中で謎解きが進んでいく。老人は、何も報酬なしに願いを叶えると言うが、辻褄が合わない。

「埒が明かないな。わかった爺さん、信じよう」

「そうか、それは良かった」

 七瀬の言葉に、老人は安堵の顔を見せた。

「ところで爺さん、いつからこんな事やっているんだ?」

「彼此800年程かの」

「それなら、一つだけ見せてほしいものがあるんだけどな、可能か?」

「何じゃ?」

「爺さんが願いを叶えた奴等の、死ぬ間際の姿を見せてくれないか。どれ程の成功者、資産家になっていたのか知りたいんだ?」

「ん?う、ぅぅ、う、それは出来ぬな、企業秘密じゃ」

「何故だ?」

「その理由も言えぬ、ワシにも都合というものがある」

 七瀬の思い当たるフシは、次第に真理を導き出す確信へと変わっていく。七瀬の全身から沸々と燃え上がる怒りのオーラが見える。

「都合か、なる程。やっぱりそういう事だったのか、そりゃ都合が悪くて見せらないわな」

「やっぱりとは何じゃ?」

「?」「?」

「ジジイ、私の願いを言うから叶えられるか?」

 七瀬の目の奥に、既に怒りの炎が見える。謎解きが始まる。

「ワシに叶えられぬ事はない、何かの?」

「今日の昼飯代をくれ、500円だ」

「何で?」「えっ先輩、何で500円なんですか?」

 500円とは何か。老人、そして小泉と前園も七瀬の願う金額に驚いた。老人が聞き返す。

「500円と聞こえたが、ワシの聞き違いか。500万円、いや5000万円か、いやいや5億円か?」

「どこの世界に5億円の昼飯を食うやつがいるんだ。500円だよ、早く出せ」

 予想外の金額に戸惑う老人を他所に、小泉と前園は七瀬の老人に対する激しい怒りに疑問を投げた。

「七瀬先輩、何故そんなにこの見ず知らずのこのお爺さんに挑戦的なんですか?」

「激しい怒りを感じますやん」

 七瀬は、普段から他人に対する興味が極端に薄い。況してや、正体不明の老人に感情を剥くなどあり得ないのだが、何故かこの神と称する老人への七瀬の対応には特別な敵意を感じざるを得ない。

 七瀬は薄笑いを浮かべると、まるでチンピラがカツアゲでもするように激しい口調で催促した。

「早く出せよ爺、神なんだろ?神が500円ぽっち出せないのかよ」

「いや簡単じゃ、これでどうじゃ?」

 神を自称する老人は、したり顔で杖を空中に投げて一回転させるた。すると、机の上に置いた七瀬のスマホが鳴った。老人が得意気に言う。

「電話に出てはどうじゃな?」

 七瀬が訝しげな顔でスマホの受信ボタンを押すと、電話の向こう側で興奮した男がいきなり喋り捲った。

「新日本TVです。唯今、番組から全国にアトランダムで電話し、当たった方一人に5億円をプレゼントしています。アナタに5億円が当たりました、今直ぐにお届けします。こちらは新日本TVです」

 電話の向こうから唐突に、何を言っているのか意味不明の興奮した言葉の嵐が、七瀬の耳に否応なしに絡み付いた。殆ど暴力に近い声高に叫ぶ不快な電話に、七瀬は普段と変わらぬ覚めた声で電話の内容を一蹴した。

「私はそんなものは要らない。欲しいのは500円の昼飯代だけだ」

「アナタ、何を言ってるんですか。5億円ですよ、5億円」

「煩い、そんなもの要らないって言ってるだろ」

 一方的に通話を切ると、七瀬は持っていたスマホを力任せに老人に向かって投げ付けた。激しい音とともに、スマホがコンクリートの壁に当たって粉々に砕け飛んだ。

燃え立つ激しい怒りが、オーラのように空間を包み込んでいく。

 小泉と前園が息を飲み悲鳴を上げる横で、七瀬は更に激しく老人を叱責した。

「おい爺、私は500円と言ったんだよ、聞こえなかったのか?」

「何故じゃ?5億円では不足か、ならばもっと・」

「煩い、500円だよ、500円」

 何やら不思議な成り行きに狼狽する老人に向かって、容赦ない七瀬の怒りの爆弾が破裂し続ける。

「ふざけるな爺。何が神だ、お前の正体なんざとっくにバレてるんだよ。500円ぽっちの願いを叶えられない能無し妖怪野郎」

「500円を叶えられない?」「妖怪?」

 小泉と前園は、何が何やらわからないまま驚いた。

「そうさ、こいつには5億円は出せても500円は出せない」

「5億円が出せるのに何故500円が出せないんですか?」

「あり得ないやん」

 二人は七瀬の不思議な言葉に混乱した。5億円が出せるなら、500円が出せない道理はない。だが、確かに依頼して暫くの時間があったにも拘らず、500円は出て来ていない。

「5億円は出せても500円は出せない。その理由は簡単だ。それがこいつの喰い物だからだよ」

「喰い物?」「?」

「こいつは『幸運の餌』を撒いて罠を張り、餌に引っ掛かった人間の悲壮で悲痛な心の痛み、悲鳴であり悲哀であり絶望を喰い物にしている。こいつは神でも人間でも生き物でもない。人間の欲望や嫉妬が集まった邪な意識の塊、妖怪、化け物、名前は確か『ウボクヨ』って言ったかな」

「くそ、何故ワシの名まで知っているのだ?」

 七瀬は平然と、そして憎悪に満ちた剥き出しの感情を老人にぶつけた。

「お前が15年前に自分でそう言っただろう?尤も、その時はジジイじゃなくてババアの格好をしていたけどな」

 額に掛かる前髪を右手でかき上げた七瀬那奈美。その額に大きな傷が見える。

「私を、この傷を忘れてはいないだろうな、化け物野郎」

 その傷に見覚えのある老人は、狼狽し震え出した。

「そ、そうかあの時の娘か……」

 一雨来そうな空の下、怒号渦巻く競馬場の片隅で、外れ馬券を握り締める鼠輩な男が神に願った。悲壮感が伝わって来る。

『やっぱり2-4だ、ちくしょう。金があれば絶対に取れたんだ。金さえあれば天下は俺のものなんだ。くそ、くそ』

いつの間にか、男の隣に怪しい老婆が立っている。

『神様、2-4が来たんだ。今度こそ絶対だったんだ、貰った100万が500万になってた筈なんだ。神様よ頼む、俺にもっと金をくれ』

老婆は、親し気に男に告げた。

『あぁ良いぞ。ワシは神じゃ、いつでも何でも願いを叶えてやると言ったであろう』

『何、また願いを叶えてくるるのか?」

『何度でも良いぞ』

『本当なら直ぐに金がをくれ、今直ぐに』

『構わんが、馬券が思った通りに当たるかどうかはわからぬぞ』

『いいから金をくれ』

『わかった、その足下にある券は当たりじゃ。換金するが良いぞ』

『何、これか?』

 足元に一枚の馬券がくるくると風に舞っている。男は拾った馬券無造作に掴み、一目散に換金所へ直走った。3-4-13と書かれた拾った一枚の馬券が即座に100万円の札束に換わった。心ぶれた男は気を取り直し、再び怒号と悲鳴の嵐の海に船出していった。

『今度こそ負けを取り戻すぞ』

 ダートを駆け抜ける馬達の鼓動が、男の興奮を掻き立てた。怒号の嵐が競馬場に吹き荒れ、男の興奮は絶頂に達した。

『やったぞ、これで1億円だ。やっぱり俺は競馬の天才だ』

 老婆は満足そうに薄笑いを浮かべた。気も狂わんばかりの男の歓喜と絶叫は、果てしない最終レースの渦の中で一瞬の内に弾け、絶望へと変わった。

『本日のレースは全て終了しました、またの御来場をお待ちしております』

 終了告知のアナウンスが流れる競馬場の出口に、深く肩を落とした男がいた。出入り口の自販機の隣に老婆が立っている。

『あっ神様、1億になったんだ。最終レースもテッパンのカタい本命だったんだよ、最終レースが荒れなければ5億は俺のモノだったんだ……』

 男の横を通り過ぎて行く沢山の人々が、独り呟く男を指差して口々に言っている。

『おい、あれ見ろよ。あいつ自販機にぶつぶつ言ってやがるぜ』

『ありゃ駄目だな、ああなったら人間お終いだ」

『ああはなりたくないな』

 老婆は男に訊ねた。

『もっと金が欲しいか?』

『何、まだ願いを叶えてくれるのか?』

『当然じゃ。お前のは中々に美味いが、こんなものではまだまだ足りぬよ』

そう言って、神と名乗る老婆は考えた。

『この男は見栄だけで向上心も博才もない唯のギャンブル依存症だから、ギャンブルで金を掴む事にしか興味がない。こんなヤツを陥れるには、何もせずとも金を手に出来るようにしてやり、ギャンブルだけでなく贅沢の限りを尽くさせるしかない。こうなったらアレを使うか』老婆は男に訊ねた。

『お前の身内に女と子供の親子はいないか?』

『俺の女の連れ子がいる。その子供の魂でも抜くのか?』

『いやそんな事はせぬが、母親も一緒か?』

『一緒だ。何だかわからないが、それで金が手に入るなら子供でも母親ても煮るなと焼くなと好きにしていいぞ』

『本当か、後悔はしないか?』

『後悔などするものか、子供は俺の子じゃない』

『それなら、お前に腐る程の金を授けよう。しかも、お前が何もせずとも腐る程の金が入るようにしてやるから、その金をギャンブルでも女でも車でも好きなように使うが良い。但し、子供はどれ程のものか確認するぞ』

 年期の入ったアパートの六畳一間にその母子は住んでいた。電気を停められた部屋の窓の外から、潰れそうなパチンコ屋の点滅する看板の灯りが、少女の姿を照らし出している。

 少女は、その薄暗い部屋で膝を抱え踞りながら、いつものように安い化粧と酒の匂いのする母親を朝までじっと待っていた。突然、鍵を掛けた筈のアパートのドアが開いた。暗闇の中に、赤く光る双眼が何かを求めて動いていく。

