第617話 冗談のような存在 ※主人公視点外
屋敷の玄関前の広場。
ステムとユミカという小さな二人が一生懸命木剣を振るその横で私と相対するのは、先日子供を生んだばかりのクーデル。
まだ早いんじゃないかと思ったけど、一日でも早く仕事に戻りたいという彼女の思いは強く、この日から現場復帰に向けた訓練に付き合っている。
クーデルが所属していたレプミアの暗殺者組織……、闇蛇と言ったかな?
とっくに壊滅したらしいその同業組織の最たる特徴は、極めて細かい足捌きにあるとみている。
クーデルの相棒であるメアリとも何度か手合わせしたけど、似たような動きをしていたからね。
細かくこちらの間合いへの出入りを繰り返して隙を窺い、僅かな綻びを突いて仕留めるというのが本質のようだ。
「しっ!」
クーデル的には私のどこかに綻びを見出したのか、鋭く拳を撃ち込んでくる。
つい最近まで妊婦だったことを考えれば速さ、力強さとも申し分のない攻撃だった。
だけど、当然本調子には程遠いわけで。
「甘いよ」
奥様の部屋で敵として斬り結んだあの時と比べればまるでお話にならない速さの突きを、わざわざ避けるという選択肢はない。
拳を突き出したことで伸び切った肘の関節を極め、同時に掴み取った手首を外側に捻って地面に投げ倒す。
「ぐっ! ……まだ!」
唇を噛みながら立ちあがろうとするクーデルだったけど、それを許すほど私も鈍くはない。
立ち上がる前に彼女の上に跨り、美しい顔の前に拳を突きつける。
「終わりだよ。異議はあるかな?」
クーデルは私の言葉に悔しげに唇を噛んだものの、ゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ、ないわ。完敗ね」
「ははっ。それはそうだ。万全ならともかく、出産直後の君に負けるわけにはいかないだろう」
立ち上がるのを手伝い、彼女の服の土埃を払ってやっていると、私達の訓練を見学していたらしいステムが言う。
「むしろ万全でもガブリエのほうが強い」
「うるさいわよステム。そんなことは私が一番わかってるんだから」
遠慮のない物言いに、クーデルが抗議の声を上げながら抱きついていく。
仲がいいことは素晴らしいことだね。
ジャルティクからレプミアにやってきて良かったと思える理由の一つに、ヘッセリンク伯爵家の良好な人間関係がある。
もちろん伯爵様を頂点としているのは間違いないけど、その伯爵様からして考えられないほど気さくだ。
家来衆一人一人への細やかな声掛けはもちろん、定期的に酒を酌み交わす場を設けているなんて故郷の貴族ではあり得ない。
さらに付け加えるなら、奥様や家来衆に叱られる場面をあれだけ大っぴらに見せてくれる貴族も珍しい。
そんなことを考えていると、ステムを構い終えたらしいクーデルが私をそっと抱きしめてくる。
「仕事で疲れているのに付き合ってくれてありがとう。それで、申し訳ないのだけど、復帰に足りると確信できるまでこれからもできる限り付き合ってほしいの。ダメかしら」
可愛いおねだりに思わず頬が緩む。
「水臭いことは言いっこなしさ。前職を考えれば貴重な同性の後輩でもあるクーデルから訓練相手に指名されたら、断る選択肢なんてないよ」
「今のヘッセリンク伯爵家の女性家来衆で一番強いのはガブリエ。それは、腕力だけじゃなく精神的な面も含めて」
なぜかステムが私を後ろから抱きしめながら言う。
お互いレプミアの外から来たという境遇からか、この子に妙に懐かれているんだけど、まあ悪い気はしない。
「普段は優しくて愉快でいい匂いのするお姉さんだけど、刃物を握って薄ら笑うガブリエに勝てる絵が想像できない。多分、ボークンが切り刻まれる」
「薄ら笑うなんてひどいなあ。常に満面の笑みを浮かべているべき道化師の沽券に関わる」
常にニコニコ、顔いっぱいに咲き誇る笑顔。
それが道化師としての矜持というものなんだけど。
そう抗議すると、コテン、と首を傾げるステム。
「この国でも有数の死神だったらしいクーデルを腕力で抑え込める道化師? なにそれ。ほとんど冗談」
「冗談のような存在っていうのは、道化師的には評価されたようで気分がいいね。まあ、私も本当に冗談みたいな存在っていうのがどんなものなのか理解しているから、自称するのは控えておこう」
屋敷に目をやりながらの呟きを聞いたクーデルが笑う。
「ふふっ、それは伯爵様のことを言っているのかしら?」
「不敬だと怒るかい?」
「まさか。伯爵さまが冗談のような存在なのはそのとおりだもの。そう。ガブリエの言うとおり、あれほど愛を極めた方は、世界中を見渡しても二人と見つからない。まさしく冗談のような存在と呼ぶに相応しいわ」
ん?
んん?
おかしな方向に話が転がり出したな。
「なんといっても奥様に向けられた愛の濃度ね。結婚して数年経ってお子様も二人いらっしゃるのに、毎日人目を憚らず今日も可愛い、綺麗だと褒めておられるの」
ああ、確かにあれはすごいね。
お付きのメアリが止めなければ口付けくらい難なくやってのけそうな場面すらある。
「見かけると少し恥ずかしいからできれば憚ってほしい」
同意せざるを得ないステムの真っ当な意見も、伯爵様、というか愛を語り出したクーデルには届かない。
「愛属性の第一人者たるレックス・ヘッセリンクが奥様への愛を語るのに人目を憚るなんてとんでもない!」
「すごい熱量だね。しかし、ご夫婦仲があれだけ良好なのは素敵なことさ。ジャルティクでは考えられないからね」
貴族の奥様から旦那様の暗殺依頼が届くお国柄だからね我が故郷は。
「あれこそ私とメアリが目指すべき理想の夫婦像よ。あ、だめ。メアリが人目を憚らず可愛いと耳元で囁いてくれることを想像しただけで膝から崩れ落ちそう」
言いながら頬を赤らめつつ膝を震わせるんだから本物だよ。
実に愉快な妹分さ。
私が道化師仕事をしている時以外も心から笑っているなんて、ジャルティクの同僚はきっと信じないだろう。
「君の友人は相変わらずだね、ステム」
「可愛いでしょ?」
「否定はしない。ただまあ、二人きりならいざ知らず、メアリは人前で可愛いだなんだとやらないと思うけどね」
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