第179話 ヘッセリンクのエース
「お兄様! おはようございます!」
朝一の執務室にユミカの元気な声が響く。
最近は、朝食のあとエリクスについてお勉強の時間のはずだ。
そんな天使が朝から僕を訪ねてくるなんて珍しい。
「おお、ユミカ。今日も天使のような可愛さだな。しかし、どうしたんだこんなに早くから」
そう尋ねると、扉のほうをチラチラと気にしながら上目遣いでこちらを見てくる。
なんだ。
ただの大天使か。
「えっとね? お兄様にお願いがあってきたの。聞いてくださる?」
ユミカのお願いなら、陛下の言いつけを破ってエスパール伯を更地にする事も辞さない。
まあ、ユミカの口から『お兄様、エスパール伯領を更地にしてほしいの!』なんて言葉が飛び出したら、我が家の天使の育成方針について諮るため、第3回全体会議を招集せざるを得なくなるのだが。
「もちろんだとも。僕がユミカのお願いを聞かなかったことなどないだろう? 言ってみなさい」
僕の言葉に、花が咲いたような満面の笑みを浮かべるユミカ。
「ありがとうお兄様! リンギオおじ様! お兄様がお話し聞いてくださるって!」
リンギオおじ様?
はて。
聞いたことがあるようなないような。
少なくとも我が家の家来衆にはいない名前だ。
「……少し、お時間をいいだろうか。ヘッセリンク伯」
ああ!
リンギオさんって、エスパール伯か。
え、なんで?
「エスパール伯? いや、構わないと言えば構わないのですが。ユミカ?」
予想もしていなかった展開に頭がついていかない。
まさか、本人連れてきて更地のおねだりじゃないよね?
「リンギオおじ様がね? お帰りになる前にお兄様に悪いことをしたのを謝りたいって仰ってたの。 だから、お話聞いてあげてほしいの!」
ユミカが北の更地化を叫ぶという最悪の事態は回避されたようだ。
しかし、エスパール伯が僕に謝りたいって。
こちらとしてはもう終わったことなんだけど。
「昨晩、玄関ホールを見学していたらユミカ嬢とマジュラス殿に見つかってな。あれよあれよと言う間に」
あれよあれよと言う間にユミカのペースに巻き込まれて、断ろうにもマジュラスに睨まれてできなかった、と。
ごめんなさいね、うちの子供達が。
「なるほど。とりあえずユミカ。リンギオおじ様ではなく、エスパール伯爵様、だ。この方はレプミアの北を治める偉い方なんだぞ?」
直近まで敵対してたし、今後このおじさまがどんなことになるかわからないけど、今はまだ伯爵様だ。
ちゃんとした呼び方をしないと教育的にもよろしくない。
「まあ! リンギオおじ様はすごいのね! あ、ごめんなさい。ええと、エスパール伯爵様?」
よしよし、言うことを聞けるいい子だ。
あとで飴玉をあげよう。
「いや、ユミカ嬢。リンギオと呼んでくれて構わない。初めは驚いたが、なぜか心地よいものだ」
「ユミカ。エスパール伯爵様だ。いいね?」
これはユミカのためを思っての教育だ。
そう、それ以外の意図や感情はない。
親しげな感じを見て、キーッ! ってなどなってない。
「なるほど。予算を誤魔化して飴玉を作るくらいだから溺愛しているとは思ったが、これは予想以上だな」
おい!
なんであんたがそれを知ってるんだ?