『何、お化け?』

 いつもと違う生臭い湿った臭いが部屋の中を這い、少女の身体に絡みつくように乗し掛かって来る。何かわからないモノの本体が、滑っとした足音を立てながら部屋に侵入し辺りを徘徊した。

『ここにいたなぁ』

 背筋の凍る冷たい声を吐きながら、その化け物の生温かい舌が震える少女の身体に触れた。その途端、幼い少女の悲鳴が上がった。

『何とも、良い声の美味そうな子 供じゃな』

 化け物は舌舐めずりした。

『お、お、お化け・』

『娘よ、ワシの名はウボクヨ。ワシは人の悲鳴と絶望を喰って生きておる。お前の義父親がお前とお前の母親を喰って良いと言った。先ずは、お前を夢の世界へ導いてやる、その後で母親と一緒にゆっくりと喰ってやろう』

 その粘り着く舌で少女の顔を舐め回した化け物は、溶けるように消えた。

 数か月後、天井の高い煌びやかなホールのステージにオーケストラの音楽が流れ、司会者が高らかに告げた。

『第一回日本の美少女は君だ大賞優勝者は、13番の小泉真姫ちゃん6才に決定しました』

 華やかなスポットライトが少女を照らし、会場全体から割れんばかりの拍手が幼い少女を包み込む。少女は満面の笑みを浮かべ、観客席にいる両親の抱き合って喜ぶ姿が見えた。

 少女は連日TVに出続け、一躍国民的アイドルとなった。少女が稼ぎ続けるギャラは全て男が独占した。

『やったぞ金だ、金だ、俺の金だ。こいつの稼ぐ金は全部俺のものだ』

金を掴んだ歓喜に震える男は、再びギャンブルにのめり込んだが、それでも金の尽きる事はなかった。豪邸に美しい女達を囲い、高級車を乗り回し、酒とギャンブルに溺れる生活に酔い痴れ続けた。その姿に神と自称する老婆は呟いた。

『さて、そろそろこいつはこの辺で終わりにするかの』

 暫くして、少女の義父親は行方不明となり、新宿駅でチンピラに刺されて死んだ。その日を境に、ぱったりとTVで少女の姿を見る事はなくなった。少女の周りに何があったのかと、週刊誌の格好のネタになり人々は口々に噂したが、いつの間にかそれも月日の中に埋没していった。

『次は、約束の子供と母親を喰らう番じゃ』

 親子は、再び年期の入ったアパートの六畳一間に住んでいた。かつて天才子役として一世を風靡した少女は、その薄暗い部屋で膝を抱え踞りながら母親を待っていた。

ドアが開き、覚えのある何か生暖かく湿ったモノが部屋を徘徊する。震える少女の身体にその気味の悪い化け物が触れると、少女は息を潜めた。

『いい匂いがするの、美味そうな子供の匂いじゃ』

『お、お、お化け』

『娘よ、ワシを覚えているか?ワシの名はウボクヨ、ワシは人の悲鳴と絶望を喰って生きている。お前の義父親の最後の悲鳴と絶望はなかなか美味かったが、腹の足しにもならぬ』

『お、お、お化けめ・」

 少女は、部屋の片隅にある金属バットで化け物に殴り掛かった。

『そんなものはワシには効かぬし、誰かに助けを求めても無駄じゃ。ワシの姿はな、ワシが狙う病んだ獲物か、或いは相当に修行を積んだ者でもない限り見えぬ。どうせ死ぬ運命の娘よ、お前にワシの弱点を教えてやろう。ワシの弱点はな、何にも動じぬ気丈な意識じゃよ。お前には真似できぬじゃろうがな』

 恐怖に少女の身体が硬直した。言葉を返す事が出来ない。

『これは『禁断』と言ってな、身内を使う。お前の母親とお前のような子供を使う事が多い。子供と女の絶望は特に美味い、蕩ける程じゃ。残念じゃが、お前には死んでもらうぞ。今直ぐにその身体を切り刻んでやるから、絶望して泣き叫ぶが良い。そして、お前の死によってお前の母親もまた絶望するじゃろう、またまた美味い悲痛が喰えるわい』

 アパートの隣の建築工事現場で微かに乾いた金属音がすると、いきなり窓ガラスの割れ砕ける音がした。次の瞬間、漆黒の闇から窓ガラスを突き破って飛んだ鉄筋が少女の心臓を突き抜け、割れたガラスの破片が額に刺さった。少女は息を飲んだまま身体を震わせて立ち尽くした。胸から、額から、流れた大量の血が床に滴れ落ちる。

『泣き声も出せずに死んだか、もう少し甚振ってから殺す方が良かったかの』

『……ふ、ざけるな、化け物』

 化け物は、想定外の少女の声に仰天した。そんな筈はなかった、鉄筋で一突きにした幼い子供が生きていられる筈はない。だが、それでも少女は化け物を見据えて立っている。

『な、何じゃこいつは、人間ではないのか?ガキのくせに何故死なぬ、死ね、死ね』

『化け物め……』

 少女目掛けて次々と窓から飛び込んで来る鉄筋が、無情に少女の身体を串刺しにしていく。少女の声が消えた。

『やっとクタばりおったか』

 血に塗れた少女が闇の中でニヤリと笑うと、右手に小さなオレンジ色の光が点った。

『お前は、何だ?』

 暗闇の中で少女の右手がオレンジ色の光輪に包まれ、光の中で暴れる青白いがプラズマが輝いた。少女は拳を固く握り締め、怖れる事もなく化け物に近づいていく。

『寄るな、寄るな』

 輝くプラズマの青白い光が化け物に向かって飛んだ。化け物の身体の真ん中に穴が空いき、震える化け物は悲鳴を上げながら逃げ出した。

「そ、そうか、お前があの時の娘だったとは・」

「能なし妖怪め、今日こそあの時の決着をつけてやろうか?」

「とんでもないところへ来てしまった。頼む、殺さないでくれ」

「ふざけるな化け物野郎、お前などぶち殺す価値もない。二度と私の前に姿を見せるなよ、次は殺すぞ。それからな、私の願いは『スマホを元に戻せ』だ」

部屋の中を一陣の風が通り過ぎ、神と称する老人が溶けるように姿を消した。机の上には元に戻ったスマホが置かれていた。常人ならば腰を抜かすであろうその状況の中で、小泉と前園の二人が平然と七瀬を気遣った。

「先輩、大丈夫ですか?」

「喰われてまへんか?」

 七瀬が言った。

「あんなヤツに喰われるもんか、奴の手口は子供騙しに過ぎない」

「子供騙しですか?」

「そうだ。弱味を見せている奴に神だと言って近づき、次から次へと願いを叶え続けるのさ。そいつの欲望はMAXに満たされていくけど、それは常に神の願いが叶うというバブルが前提だ。いきなり、その梯子を外したらどうなるか?」

「なる程、そういう事やんな」

「ヤクザがジャブ漬けにするのと同じ稚拙なやり方だ。そして奴はその人間の悲痛、絶望を喰い物にしてやがるのさ。所詮、弱い人間に付け込む事しか出来ない卑怯な化け物なんだよ」

「へぇ、やね」

 前園が納得する傍らで、小泉は別の意味で反論した。

「でも、勿体ないですね。化け物だろうが何だろうが、願いだけ叶えてもらえば得じゃないですか?願いを叶えてもらって、後は堅実に生きていけばいいんですよ」

 七瀬は笑いながら答えた。

「会いたけりゃ競馬場か競輪場、駅前のパチンコ屋にでも行ってみな、化け物爺や婆がゴロゴロいる筈だからさ。尤も、お前等に競馬競輪爺やパチンコ婆が見えるかどうかはわからないけどね」

「そんな罠に嵌まる弱い人間の方が悪いんや」

 前園がぼそぼそ呟いた。

「あぁそうだな、そんな子供騙染みた罠に嵌まる奴が悪いのさ。でもさ、残念ながら人間はそれ程強くはないし、後戻りできない生き物なんだよ。だから、あんな化け物に騙されるんだ。願いなんてものは、少しずつ身の丈に合った程度に叶うのがいいのかも知れないな」

「そうですね」

「でも、いい男がほしい・」小泉が呟いた。

「小泉よ、そんな事言ってると、今度は違う化け物爺が取り憑くぞ」

 小泉が小さく悲鳴を上げた。

「でも何故ここに来たんでしょうね、二度も」

「さぁね、私達が心に弱い部分を持っていたからじゃないかな。それが誰かは知らないけど」「先輩だったりして」

「そうかも知れない、私の所に来たのは四度目だからね」

 七瀬が遠い目をして呟いた。

「それよりさ、お前等何故妖怪に驚かないんだ?」

「驚く?」「何で?」

「何故って、妖怪、化け物だぞ」

「私の母方の実家は田舎だから、妖怪が結構いますよ」

「ウチとこもいてますよぅ」

「田舎って、そういうもんなのか?」

 通常ならば「不思議な神様妖怪事件」とでも呼ばれそうな出来事に、平然と対応する二人の後輩に驚いた。江戸時代ならまだしも宇宙に人類が進出する21世紀に、「田舎には妖怪やら化け物がいる」と言い張る二人の言葉を、七瀬は驚きながら理解できない。

 いつの間にか、雨の上がった空に大輪の虹が架かっていた。

「赤い髪の女」

 とっぷりと夜の帳が降りた深夜、快楽の園と化した池袋駅北口辺りに、どこからともなく胸元の開いたタンクトップや赤いミニスカートの女達が現れる。今日も、真っ赤口紅の女達は蝶のように華麗に舞いながら鱗粉を撒き散らし、千鳥足のオヤジに鋭い目で狙いをつけ、次々とオヤジの肩に絡みついては絡めとるようにラブホテルに消えていく。

