第601話 メアリ欠席の影響
翌日。
案の定メアリはベッドから立ち上がれず、声を掛けても掠れた声で今日は無理とうわごとのように繰り返すだけ。
飲ませたのは僕だし、それを棚に上げて無理やりトレーニングに参加させるようなブラック当主ではない。
エリクスからも勘弁してやってくれと頭を下げられたので、カナリア公には僕達だけが訓練に参加する旨を説明した。
「小僧が二日酔いじゃと? まったくなっておらん。ヘッセリンクの。家来衆の酒量の限界くらいしっかり把握してやらんか」
飲ませるな、ではなく限界を把握してギリギリを攻めろということらしい。
なんともカナリア公らしい物言いだ。
「ついついメアリが可愛くて飲ませ過ぎました。申し訳ありませんが、あの様子だとおそらく今日は夕方まで起きてこられないでしょう」
「仕方ないのう。まあ、疲れも溜まる頃合いじゃからここらで一日二日休みを挟むのも悪いことではないが、儂の手が空くのう……」
そう言いながら僕とエリクスに交互に視線を走らせるカナリア公。
何度か僕達の顔の間で視線を往復させたあと、ニヤリと笑いながらエリクスを指差す。
「よし決めた。そこの文官の小僧。今日はお主の相手をしてやろうか」
ご指名入りまーす!
名前を呼ばれたエリクスは自分を指差しながら目を丸くしている。
「は!? え、自分ですか!?」
まさか自分があの千人斬……、もとい百鬼夜行ロニー・カナリアから直接指導を受ける機会に恵まれるなんて思っていなかったんだろう。
その大きなリアクションが気に入ったのか、満面の笑身を浮かべたカナリア公がエリクスの肩をポンと叩く。
「ああ。一日暇を持て余すのも面白くないからな。喜べ。一文官に儂自ら稽古をつけることなどなかなかないぞ?」
そりゃそうだ。
そもそも普通の文官はこんなとこに連れてこられたりしないからね。
【エリクスも文官修行だけのつもりだったと思いますが、それは?】
他所の国の公爵様を怒りに任せて殴り倒す文官は、普通の文官じゃないから。
それを別にしても、エリクスも今からある程度の腕力をつけておかないと、将来困る気がするんだ。
あくまで勘でしかないけど、僕の勘は当たる。
「エリクス。これは大変名誉なことだ。よかったな。さ、遠慮なく胸をお借りしろ」
「伯爵様、顔に助かったと書いてございますが?」
「まさか」
あくまでもエリクスの成長のためであって、あー、メアリがいないから今日カナリア公の特訓を受けるのは僕かなー、嫌だなー、慣れてきたしできればサルヴァ子爵とのトレーニングがいいなー、なんならおじ様方とランニングだけでもいいくらいだなー、なんて一切考えているわけがない。
ああ、間違いないとも。
そんな誰に聞かせるでもない言い訳を頭の中で垂れ流していると、サルヴァ子爵が僕の肩を力強く抱いた。
「なるほどなるほど。大将に比べれば私のほうが楽できると。そうお考えかな?」
おかしいな。
確かに肩を抱かれたはずなのに、その逞しい腕で首が締まってる気がするんだけど。
そんなことないですと首を振る余地もないくらいみっちりと。
「そんなヘッセリンク伯に朗報です。今日から強度を一段上げる予定でしたが、二段に増やすことが決定いたしました」
ひいっ!!
鬼!!
【鬼肝臓のラッチ様ですから間違いないかと】
「おめでとうございます、伯爵様」
自分を売ろうとした僕にエリクスが真顔で拍手を送ってくるが、ここで抵抗しないとまずい!
「いやいや! 今のままで十分ですサルヴァ子爵! これ以上厳しくされては足腰立たなくなってしまいます!」
慣れてきたとはいえギリギリ耐えられるくらいの強度だ。
これ以上厳しくされたら二日酔いじゃなくても明日立ち上がれません!
「これはおかしなことを。貴殿の目的は、奥方を一昼夜膝に乗せたあとでもより速く、より遠くまで走ることのできる頑強な体作りと聞いていますよ? 奥方のためにも頑張りなさい」
「改めて聞くと、何をしにきたんじゃお主はと問いただしたくなるのう」
「言わないでください。自分でも何のためにサルヴァ子爵にしごかれているのかわからないのですから」
全力の命乞いも虚しく、目的のために頑張れよとエールを送られてしまっては諦めるしかないか。
「まあ、目的はなんであれ鍛えることは無駄にはならん。お主がヘッセリンクならなおさらな。小僧……、エリクスじゃったか。いくぞ。心配いらん。きっちり基礎から教えてやる」
僕が諦めたことが伝わったのか、カナリア公が話は終わったとばかりにエリクスの髪をわしゃわしゃと撫でくりまわす。
撫でられた方は怯えたように震えているが、仕方ない。
僕だってカナリア公とマンツーマンは怖いよ。
「カナリア公。参考までに、うちの若手に何の基礎をご教授いただけるのでしょうか」
「そんなもの決まっておるだろう。上手な殴り合いの仕方じゃ。エリクスを借りていくぞヘッセリンクの」
そう言うと、僕の返事を待たずにエリクスの襟首を掴んで引きずっていくカナリア公。
今この瞬間、僕にできることはただ一つだけだ。
「うちの若い者をよろしくお願いいたします。エリクス、成長した姿を見せてくれるのを楽しみにしているぞ」
カナリア公に深々と頭を下げた後、エリクスにエールを送る。
将来の筆頭文官が助けを求めているように見えけど、きっと気のせいだろう。
「では、御当主自ら一日でどれだけ成長できるかを見せてあげなければなりませんな。手加減は一切なし。私達も存分に殴り合いましょうぞ」
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