我が家の、というか僕の中のトップシークレットだぞ、それ。
しかも、今この部屋にはハメスロットがいる。
まずい、まずいぞ。
「エスパール伯。ここでその話はいけない。よろしいですな?」
「あ、ああ。承知した」
釘を刺したが、時すでに遅し。
忠臣の中の忠臣と言っても差し支えないほどの忠臣である忠臣が、素敵な笑顔を浮かべている。
背中に冷たい汗が流れた。
「ここではいけないのであれば、後で詳しくお話を聞かせていただきますよ、伯爵様。ええ、たっぷりと時間はあります」
あ、すごい怒ってる。
この笑顔はすごい怒ってる時の顔ですよ。
逃げ道は、ない。
「ハメスロット、違うんだ! くっ、恨みますよエスパール伯!」
「自業自得だろ、アホ伯爵。しっかし、なんだな。あんた本当にエスパール伯爵さんかい? 全然表情違うじゃん」
焦りでバタつく僕を、メアリが呆れたような半笑いで見てくる。
他人事だと思って!
ハメスロットのお説教は怖いんだぞ!
まあ、それはひとまず置いておこう。
「表情どころか、顔が違う。ご自慢の髭は、どうされたのですか?」
エスパール伯のトレードマークであるちょび髭がきれいさっぱりなくなって、普通のおじさんになっている。
見慣れないから違和感が凄い。
「髭は、今朝剃り落とした。こんなことでは足りないかもしれないが、せめてもの謝罪の証だ。ヘッセリンク伯。この度は、いや。これまでの事も含め、謝罪させていただく。亡きお父上と、家来衆の名誉を貶めた事申し訳なく。このとおりだ」
謝罪のために坊主にするノリでちょび髭剃り落としたってこと?
申し訳ないが、驚きのほうが強くて反省が伝わってこない。
いや、エスパール伯といえばのちょび髭だったから、断腸の思いで剃ったんだろうけど。
「メアリ、クーデル」
父親への謝罪については受け入れよう。
ツアー効果で魔獣の脅威度について間違いはないとわかってくれたはずだから。
ただ、元闇蛇への誹謗中傷については、本人達に確認が必要だ。
「俺達から言うことはねえんだけどなあ。エスパール伯爵さんよ。別に俺たちはあんたの命を狙おうだなんて思ってねえから安心してくれ」
最早隠す気がないのか柄の悪い美少年モードだ。
お許しの言葉が聞けてホッとするエスパール伯だったが、次の瞬間凍りつく。
直前までヘラヘラ笑っていたメアリが音もなく背後に回り、首筋にナイフを突きつけたのだ。
「ただ……、次に我が主に敵対した時は、我ら元闇蛇が、遠慮なく斬らせていただく。努努、お忘れなきよう」
耳元で囁かれたエスパール伯は顔面蒼白でこくこくと頷いている。
ユミカには見せられない光景だけど、クーデルが両手で目を塞いでくれていた。
ナイスフォロー。
「ユミカの前だぞ。脅してどうするんだ馬鹿者。エスパール伯。確かに謝罪を受け取りました。これを以って、ヘッセリンクとエスパールの間では手打ちがなったことにいたします」
「そう、か。いや、いいのか? こんなことで。もっと具体的な賠償や」
「これ以上の泥沼化が避けられるならそれに越したことはありません。申し上げたでしょう? 私は貴方ともいい関係を築きたいと」
「皮肉ではなかったのか……」
「半分は皮肉でしたよ? ただ、ユミカの前で大人の醜い争いを見せるのは教育に悪い。それに、ユミカのお願いは貴方の話を聞いたうえで、できるなら許してあげてくれということでしょうからね」
ユミカがうんうんと頷いている。
「であれば、あの子の願いを聞くと言った以上、私は貴方を許さねばならない」
この天使に特殊能力はないらしいけど、そんなことはない。
その笑顔には、他者を幸せにする成分が含まれているに違いない。
メアリのナイフからユミカの笑顔というとんでもない高低差に、色んな意味で膝を震わせる元ちょび髭伯。
「ユミカ嬢は、天使の化身か?」
また一人、ユミカに墜とされたようだ。
さ、ヘッセリンク紳士協定にサインを。
「それに近い……、いや。そのものだと言っても過言ではないでしょう。ユミカのもとでなら、分かり合えるかもしれませんな」
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