 そんな池袋北口にある24時間カラオケボックスの中で、上半身裸の数人の男達を侍らせる赤い髪の若い女は、眉間に皺を寄せて嘆息した。

「あぁあ、全然つまらない。毎日違う男と遊んでも面白くないし、馬鹿なノータリン達を集めたら面白いかと思ったけど、全然駄目だ。もう飽きた、もう嫌だ、解散」

男達は、乞うように女に訊ねた。

「女王様、今日は誰を下僕にするのか早く決めてください」

「俺と」「俺と」「俺と」「俺と」

「煩い。お前等のようなサカリのついた馬鹿共に用はない、消えてしまえ」

 ヒステリックな赤い髪の女の言葉に突き放され、目的を失った哀れな男達はそそくさと帰っていった。女は、カラオケポックスの入り口横のソファーに座り息衝いた。

「結婚でもしようかな。でも毎日同じ男とすると思ったら死にそうだなぁ。どこかにあんな馬鹿共じゃないイケメンで金持ちの賢い男がいて、『君は、僕と結婚しなければならない』なんて言って、私を無理矢理拉致ってくれないかな。しかも、10年ごとに違うイケメン男が現れて、ワタシは旦那と子供を捨てて駆け落ちする、なんて夢みたいな事があったらいいんだけど……」

 煩悩のように脂ぎる淫欲と強欲、そして虚偽と苦悩と衝動と飢餓が混沌として迷走する、生臭い坩堝のような池袋の夜景を眺めながら、赤い髪の女の嘆きが止まらない。

「いえ、違う。ワタシのような美しい女なら、きっと何でも可能だわ」

 そう自分に言い聞かせながら我に返った女は、虚しさに駆られ諦めて帰る事にした。

 赤い髪の女がカラオケボックスの待ち合いまで来たその時、隅に立つ緑色の髭の老人に声を掛けられた。

「そこの美しい娘よ、ワシは神じゃ。お前の夢を叶えてやろう」

 どう見てもカラオケボックスには不釣り合いな老人の問い掛けに、女は不審そうな顔で答えた。

「何言ってんの。お爺ちゃんも私とヤリたいの?まぁ、私は超美人だから仕方がないけどね」

「いやいや、ワシはそういう事が目的ではない」

「じゃあ何、インチキ占い師?」

「いや違う。ワシは神じゃよ」

「バカじゃね、笑えるぅ」

「いやいや、バカではなく神じゃ。暫くすると、白いスーツを着た男がこの店に来てお前に求婚するじゃろう。もし、お前がその男を気に入ったら、目の前にピンク色の『夢の扉』が現れる。鍵を開けて入れば夢は叶い、新しい人生が始まるのじゃ。そして死ぬまで夢の人生を送る事が出来る。しかし選ばぬ事も出来る、その人生が楽しいかどうかはわからぬからな。嫌だと思うのなら、鍵を開けぬ事が寛容じゃ」

 赤い髪の女は、老人の言葉に小首を傾げた。

「キューコン、球根って何、夢の扉って何。お爺ちゃんの言ってる事が良くわからないけど、男が来るって言ってもどうせ変な男じゃね?」

「いやや、顔はお前好みのイケメン、金銭的にも愛情も相性も何もかも全てお前の理想の男じゃ。しかも、10年ごとに違うイケメン男がお前を迎えに来るのじゃ、どうじゃ? 」

 女は暫く考えた。どうせ、そんなものは新手のナンパか宗教か詐欺紛いのインチキ商売に決まっている、女は老人に訊ねた。

「で、幾ら? 」

「いや金銭は要らぬよ、ワシは神じゃからな」

「じゃあさ、魂とか抜いたりするの?」

「いや、それも要らぬ。それに、ずっと続くのじゃから魂など抜きようがない」

「わかった、永遠に続く死ねない地獄ってパターンだ?マンガで読んだ事がある」

「いやいや、永遠ではない。ずっと続くとは言っても、お前の寿命の内じゃよ」

 赤い髪の女は、それでも疑心に満ちた目で老人を見続けた。

「じゃあ、わかった。この前ネットで見たパターンだ。お爺ちゃんは神っていうのは嘘で、本当は妖怪ウボクヨって言って、願いを叶えてどんどん叶えて途中でやめるんじゃん。そうすると、前の生活に慣れちゃってるから絶望しちゃうんだよね。お爺ちゃんはその絶望を喰うウヨクボっていう妖怪じゃん?」

 神を自称する老人は、強く否定した。

「いや、全く違うな。ワシは妖怪ウボクヨではないし、途中でやめる事もないぞ。『夢の扉』の人生をワシがやめる事は絶対にない。お前の寿命内なら絶対的アフターサービス付じゃよ。それにお前は特に美しいからな、特別サービスとして一生見た目が20歳から歳をとらないようにしてやるぞ。但し一つだけ条件がある」

「何、やっぱり魂抜くの?」

「いや、そんなものは要らぬよ。条件とはな、10年に1度二人の子供を生む事じゃ。勿論、相手はそのイケメン達じゃよ。因みに、子供を育てる必要はない。どうじゃな?」

「そうすると80歳まで生きたとして、14人の父親の違う子供を生むって事か、結構大変じゃん。でも、私のこの美貌を保ったままで10年ごとに違う若い男と結婚出来て、お金持ちで、煩い舅も姑もいなくて、ブランド物は買い放題?」

「条件が増えとるがまぁ良い、オマケじゃ。他に何か条件はないか?」

「序でに、デカいのがいい」

「わかった、わかった。この鍵はお前の夢を叶える夢の扉の鍵じゃ」

 老人が鍵を差し出すと、赤い髪の女は無造作に鍵を受け取った。神と名乗る老人は繰り返し言った。

「もう一度言うぞ、暫くすると男がこの店に来てお前に結婚を申し込むからな、嫌ならその鍵は渡さずにこの店に置いていきなさい。では幸せを祈っておるぞ」

 そう言って、老人は姿を消した。女は、半信半疑で白いスーツの男を待っていたが、男が来る様子はない。

「何だよ、イケメンなんか来ねぇじゃねぇかよ。クソボケジジイの戯言か?」

 赤い髪の女がそう呟いたと同時に、NO.013のボックスシートのドアが開き、陽気な鼻歌が聞こえた。

「親のぅ血をぅ引ぃくぅ、兄弟ぃよりぃもんももんもんってかぁ」

 上機嫌で鼻歌混じりにNO.013のボックスから出て来た七瀬奈那美は、レジ前の待ち合いコーナーで立ち止まり、自販機の横に厳しい視線を投げた。

「おいこら爺、こんなところで何をしてやがる?」

「ワシは神じゃ、お前ワシが見えるのか?」

 七瀬の見据える先に佇む老人は、七瀬の言葉に驚いた顔で訊いた。

「当たり前だボケ、これが独り言に聞こえるのかよ。質問に答えろ、こんなところで何していやがる?」

「お前は……」

 当然のように、挑戦的に七瀬が老人を威嚇した。

「まぁいい、お前のやってる事なんぞどうせロクでもない事だろ。それに騙されるのは騙される奴にも責任があるしな。今日のところは見逃してやるが、調子に乗って『禁断』なんぞ使いやがるとぶち殺すぞ」

 神を名乗る老人が首をすくめた。威嚇が終わり、いつものように長い髪を靡かせて颯爽とカラオケポックスを出て行こうとした七瀬は、出口で赤い髪の女とすれ違った。七瀬は見透かしたように、見知らぬその女に告げた。

「おいお前、気を付けた方がいいぞ、心に穴が空いている。馬鹿な化け物の騙りなんぞに引っ掛からないようにな」

「何だ、手前ぇは?」

 いきなり忠告を受けた女は、不満げに言い返した。小泉と前園は、一触即発の事態を想定してボックスを飛び出したが、七瀬は「ふん」の一言を残して何事もなかったように出て行った。

「先輩、待ってくださいよ。まだお金払ってないですよ」

 慌てて小泉が支払いを済ませていると、今度は女の姿に何かを見た前園が諭すように告げた。

「アンタの未来は今日これから決まるけど、決して扉を超えたらアカン。扉の向こうにあるんは、死ぬまで回り続ける狂気の輪、始まりも終わりもない、後戻りは出来へんよ」

「はぁ、何だと?」

「遥香、そんな馬鹿相手にしなくていいから行くよ」

 小泉が吐き捨てるように言った。

「馬鹿だと、やんのか手前ぇ等?」

 二人は、喧嘩腰の赤い髪の女の言葉に耳を貸す事もなく、七瀬の後を追った。追いついた小泉は、小首を捻りながら不思議そうな顔で七瀬に訊ねた。

「先輩、何かいたんですか?」

「あぁ妖怪爺のような奴がいたよ」

「この前の妖怪ですか?」

「さあな、似たようなものだろ。多分、カラオケポックスの入り口にいた女を狙ってたんだろうよ」

「あの赤い髪の女、随分と生意気な口を利いてましたけど、救けてやらなくていいんですか?」

「誰が?」

「先輩が」

「何故?」

「何故って、その妖怪があの女を狙ってたんでしょ?」

「そうだけど、あの女かなりの数の男を騙しているぞ。そんな女を、何故私が救けなきゃならないんだ?」

「えっ、かなりの数の男を騙している?ふざけやがって。野垂れ死ね」

 小泉は即座に憤慨した。男が絡むと容赦がない。

「小泉、お前が妖怪から救けてやればいいじゃないか?」

「そんなクソみたいな女を救けるなんて絶対に嫌です。それに、生意気なヤツは大嫌いなんですよ」

 怒りの魔神と化した小泉の目から、燃え滾る炎が出そうになっている。

「遥香、あの馬鹿女に言ってた『狂気の輪』って何?」

「余り良くわからんのやけど、近くにループしている異空間があって、あの女が堕ちるのが見えた」

「先輩、ループする異空間って何ですかね?」

「さぁ、多分爺が女を絡め取る道具なんだろ。まあそれで痛い目に遭えば、あんな馬鹿女でも少しは懲りるんじゃないかな?」

「そうなんですかね。私の経験で言うと、あの手の馬鹿女は反省する事自体を知りませんよ」

「確かに、反省するようなタマじゃないかもね」

「けど、ループはヤバイですよ。絶対に出られへんのやから」

 前園は必死で二人に問題提起をしたが、既に七瀬と小泉の間には結論が出ている。カラオケ屋に戻って、赤い髪の女を妖怪の誘惑から救うなど絶対にあり得ない、地球が滅亡してもない。

「ループはヤバイのか。でも、例え馬鹿女が野垂れ死にしたとしても、それは私のせいじゃない」

 小泉は、七瀬の言葉に大きく頷きながら言った。

「先輩、さっき妖怪爺に言ってた『禁断』って何ですか?」

「あぁ、アレか。奴等が騙した奴の家族や身内を巻き添えにする事だよ。良くあるのは子供を使うらしい」

「クソ女は野垂れ死ねばいいけど、身内や子供は駄目ですね」

「そやね、アカンわ」

 小泉と前園が即座に同意する隣で、七瀬は「そんなヤツなんかどうでもいいや」と吐き捨てた。

 七瀬達の去ったカラオケボックスで、赤い髪の女は不思議そうに首を傾げた。

「何だ、今の奴等は。『死ぬまで続く狂気の輪』って何だ?」

 赤い髪の女は待っていた。暫くすると、老人の言った通りの男が白いスーツ姿で店にやって来た。賢明で壮健そうな雰囲気の男は、若くして成功した実業家だった。賢明で壮健な男は、待ち合いのソファーに座る女に気づくと、静かな物腰で近づいた。そして、じっと女を見つめながら優しい口調で言った。

「初対面で失礼ですが、何と美しい方だ。隣に座っても良いでしょうか?」

「どうぞ」

 女は、どこかで男に会ったような不思議な感覚に胸を踊らせた。初対面と思えない楽しい会話を楽しんだ後、賢明で壮健な男が言った。

「失礼ですが、貴女はお幾歳ですか?」

「20歳です」

「何と、美しい上にお若い」

「貴方も素敵だわ」

「いや・」と賢明で壮健な男が口隠った。

「僕は今年30歳になります。だから、貴女のような若くて美しい女性とは、とても釣り合わない。でも貴女に言わずにいられない、こんな僕で良ければ結婚してもらえませんか?」

「はい」

 女は即答した。神と名乗る老人に言われた通りの話の流れだ。女は鍵を男に渡した。男は渡された鍵で、いつの間にか出現した店の隅にあるピンク色の扉を開け、女の肩を抱きながら扉の奥に消えていった。

 奥から一部始終を見ていたカラオケボックスの店長は、申し訳なさそうに見送りながら囁いた。

「行ってらっしゃい、お気の毒に。もうそこからは死ぬまで出られないのに……」

 店長の横に佇む神を名乗る老人は、満足そうな顔でそそくさと帰り支度を始めた。

 店長が老人に声を掛けた。

「商売繁盛ですね」

「店長のお陰じゃよ。不思議なのじゃが、この店には壊れた女が集まるのう」

「この店に来る娘は、殆ど系列の風俗店の女の子ばかりなんです。きっと、心に穴が空いている子が多いのかも知れませんね」

「何にしても、ワシはウハウハじゃよ」

「でも、いつものように夢の扉は時間貸しですから、時間分の料金はいただきますよ。妖怪メビウスさん」

「了解じゃ。最近は不況のせいか中々若い女を喰えぬ、兄のウボクヨのようにエサを撒いて持ち上げて奈落の底に落とす、そんな古臭い罠に掛かるのは爺と婆ばかりじゃ。コギャルのような若い女達を罠に掛けるには、色々と手を変えねばならぬから大変じゃよ。禁断まで使わねばならぬが、ワシの禁断の得意技『メビウスの輪』は最強じゃ。嵌まった女は死ぬまで後悔し続けるのじゃ、これでまたたっぷりと女の後悔と絶望を喰えるわい。さてと、さっきの背の高い恐ろしい女が戻って来ぬ内に、さっさと消えるとするかの」

「でも、やっぱりちょっと可哀想だなぁ」と店長は呟いた。

 若い女供達に夢を与える薄いピンク色の四角い扉。しかし、その実体は若い女を喰う為の蟻地獄の時空間、『夢の扉』がそこに立っている。

「いやいや、可哀想などという事はない、寧ろワシの手に掛かる女は幸せじゃよ。絶望すると言っても寿命までじゃから、他の奴と比べたらまだまだマシじゃよ。最近では、時間を繋ぎ合わせて永遠にシャブリ尽くす同業者もおるのじゃからな」

 妖怪メビウスは、にやりと笑って消えた。

 20歳の女は、30歳の賢明で壮健な男と結婚した。男の会社は、創業間もない中堅企業だったが、男は実業家として名を馳せていた。金銭的にも恵まれた裕福な生活を送り、可愛い男の子と女の子を授かった。男の子の額には小さな星型のアザが、女の子の額には小さな赤いハートのアザがあった。

 子供達はすくすくと元気に育った。その後、元ギャルだった女は社長婦人兼会社役員として経営に携わり、子育てと経営者を支える忙しく幸せな日々が続いた。そんな日々はあっという間に過ぎ去った。

 10年後のある日、若く妖艶な男が女の元へとやって来た。女の容姿は20歳の姿から全く変わっていない。突然やって来た妖艶な男は、女に向かって言った。

「貴女は、僕と来なければならない」

「何を言ってるの、私には夫も子供もいるのよ。馬鹿じゃないの?」

「貴女は約束通り、僕と来なければならないのです」

 そう言われた女は、10年前の老人との約束を思い出したが、「あれはお伽噺の類。私はたまたま縁があって賢明な男と結婚したのだ」と自分に言い聞かせて、妖艶な男の言葉を「馬鹿馬鹿しい」と一蹴した。妖艶な男は繰り返した。

「残念ですが、貴女は僕と結婚しなければならないのです」

「アナタ、頭は大丈夫なの?警備員を呼ぶわよ」

 繰り返す妖艶な男の言葉に、女は呆れて言った。

「仕方がないわ、警備員を呼びます」

 警備の車は一目散でやって来た。女は安堵の顔をしたが、次の瞬間に信じられない事態が起こった。女は「な、何?」とパニックに陥った。

 車から降りた二人の警備員は、躊躇なく女の身柄を拘束し、子供達と賢明で壮健な男の前から連れ去ったのだ。

 警備員が連れ去って行く車に向かって、二人の子供達が泣き叫ぶ。その横で、賢明で壮健な男はじっと黙っていた。

 女には、何が起きたのか理解が出来ない。思考が停止したままの女は、無理やり車に乗せられ、見知らぬ豪邸に連れて来られた。その後、女は正気を取り戻して逃げ、愛する男と子供達の元へ帰ろうとしたが、不思議な事に戻る場所を思い出す事が出来ない。女は、賢明で壮健な男と子供の元へ帰ろうと何度も何度も必死で繰り返したが、何一つ思うようにはいかなかった。

 仕方なく、女は諦め妖艶な男と結婚した。妖艶な男は地元では有名な資産家だった。金銭的にも恵まれた生活を送り、可愛い男の子と女の子が生まれた。男の子の額には小さな星型のアザが、女の子の額には小さな赤いハートのアザがあった。子供達は、すくすくと元気に育った。

 元ギャルだった女は、資産家婦人となった。地元の住民から尊敬される女性指導者として子育てと地元振興活動に飛び回る、忙しく幸せな日々が続いた。そんな日々はあっという間に過ぎ去った。

 10年後のある日、若く聡明な男が女の元へとやって来た。相変わらず女の容姿は20歳の姿から全く変わっていない。突然やって来た、どこかで会った事のある懐かしさが漂う聡明な男は言った。

「貴女は、僕と来なければならない」

 女はまたかと思った。かつて、確かに『10年ごとにイケメンの男と結婚したい』と言ったような気はするが、そんなものは昔の戯言に過ぎない。

「何を言ってるの?私には夫も子供もいるんですよ。警察を呼びますよ」

「貴女は、約束通りに僕と来なければならないのです」

 女は、20年前の老人との約束と10年前の出来事を思い出したが、「下らない」と一蹴した。

「残念ですが、貴女は僕と結婚しなければならない」

 相変わらず、聡明な男が繰り返した。女は呆れた口調で言った。

「警察を呼びます」

 パトカーがやって来ると、女は安堵の顔をしながらも嫌な予感がする。予感は的中した。信じられない事に、待っていたパトカーから降りた二人の警察官は、躊躇なく子供達と妖艶な男の前で女の身柄を確保した。

 警察官が連れ去る車に向かって子供達が泣き叫んだ。その横で、妖艶な男はじっと黙っていたが、女は10年前と同様の成り行きにパニックに陥り、意識を失ったままパトカーに乗せられて見知らぬ邸宅に連れて来られた。正気を取り戻した女は、今度も逃げ出し、妖艶な男と子供達の元へ戻ろうとしたが、またも戻る場所を思い出す事は出来なかった。

 女は、諦めて聡明な男と結婚した。聡明な男は、有名なスポーツ選手で、金銭的にも恵まれた生活を送り、二人の間に可愛い男の子と女の子が生まれた。男の子の額には小さな星型のアザが、女の子の額には小さな赤いハートのアザがあった。

 二人の子供達はすくすくと元気に育った。元ギャルだった女は、スポーツ選手の妻として子供達を連れて外国を回り、数々の栄冠に輝く聡明な男を誇らしく思った。忙しく幸せな日々はあっという間に過ぎ去っていった。

 10年後のある日、若く美しい剛健な男がやって来た。剛健な男はどこかで会った事のある懐かしい雰囲気をもっていた。相変わらず、女の容姿は20歳の姿から全く変わっていなかった。突然やって来た剛健な男は言った。

「貴女は僕と来なければならない」

「いい加減して、私には夫も子供もいるんですよ。もういい、もういいから、もうやめて」「警察でも呼びますか?」

 その言葉に、10年前を思い出した女の身体の力が抜けた。

「呼んだって無駄なんでしょ?」

「無駄です。貴女は、約束通り僕と来なければならないのです」

 心当たりのある女は、30年前の約束と20年前の出来事、そして10年前の事を思い出したが、「下らない、馬鹿気ているわ」と相手にしなかった。剛健な男は繰り返した。

「残念ですが、貴女は僕と結婚しなければならない」

 呼びもしないパトカーがやって来た。女は「またか」と怪訝な顔をした。パトカーから降りた二人の警察官は、いつもの通り躊躇なく子供と聡明な男の前から女を連れ去った。

 遠ざかるパトカーに向かって子供達が泣き叫ぶ。その横で、いつものように聡明な男は黙っていた。女は、今度は何かを悟ったように唯黙ってパトカーに乗り、見知らぬ城に連れて来られた。女はいつもの通り逃げ、愛しい男と子供達の元へ戻ろうとしたが、やはり戻る場所を思い出す事は出来なかった。

 女は、諦めて剛健な男と結婚した。剛健な男は貴族だった。金銭的には恵まれ裕福な生活を送り、可愛い男の子と女の子が生まれた。男の子の額には小さな星型のアザが、女の子の額には小さな赤いハートのアザがあった。子供達は元気に育った。元ギャルだった女は貴族となり、社交界で華やかにデビューし貴族社会で美しさを振り撒いた。来客への対応と周囲への気配りは大変だったが、毎日が輝くように充実していた。そんな忙しく幸せな日々はあっという間に過ぎ去った。

 10年後のある日、優しそうな若い男がやって来た。女の容姿は相変わらず20歳の姿から全く変わっていなかったが、既に60歳になっていた。突然やって来た優しそうな若い男は言った。

「貴女は、僕と来なければならない」

「わかりました」

 女には、それ以上反論する気力は残っていなかった。

「警察を呼びますか?」

「いえ、呼びません」

「貴女は約束通り僕と来なければならないのです」

 40年前の約束、30年前の事、そして20年前の事、10年前の事が走馬灯のように女の脳裏に蘇ったが、それでもやはり「皆、狂っている」と思った。

「貴女は僕と結婚しなければならない」

 優しそうな若い男が繰り返した。いつもの通り、呼んでもいないパトカーがやって来ると、いつもの通り躊躇なく女の身柄を拘束した。

 走り去るパトカーに向かって子供達が泣き叫んだ。その横で、剛健な男は目を閉じた。女は成り行きに任せ、思考を停止したままパトカーに乗せられ見知らぬ家に連れて来られた。女は、いつものように逃げる事はしなかった。どうせ戻る場所を思い出す事は出来ないに違いのだ。

 女は、諦めて優しそうな若い男と結婚した。若い男は平凡な会社員で、金銭的には平凡な生活を送ったが、女は満足し可愛い男の子と女の子が生まれた。男の子の額には小さな星型のアザが、女の子の額には小さな赤いハートのアザがあった。子供達は元気に育った。

 子供達と遊ぶ若い平凡な男の前髪がさらりと風に靡くと、額にはっきりと星型のアザが見えた。元ギャルだった女は、既に全てを悟っていた。この繰り返しがこれからもずっと死ぬまで永遠に続くだろう事、そして再び女の元にやって来るに違いないどこかで会った事のある雰囲気を纏う男の額に、小さな星型のアザがある事の意味を。

『「アンタの未来は今日これから決まるけど、決して扉を超えたらアカン。扉の向こうにあるんは、死ぬまで回り続ける狂気の輪、始まりも終わりもない、後戻りは出来へんよ』

 いつかどこかで言われた、そんな言葉が女の頭を巡った。女は後悔した。既に心には大きな風穴が空き、胃を掴まれ、吐き気が全身を這い回る。女は息絶え絶えに呟き、涙が溢れた。「あぁ、あの時、あの爺に騙されて『夢の扉』など開けなければ、それさえしなければ……」

 その時、嘆く女のポケットから小さなオレンジ色の紙片が舞い落ちた。どこかで言われた言葉が頭に蘇る。

「これは、あの時、カラオケ屋で女にもらった・」

『おい、死にそうになったらコレを呑みな。現実に戻れるから』

『ふざけるな。ワタシにこんな小汚ぇモノを呑めだと?』

 女は躊躇なく、何かに縋るようにオレンジ色の紙片を呑み込んだ。途端に空間が渦を練って流れ出し、女は螺旋を逆に回る空間の中で失神した。

 気がつくと、女はカラオケ屋の、あの場所にいた。今までのそれが何だったのか、長い夢を見ていたのか、それとも現実だったのか、何も判別は出来ない。

 女は悔しそうに叫んだ。

「畜生。何だよ、あれは。10年ごとのイケメンだと、あいつ等は全員私が産んだ子供じゃねぇかよ。あの爺、舐めやがって、今度は一人産むごとに別料金取ってやるからな」

 そう言って、かき上げた女の黒髪の奥に、赤いハート型のアザが見えた。

「無限の鼓動」

 真っ白な夏雲が映える、突き抜けるような青い空に、真っ直ぐな飛行機雲がどこまでも続いている。朝から肌に突き刺さる日射しと、生き急ぐ蝉の声が盛る夏の一日を告げていた。

 東池袋にある、新設されたばかりの国立新東京大学の非公認サークル『超々常現象研究会』の狭い部室で、このところ続く猛暑に代表の七瀬那奈美がヘタりながら故障したエアコンに文句を付けた。

「小泉、今日はまた一段と暑っちぃね。ところで、エアコンの修理屋はいつ来るんだろな?ケチ臭い事言わないで新しいヤツ買えばいいのにさ」

 サークルの企画広報部員の小泉亰子が窓を全開にし、駅前で貰った団扇で扇ぎながら言った。

「先輩、そりゃ無茶ってもんでしょ。出来たばっかりの非公認サークルなんだから、部室があるだけで良しとしないと。この部室だって物置き部屋にしていたのを先輩が事務局長を脅して無理矢理に掻っ払ったようなものじゃないですか。エアコンが付いているだけで奇跡ですよ、何たって物置だったんだから」

「脅かしたなんて他人聞きの悪い。出入り業者から金品なんか受け取る事務局長が悪いんだよ。私は唯、その事実を事務局長と業者に再確認して、あくまでその事実とは関係なく『私はサークルの部室がほしい、ハーゲンダッツのアイスクリームが好きだ』と言っただけだ」

「それを世間では、恐喝って言うんですよ」

「そんな事は知らない。ヤツ等が勝手に私の好物を持って来たのは単なる偶然だよ。それにさ、こんなに暑いとこの前みたいな妙な神やら妖怪やら化け物がなんかがやって来るぞ」

「神、妖怪?何ですかそれ。21世紀にそんなものいる訳ないでしょ。この前のは頭の変なお爺さんが「ワシは神じゃ」って言って迷い込んで来ただけですよ?」

 小泉の言葉に前薗が小首を傾げ、小泉自身も首を捻った。

「あれ、そうだっけ、お前等が「田舎には妖怪なんて珍しくない」って言ったんじゃなかったかな?」

「そうでしたっけ?どちらにしても、妖怪なんか要りません。あっ、先輩。面白い書き込みが入ってますよ」

 胸元が大きく開いた白いTシャツとピンクのショートパンツ姿の小泉が、パソコンを見ながらいきなり叫んだ。

「ん、何だ?怪談話ならもういいよ、飽きた」

 七瀬は、大嫌いなベタベタのオカルト話を拒絶した。

「どうせ『夜中に足音がして、あれは誰だったんだ』とか、『窓の外に人がいて、良く考えたらここは三階だった』とかそんな話に決まってる。そんなのはさ、靴を履いた猫が夜中にトイレに行ったに違いないし、身長5mのスケベなジジイが偶々そこを通り掛かって三階の窓から覗いたんだよ。そうに違いない」

 文句を言いながら面倒臭そうにパソコンのマウスをクリックした七瀬の前に、創部して間もないサークルで立ち上げた書き込みネットサイト「超々常現象☆教えチャオ」の画面が映し出される。

『夜中に部屋の隅に人の気配がした、確認しても誰もいない。真夜中に何かを囁く人の話声がした、確認しても誰もいない。真夜中に部屋を動く人の足音がした、確認しても誰もいない。真夜中に部屋にいる人の顔が鏡に映った、誰もいない、誰もいないと自分に言い聞かせていた。次の朝、廊下が人の足形に濡れていた。小雨の降りしきる夏の夜、窓の外を通り過ぎていく髪の長い女の人の顔が曇りガラスに映った。ここは三階なのに』

「何だよ、やっぱりまた同じ話じゃないか」

「違いますよ、その次の話です」

『夏の暑い夜、郊外の駅に最終電車から一人の女子大生が降りた。他に乗降客はいない。女子大生が足早に帰路を急ぎ池の淵を通り過ぎた時、声がした。

「おいで・おいで・」

 池の中から白い女の手が手招きをした。女子大生は悲鳴を押し殺しながら必死で走り出したが、後ろから足音がついて来た、振り向いたが誰もいない。恐怖に走り出そうとした女子大生の目前に、血だらけの洋服を着た黒髪の女が「私の子供を知らんか、私の子供を知らんか・」と言いながら立っていた。

 女子大生が悲鳴を上げた時、車のクラクションが鳴った。

「何やってんだぁ」

「わぁっ、お父さん」

「余り遅いから迎えに来たんだよ。お前、ポストに何を話し掛けているんだ?」

「ポスト?」

 目の前に赤いポストが立っている。 

「何だぁ、幻覚だったのか」

 女子大生は、ほっとして帰宅した。

 次の朝、車のフロントガラスに血に塗れた人の手形が付いていた』

「先輩」

 唐突に呼び掛けた小泉の声に、七瀬が異常な叫び声を上げた。

「どうしたんですか?」

「い、いや、何でもない。何でもない」

 息絶え絶えの七瀬が答えた。

「この話ってそんなに怖かったですか? 」

「先輩、お化けとか幽霊とか嫌いですもんね」

 小泉と前園が七瀬を茶化した。七瀬は地元では有名なヤンキーで、この世に怖いものなど存在しないと本人は言っているが、実は理屈に合わないもが誰よりも苦手だ。七瀬にとって苦手と嫌いは同義語で、苦手なのは幽霊を筆頭に妖怪、UFO、UMAから政治家、そして阿呆な女まで、理屈に合わないものの存在自体が苦手なのだ。

「そ、そんな事は、な、ない。私に怖いものなど存在しないからね」

「じゃぁ、何でそんなに驚くんですか?」

「先輩、後ろ」

 七瀬が、再び情けない程の悲鳴を上げた。

「煩い、煩い。何だこんな話、下らない作り話じゃないか?」

「まぁそうでしょうけど、私は結構面白いと思いますよ。ねぇ遥香、面白いよね?」

「まぁまぁやね」

 夏だというのに黒尽くめの服を好んで纏う前園遥香に話が振られたが、前園遥香はいつも通り愛想のない返事をした。

「あっこれも面白い」と小泉のはしゃいだ声がした。

『満員電車の中で「何するんですか、ヘンタイ」と若い女の声がした。痴漢か?と車内に緊張が走ったが、次の瞬間女の言葉に誰もが首を捻り、そして笑いが起こった。「やめてください、朝から」』

「何だ、こりゃ。朝でなけりゃ、変態オヤジにケツ触られてもいいのかよ。この女こそ変態じゃないか」

 不機嫌だった七瀬が、壺に嵌まって思わず吹き出した。

「あっ遥香、午前の講義が始まっちゃう」

「えっ、もうそんな時間なん?」

 小泉と前園がノートを鞄に入れて急いで支度を始めると、ドアをノックする音が聞えた。

「ご免ください。七瀬奈那美さん、いらっしゃいますか?」

「ん、誰か来たのか?」

 パソコンのモニター越しに、開けっ放しのドアの外に立つ少年が見える。礼儀正しく軽い会釈をしている。

「こんにちは。僕、山岡サトルと言います」

 見覚えのある少年に、七瀬は問い掛けた。

「あれ?お前さ、どこかで会った事ない?」

「この間、チンピラに絡まれていたのを救けていただいた、山岡です」と少年が微笑んだ。

 七瀬と前園が池袋駅裏の人気のない公園前を通り掛かった。数人のチンピラが奇声を上げながら一人の少年を取り囲み、少年が血だらけで倒れているのが見える。

『ぶっ殺せ』

『立てよ、このガキ』『立てよ、クソガキ』

 七瀬那奈美は、他人に対しては極端に興味がないのだが、イザコザには即座に首を突っ込む。

『おいお前ら、何やってんだ』

『ヤバい逃げろ』『逃げろ』『逃げろ』

 その一言に、チンピラ達が蜘蛛の子を散らす如く逃げて行く。駆け寄った七瀬が叫んだ。

『前園、こいつ息していない。ヤバいぞ、救急車呼べ』

 ドアの前に立つ少年の顔に見覚えがあった。

「あっお前、あん時のヤツだよね。思い出した。そっか、もういいの?」

「はい、何とか」

「先輩、私達午前のフランス語の講義受けてきますね」「行ってきます」

 小泉と前園は、七瀬の横を通りながら部室を出て行った。

「あっ今日は」

 山岡サトルが前園にチョコンと頭を下げて挨拶したが、前園は一瞥しだけで部室を出て行った。

「前園、愛想のないやつだな。だから男が出来ないんだよ」

「余計なお世話やわ。先輩こそブツブツ独り事言って、歳のせいやないんですか?」

 ドアの外で前園の声がした。

「煩い、とっとと行け」「はい、はい」

「皆さんとっても仲がいいんですね」

 山岡トオルは、羨ましそうな顔で笑った。

「ところで山岡、もう傷は大丈夫なの?」

「はい、もう全然痛くはないです」

「そっかぁ、そりゃ何よりだね。まさか、ウチの大学の一年生だとは思わなかったけどな、これも何かの縁だよ。何だか自分の事のように嬉しいな。あの時お前さ、結構ヤバい状態だったもんね、良かった、良かった」

 七瀬が嬉しそうな顔で口元を綻ばせる。

「そう言ってもらえると僕も来た甲斐があります。行ける場所は限られているから」

「そうか、まだそんな状況なんだ。そりゃそうだよな、リハビリは大切だもんね」

「七瀬さんって、超々常現象研究会の会長さんなんですね」

「会長じゃなくて代表って言うんだけど、まぁどっちでもいいよ。名前だけだから」

「どんな事をやっているんですか?」

「唯の飲み会サークルで、大した事はやってないよ。元々はさっきここを通った二人と別のサークルの飲み会で知り合ってさ、色々話してる内に皆結構面白い体験してるんだなって思ったんだよ。不思議な事って結構あるよね。ここは別館の地下のせいなのか、時々変なのが来るんだ。この間もさ、この部屋に妖怪みたいのが来た」

「えっ、妖怪ですか?」

「あぁ。自分で「神」って言ってた。唯の頭の狂った爺だったかも知れないけど、良くわからないね」

「面白いですね」

「でも、私が一番不思議だったのは、ばあちゃんの葬式で本人と話をした事だよ。それは作り話や錯覚なんかじゃなくて、本当に話をしたんだ」

「何の話をしたんですか?」

「あの世の情景。それと、何かの呪文を唱えると、あの世と現世の次元が一時的に繋がって話が出来るらしいんだ」

「へぇ、凄く不思議ですね」

「不思議っていうよりも、あの世のシステムがそうなっているんだって、ばあちゃんが言っていたね。だから、それは全然不思議な事じゃないんだよ」

 七瀬那奈美は、他人には興味がない。訊かれた事には論拠を示して確りと答える癖が付いているし、喋るのは決して嫌いではないが、余計な事を喋るのも喋られるのも好きではない。そんな七瀬が、いつになく自ら話を振っている姿は嬉しさの表れだ。

「ところが、さっきの二人はもっと面白いんだよ。何と、テレパシーが使えるんだ」

「テレパシーですか?」

「そうだよ、あり得ないだろ」

「そうですね、普通はあり得ないですよね」

 東池袋駅の地下鉄から改札を出ようとした小泉亰子は、定期と携帯電話がない事に気づいた。定期と携帯電話が繋がり財布としても使っていた。途方に暮れた。

『どうしよう、どうしよう、どこで落としたんだろう。困ったな』

 その時、頭の中にふわっと誰かの呟く声がした。

『それ・ウチが拾った・東池袋駅のサービスセンターに届けとくで・』

『誰?』

 返事はなかった。周囲を見渡したが、通り過ぎて行く人々以外に誰もいない。急いで駅のサービスセンターに駆け込むと、定期と携帯電話が届いていた。必死で走り、何とか間に合った心理学の講義が始まると、またあの声がした。

『あれぇ・同じ大学で・講義も一緒なんかぁ・』

 驚いた小泉亰子が振り向くと、教室の一番後の席で頬杖をつきながら気怠そうに手を振る前園遥香がいた。

「それからも、あいつ等二人は何かある度にテレパシーで会話しているらしいんだ」

「七瀬さん、それを本当に信じているんですか?」

「まぁね。それが本当なのか騙りなのかなんて、そんな事はどうでもいいんだ。信じるか信じないかだけの話、私が信じればそれは誰にも迷惑を掛ける事なく、私にとっての絶対的な真実になるんだからね」

 平然と語る七瀬の言葉に、山岡は驚き、納得した。

「なる程、そういう感覚を持っているから見えるんですね」

「ん、見える。何が?」

「あっいえ、何でもないです」

「それで、新しくサークルを創る事になって、面白半分でサイトを立ち上げて不思議な体験を書き込み出来るようにしたんだよ。そしたら、メンバーやメンバーじゃないヤツ等からも色々な書き込みされるようになってさ、案外面白くやってるよ。活動は殆ど飲み会ばっかりだけどね」

「楽しそうですね。書き込みっていうのは、どんなのがあるんですか」

 山岡が興味深そうに訊いた。

「一番多かったのは、やっぱりUFOネタかな」

『子供の頃サッカーしている校庭の上空に銀色の玉が現れた』

『夏の夕暮れにジグザグに飛んで行く物体を見た。あれは飛行機じゃないと思う』

『夜空に赤く光りながら目の前を飛んで行く大きな物体を見た』

「初めの頃はそんな書き込みばっかりでさ、面白くないから片っ端から削除してんだ。そもそも、UFOなんか本物だろうがパチもんだろうが、そんなのどうだっていいんだよ」

 山岡が目を細めている。

「そしたらさ、UFOネタは少なくなったけど、今度はヘンなものを見たってのが増えてさ」

『机の上に小さな変なオジサン達が座っていて、こっちを見ている』

『妖精を見た。お花畑を風に乗って妖精が飛んでいた、あれは絶対に錯覚じゃない』

「そんなのばっかりでさ、精神が病んでるとしか思えなかったから、これも消し捲ってたら疲れちゃって。消すのやめてたら、段々不思議なのが増えて来たんだ。結局何もしないのが一番いいのかも知れないね」

「そうなんですか」

 山岡が面白そうに聞き入っている。

「今でも『背後霊が見える』とか『正体不明の変なものを見た』なんてのは相変わらず多いし、『幽体離脱した』っていうのが結構多いのは意外だった」

『自分を見ている自分がいた、夢なのか幽体離脱かは不明』

『交通事故で、気がついたら自分をじっと見る自分がいた。どっちが自分なのかわからなかった』

『昨日の夜、半分寝惚けた状態でリアルなものを見た。TVがザーザーと砂嵐でその前にいる俺の目の前まで津波が来て肩まで濡れた。恐かった。ウチはマンションの4階だから』

『子供の頃、競馬新聞を見ていると2つか3つ番号が浮かび上がって来てかなりの確率で当たっていた(親が馬券を買っていた)らしい、大人になって浮かび上がった馬券を自分で買うようになったけど全く当たらない。当たった試しがない、どうなっているんだ』

『競馬の中継を見たり競馬新聞を見ているだけで『これだ』っていうのがわかる。でも他人に話したり自分で馬券を買ったりすると当たらない。全く何も役に立たない』

『巨人が3対1で勝った夢を見て、翌日の試合で全く同じ内容で巨人が勝った事があった』

『いつも同じ夢を見る、その夢の中で読んだ結構面白い小説やマンガを覚えている』

『パイプ椅子に反対に座ったままで車のように道路を走って行く夢を凄く良く見る』

『自転車を止めると必ず盗まれる夢を良く見る。車の場合もある。バイクもあった』

『同じ電車に乗ったり同じ駅に着く夢を良く見る。切符が買えずに乗れないパターンも多い』

『空を飛ぶ夢を良く見るが段々飛べなくなって地面スレスレまで落ちて来る』

『8時の約束で家を出たのは7時30分、どんなに急いでも1時間は掛かる、ヤバいって思いながら着いたら約束の8時だった。30分タイムスリップしたとしか考えられない』

『あいつには絶対会いたくないって思う時に限って偶然出会う。嫌だ』

『年に1、2回必ず変な女に声を掛けられる事がある。この間も駅のホームで、いきなりスーツ姿の年輩の女に『ちょっといいですか』と訊かれたので、『良くないです』と答えた。あれは何だろう。僕は中学三年生』

『ぶつぶつ言いながら歩いてる人がいる。この前も、携帯で喋っているのかと思ったら、普通に歩きながら、携帯もイヤホンもなく喋っている綺麗な女性がいた。変だ』

『朝ゴミ箱を漁りながら駅に歩いて行く、普通の格好をしたOL風の女性がいる。その姿を見ると愕然とする。駅から普通に電車に乗って行った。あの女性は一体何者なんだろう?』

『前を歩く人に振り向かれる事が良くある。オレ、無意識に何か言っているのかな』

『電車に乗ろうと思ったら「乗るな」って声がした、その電車が事故った』

『満員電車の中でふいに頭に響く声がした、あれはテレパシーに違いない』

『ナンパ出来る女は見ただけで完璧にわかる、確率は100%』

「今でも、本当かよってツッコミたくなる書き込みも多いし、「バカかお前は」って言いたくなる書き込みもある。幽霊話も多いけど、私はホラーは好きじゃないから大概消す。私がばあちゃんを見たように、幽霊ってのはさ、多分次元を超えて誰かの姿を見ているに過ぎないんだって思うんだよ」

 山岡トオルが嬉しそうな顔で笑った。

「山岡今度さ、お前も飲み会、じゃなかった部会に誘うから来てくれよ。飲み会だけでいいからさ、しかもお前ならタダでいいよ」

「有難う御座います。事情があって参加は出来ませんけど、僕、七瀬さんに会えて本当に良かったです。実はあの頃結構凹んで、強そうな奴等ぶん殴ってやろうと思ったんです」

「そりゃ無茶だね。ケンカ慣れしたヤツ等に勝てる筈がないし、複数相手なら尚の事だよ」

「そうですよね・」

 山岡が満足そうに微笑んだ。

「あっそうだ。いいものがある、理事長にアイスクリーム貰ったんだ。本当は事務局長を脅かして業者からの御中元を掻っ払らったんだけどさ。今出すから、ちょっと待ってな」

「あっお構いなく、もう帰らないと。七瀬さん、本当に有り難う御座いました・」

「遠慮すんなって。世の中には結構不思議な話ってあるもんだけどさ、この世の中で一番に不思議なのは人間なんじゃないかなっていつも思うんだ。その人間がこの日本だけで1億2000万人以上もいるんだからさ、不思議な事が起こったってそれこそ不思議じゃないよね。そう思わないか?」

 山岡の返事がない。

「あれ、いない。帰ったのかな?」

「ただいまぁ」

 開けっ放しのドアの外で、講義を終えて戻って来た前薗の声がした。

「前園、お前ちゃんと挨拶出来るじゃないか」

「当然やないですか、大人なんですから」 

「小泉はどうしたの?」

「ちょっと事情があって、後から来ます」

「そうなんだ。今日さ、私のバイト先の給料日なんだけど、バイト代を全部酒に替える事にしたんだ。酒盛りするから二人で私のアパートに来な」

「えっ、バイト代を全部酒に替えはるんですか、全部?」

「心配する事はないよ、肴も買ってある」

「そうやのぅて、先輩て時々訳がわからへんですよね。バイト代を全部?」

「私の勝手だ。ところで前園、表で山岡を見なかった?」

「山岡て誰ですか?」

 前園が首を傾げた。

「この前さ、駅の近くで、チンピラに絡まれて袋にされてたやつを助けて病院に運んでやったじゃない、あいつだよ」

 前園遥香が山岡トオルの名前に神妙な顔をした。

「あぁ、あのウチの一年生の子ですよね。残念でしたね、もうちょい早く見つけられれば良かったんやけど……」

「?」

「先輩に言うの忘れてましたけど、確か昨日病院で亡くなって、今日お通夜やて電話がありましたよ」

「何を言ってるんだ前園、さっき退院した山岡が礼を言いに来たじゃないか?」

「どこに?」

「ここに」

「誰が?」

「山岡だよ。お前達だって講義に行く前にここに座っている山岡の顔を見ただろ?」

「いいえ、見てまへんけど」

「えっ、見てない?」

 前園遥香が首を振った。

「そんな馬鹿な事があるかよ、お前等が講義に行く時にここにいたじゃないか?」

「いえ、先輩しかいてませんでたよ」

「ち、ちょっと待て、私は不思議な話に興味はあるけどオカルトの類いは信じていないし、余り好きじゃない。さっきのやつが幽霊だとでも言うのか、私は幽霊と喋ってたとでも言うのか、そんな馬鹿な事がある訳ないだろ?」

「でも先輩、昔おばぁちゃんの幽霊と話したって言ってたやないですか?」

「あぁ、あれは多分あの世がそういうシステムになっているんだよ。だから、映像みたいにばあちゃんを見ただけだ。でも今はここにいた山岡トオルは映像じゃない実体だったよ」

 余りに不可解な出来事に、七瀬は眉を顰めた。

「あれが本当に幽霊だったって言うのか。不思議な事ってあるんだな、幽霊をあんなにはっきりと見たのは初めてだよ。まだ信じられない。あっ、バイトに遅れる」

 夏の夕焼けに飛行機雲が茜色に輝き、頬に当たる生温い風が一日の終わりを告げている。バイト帰りの七瀬は、東池袋駅の改札を出て自分のアパートに向かった。

『あれって本当に幽霊だったのかな』と未だ昼間の奇妙な事件を引き摺りながらも、商店街の中程にある喫茶店の角を曲がった。暫く歩くと、息を切らして足早に歩く男とすれ違った。

「あっおじちゃん、こんにちは」

「おう、那奈美ちゃん。今帰りかい?悪りいな、ちょっと急いでるんでな」

 男は、足早に通り過ぎた後、何かを思い出して振り向き様に言った。

「あっ、でも丁度いいや。ウチのカカアに会ったら言っといてもらいてぇ事があるんだよ。カカアに『キャッシュカードの暗証番号は7272ナニナニ』って伝えてくれよ。おっと、船に乗り遅れちまう」

「ん?おじちゃん、そんな事私なんかに教えちゃ駄目でしょ」

「いいんだよ。奈那美ちゃん、頼んだよ」

「『番号はナニナニ』って伝えればいいんですね」

 慌てて走り去る男が後ろ向きに手を振った。

「先輩、何ですかあのオッサン?」

「わっ、小泉亰子に前園遥香、何故お前等がここにいるんだ?」

 七瀬が二人に驚き叫ぶと、即座に二人がツッコミを入れた。

「何をボケ婆みたいな事を言ってるんですか、東池袋駅の改札からずっと後ろにいますよ。『酒盛りするから来い』って言ったのは先輩じゃないですか?」

「そうですよ。『必ず来い、来ないとシバくぞ』て言ぅたんは先輩ですよ」

「そうか、そう言えばそうだったな」

「先輩、今のオッサン誰ですか?」

「この先の良く行くラーメン屋のオヤジだよ」

「不思議やわ、あのオッサンの心が読めへんかった……」

 前園遥香は、首を傾げながら男の後ろ姿をじっと見ていた。

「前園、行くぞ」「あっ、はい」

 パチンコ屋の先の三叉路を右に曲がると、いつものラーメン屋のシャッターが閉まっていた。店の前におばちゃんが立っている。

「おばちゃん、どうしたの。今日は休み?」

「あっ那奈美ちゃん、実はウチのが急に・」

 おばちゃんが声を詰まらせた。

「ん、急に?」

「今日が通夜で・」

「おばちゃん、何の冗談?ついさっきそこでおじちゃんに会って……」

「誰に会った?」

「おじちゃんに」

「先輩、先輩」と言って、小泉が七瀬の袖を引っ張った。前園遥香が被りを振った。

「今朝まで元気だったんだよ・」

 おばちゃんが言葉を詰まらせた。事の成り行きに、七瀬は頭を抱えるしかない。

「あっ、そうだ。おばちゃん、おじちゃんから伝言がある。キャッシュカードの暗証番号は7272ナニナニだって」

 おばちゃんが首を傾げた。

 夕方を過ぎても暑さは一向に落ち着かず、TVニュースが『記録的な猛暑だ』と騒いでいる。

 夏の酷暑やら不思議な一日の出来事など特に気に病む様子もなく、七瀬は冷房の効いた自分の部屋で冷えたビールをぐっと飲み干し、満足気な顔で笑った。

「お前等、酒なら売る程あるから飲め、何たって全部私のバイト代だ。肴も売る程あるぞ」

「はい、気合い入れて飲みます」

「もう飲んでます」

 小泉が持ち前の可愛い顔で微笑いながら一気にグラスを空けた。前園は、既に手酌ビールでポテトチップスを肴に本格的な飲み体勢に入っている。

「先輩、今日は幽霊ばっかりでしたね」

 小泉は、一日を振り返って染々とした声で言った。

「そうだね、立て続けに幽霊を見たんだからさ、不思議な話だよな。それに一人目の山岡は私だけ、二人目のおじちゃんはお前等も見た。どっちも完全3Dだった。ばあちゃんを葬式で見た時は、もっと映像っぽかったのにな」

「先輩、あのオッサン凄くいい人みたいな感じだったから、悩むような事じゃないですよ」

「悩んじゃいないよ。仮に幽霊だとしても、あの世に行く前に私に会いに来てくれたなんて嬉しいじゃないか」

 小泉が慰めを言ったが、七瀬は少しも気になどしていない。

「でも、幽霊がこんなにホイホイ出て来ていいんですかね?」

「さぁどうなのかな。バイト先のレジでも、また幽霊が来るんじゃないかと思って客の顔じっと見詰めちゃったよ」

「客をじっと見詰めるコンビニの店員っていうのも、何だかなぁですね」

「変やな」

「そうだよな。あぁそう言えば、店長も幽霊じゃないのかと思ってじっと見てたら『僕には妻がいるんだ』って言われたな」

「その店長可哀想ですね、先輩みたいな綺麗な顔の女の人にじっと見詰められたら、大概勘違いしますよね」

「する、絶対する。でも先輩、何で男嫌いなんですかぁ?」

 既に酔っ払いの前園が、いつもと違う饒舌な調子で話し出した。

「不思議やわ。そんな綺麗な顔して、何で男がおらんのですかねぇ?ウチがそんな顔しとったら、世界中の男は皆ウチのものやのになぁ」

「私の顔は他人が評価する事だし、男がいないのは私のせいじゃない。バイト先でも『僕と付き合ってください』とか言う茶髪のチャラ坊の客がいたが、『私はお前如きと付き合ってる程ヒマではない』と言ってやった。私の勝ちだ」

「駄目だ、こりゃ」

「アホやわぁ」

 いつもの事だが、男の話になると途端に三人の会話が続かない。170センチを超える長身で、片手間でモデルのバイトをして雑誌にも載る七瀬那奈美は、男に興味がない訳ではないが、興味をそそるような男がいない。

 正統派美形の小泉亰子は、次々と男を変えているが、何故か長続きした試しがない。前園遥香は、アイドル系の可愛いアニメ顔で、自身のブログで秋葉原周辺に集うオタク達から神と呼ばれ、ファンクラブを結成する程の絶大な人気を誇っているが、何故か筋金入りのオタク嫌いだった。

「小泉、前園、お前等、大学卒業したらどうするの?」

 七瀬が酒の肴に話を振った。

「考えた事もないですね」

「先輩は、卒業したら何しはるんですか?」

「私もやりたい事なんて特にないな、経済学部だから何をしたらいいのか良くわからない。マスコミで報道なんか出来たらいいなと思うけど、そんなに上手くはいかないだろうしね」

「先輩、女子アナになりたいんですかぁ?」

「まさか、私がそんなチャラ女になれる訳ないだろ。純粋に報道がやりたいなと思っているだけだよ。尤も、報道とは何かなんて訊かれても答えられないけどね」

「先輩、見た目だけなら全然ありですよ」

「先輩ぃ、『えぇ、そんな事ワタシには出来ないですぅ、きゃぁ』って言ってみてください」

 酔っ払い小泉が揶揄うと、出来上がったもう一人の酔っ払い七瀬が繰り返した。

「えぇ、そんな事出来ないです、きゃぁ。うっ、自分で言ってて気持ちが悪い。ゲロ吐きそうだ」

 唐突に、前園が七瀬の目の前に右手を翳して、遠い目をして何かを見つめた。

「前園、私の意識なんか読んだって、何の意味もないだろ?」

 出来上がった酔っ払いが言った。

「先輩ぃ、ウチはぁ他人の心が見えるだけやなくぅ、もう一つの特技、他人の未来がちょっとだけ見えるんですぅ」

「未来?テレパシーとか人の心が見えるとか、お前面白い奴だね。でも、私の未来なんか見えるのかな?」

「特技なんだけど、余り役には立たないよね」

 小泉が横から茶々を入れた。前園は所謂超能力者と言われる類なのだろうが、その能力が役に立ったという話は聞いた事がない。前園が殆どインチキ霊能力者のような仕草で、神のお告げを語った。

「七瀬先輩は将来・そんなに遠い先やなく・何かの縁で報道っぽい仕事に就いて……死ぬ程の目に遭ぅて・不思議な事件に巻き込まれて・結婚して・子供が生まれて……あれれ?」

「ちょっと待て、何だか色々あるな。先ず『報道っぽい』『死ぬ程の目に遭う』って何だ?」

 酔っ払いが聞き直した。

「あっそれは、えぇと先輩が叫び捲っとる姿が見えました。何やら凄く大きな音がしてぇ、日本やなかった」 

「へぇ、私は日本にはいないのか。それで私の子供が何だって?」

「ええと……」

「何だよ、何を勿体つけてんの?」

「いえ、そうやなく、あの、えぇと、その子が自分の意志で遠い所に行って、消えるんです。その前に、子供?孫?みたいなその子が世界を救うんですぅ」

 奇想天外な未来予想に、酔っ払いは驚かない。

「何だか良くわからないけど凄いな。前園お前さ、その能力で彼氏引っ掛けたらいいじゃないかな?」

 酔っ払いの提案に、へべれけ美女の小泉が笑いながら返した。

「残念ながら、この力は他人の「女」だけに有効で、自分と男の未来は見えませぇん。それに男には気味悪がられるだけという欠点があるんですぅ」

「なる程、そりゃ駄目だね」

「そうなんですよ。この前も東大とのコンパで、偉そうな能書き垂れてる僕ちゃんに、遥香が『アナタの未来が見えます、自衛隊にいます。そこは激戦地です』って言ったら、そいつがいきなり泣き出しやがったんですよ。インチキなのにぃ」

「仕舞いにはそいつと他の奴等まで『ママに言い付けてやる』て言いよって、帰ってもぅたんですよ。もう大笑いやったなぁ」

「そりゃ使えないな。でも、私が結婚?子供?孫?多分それはないなぁ」

 前園の能力に納得しながら、七瀬が寂しそうな顔をした。

「そんな事ないですよぅ、ウチの予言は外れた事は一度もないんですぅ」

「自分の事はさっぱりなのにね」

 小泉がツッコミを入れた。

「煩いわ。あっそうや、動物なら見えますよぅ」

「女と犬猫の未来だけが見えても、何の意味もないじゃないか?」

 二人の後輩と七瀬は、遠くから聞こえる夏祭りの太鼓の音を肴に酒を酌み交わした。心が和む他愛のない会話に、柔らかく時が流れていった。

「先輩、じゃあ私達はこれで」

「失礼しますぅ」

「あぁ、また明日な。気を付けて帰れよ」

 小泉と前園が帰った後も、七瀬は一人で酒を飲みながら微睡みの中にいた。

 不意に前薗が言った言葉が蘇った。『先輩は報道っぽい仕事に就いて・死ぬ程の目に遭って・不思議な事件に巻き込まれて・結婚して・子供が生まれて・』

「そうか、死ぬ程の目に遭うのか、私が結婚、子供、孫かぁ、あり得ないだろうな。前園の予言が当たるかどうかなんてわからないしな。ははは、私は何を本気にしてるんだ」

 宵闇に意味もなく流れていく時間の中で、ふと目をやった付けっ放しのTVが池袋駅前の交通事故を伝えていた。

「今晩は、夜のMHKニュースです。今日午後2時頃池袋駅の交差点で信号無視で突っ込んで来た大型トラックが次々と歩行者を跳ね計15人の死傷者が出た模様です。警視庁は業務上過失致死の容疑で運転手凸山凹男を現行犯逮捕しました。

死亡 

小泉亰子さん(19才) 

前薗遥香さん(19才)

重症 

右山左近さん(18才) 

上田下男さん(85才)

中山外次郎さん(90才)

「えっ?」

 TVが発する音声と画面に映る被害者の写真とテロップに、見ていた七瀬は耳と目を疑った。

「嘘だろ……今までここにいたのに?」

 暫くの自失の後、目の前で起きた予想もしない出来事に、驚くよりも笑いが込み上げて来た。

「あいつ等まで幽霊だったのか……こりゃ可笑しい。こんな事ってあるのか。きっとあいつ等は、自分が死んでいる事も気付かずに、明日も元気にサークルに来るんだろうな……」

 七瀬那奈美は、いつまでも一人で笑い続けていた。

 東宇宙の片隅に位置するアマノガワ銀河系恒星タイヨウ系属第三惑星のアジアと呼ばれる大陸の東傍に島があり、その島の中央に嘗てイケブクロと呼ばれる居住地区があった。

 イケブクロ居住区であった座標値の上空に、青藍に輝く宇宙船が現れた。宇宙船の操舵室に立つ大柄な男達は、外界を見据えながら、不思議そうな顔で呟き合った。

「これは、一体どういう事なのだろう?」

「どう理解すれば良いのだろう?」

「全く、理解が出来ない……」

 東宇宙連邦空域の辺境エリアにあるアマノガワ銀河の星で勃発した大規模な核戦争は、確実に地上のほぼ全ての都市を壊滅させるに至った。東宇宙連邦政府は、分裂型核爆弾などという愚鈍で、幼稚で、低レベルな自爆によって壊滅した惑星への調査団派遣を、急遽決定したのだった。

 事前の報告に拠れば、完全に壊滅した惑星各地域の都市の中の一つであるトウキョウの北部イケブクロ居住区周辺は、数千発の長距離弾道核爆弾の直撃を受け、全ての生物が消滅した事になっている。

 だが、東宇宙連邦調査団一行は、その爆心地イケブクロ周辺上空で、理解できない不思議な光景を目の当たりにしている。

 抜けるような夏の青い空に太陽が燦々と輝き、駅周辺に沢山の通勤客がごった返しているのだ。人々の楽しそうな笑い声さえが聞こえて来る。

「司令官殿、生体反応がありません。あれは幽体です、沢山の幽体が普通に歩いています」

「何?」「何と?」

 その言葉に、東宇宙連邦調査団の誰もが再び驚いた。

「幽体だけの完全なコミュニティーが出来上がっているというのか?」

「どうなっているんだ?」

「わからない……」

「沢山の人々の強い思いが結びついて、幻影を創り出しているのか?」

「人々は、自分達が幽体だという事に気づいていないのではないだろうか?」

「驚きだが、そんな時空間がこの宇宙に存在して良いのだろうか?」

「わからない。だが、我々にはこれを消し去る権利などない」

「全ては、神の御心のままに……」

 宇宙船から、眼下に広がる活気のある街と忙しそうに歩く人々を見ながら、男達が呟いた。

 青藍に輝く調査船は、地球に降り立つ事もなく、静かに飛び去っていった。

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時空超常奇譚其ノ弐. OH MY GOD/夢現の時空線 銀河自衛隊《ヒロカワマモル》 @m195603100

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