不良くんは、来てくれる

 心臓が痛い。沸き立つ興奮に痛みが薄れて、体が妙に軽い。廊下を二人突き進んでいく。


 初めて教師に反抗したという事実が感覚を麻痺させた。


 お互い顔を見合わせて、繋いだ手に力を込める。


 目の前で電気が爆ぜるように、ぱちぱちと火花が走る。恐ろしくてたまらない校舎で、ここまで心が軽くなるのはいつぶりだろうか。


「私ね、はじめてだよ。あんな風に先生へ口答えしたの」


「わたしも。香奈恵ちゃん、ありがとう」


 口に出た礼に彼女は照れくさそうに笑った。

 優しくてあたたかい、安心感を与えてくれる。白雪も自然と笑みがこぼれた。


 教師に呼び出されようと、母親に文句を言われようと。今を失うより怖くない。いらないと捨てたはずのそれを、拾い上げて抱きしめる。自ら破壊しようとした思いを満たしていく。

 

 と。そのとき。


「――っうお!」


 曲がり角。とん、と履き心地の悪い上履きで廊下を踏んだとき、聞き慣れた驚きの声がぶつかった。


 そこでようやく白雪たちは立ち止まった。周りが見えなくなっていた二人は、はっとして彼に頭を下げる。


「ごめん。蒼汰くん」


「お、おう。それはいいけどよ――って、白雪、それ」


 珍しく目を見開き無表情を崩した彼は、不審そうに彼女らを観察して、すぐさまに顔色を変えた。眉根をよせて白雪の怪我を見咎めた。触ろうとして、ぴたりと手を止める。


 数秒の黙考のち、ほんの一瞬だけ表情が変化したような気もした。だがすぐに苦渋へと戻り、重く口を開く。


「その怪我、何があった」


「……あ」


 指摘に白雪は思い出す。教師への反撃と髪飾りを取り返さなければという目的以外、意識の隅に追いやっていた。


 緩慢な動きで捻挫の足を上げる。かすかに熱を帯びているのが靴下越しに伝わった。


 その一連の動作から、蒼汰は気難しそうに目頭あたりをもむ。


「足もか。頬と、それ以外は?」


「頬?」


「頬、切れてる。血が出てんぞ」


 はっと指を滑らせれば確かに違和感がある。そっと指先を見れば凝固した血液の欠片が付着していた。


 いつ怪我したのか、まったくわからない。


 他人事のように眺める白雪に代わって、蒼汰はポケットから青いハンカチを取り出して拭く。存外、丁寧な手つきに白雪は「ハンカチ、持ってたんだ」と些か的がずれた発言を口にした。


「……で、何があった」


 とりあえず保健室に。


 誘導する蒼汰に白雪は待ったをかけた。


 怪訝そうな淡い色の瞳に、どう説明したものかと悩む。せっかく貰ったのを取られたと正直に話すべきか。しかし本人不在のときに、告げ口をするような後ろめたさがある。


 はく、と空気を食べるだけに止まった口。蒼汰はただならぬ様子を察して、ついっと指を白雪の頭へと伸ばす。示された場所は、髪留めがあったはず。


 気付かれた。冷や汗が額から滑り、顎に伝うと冷え切った廊下へと落ちる。


 いやな沈黙が広がり、緊張が走る。薄い氷の上に立つような、一度間違えれば取り返しのつかない事態に発展する予感に白雪は必死に言葉を探した。


「蒼汰」


 ぱりんと、糸もたやすく砕く声。生クリームに砂糖をまぶした過剰な甘さを含んで現れた。


「白雪ちゃんもいたんだ! 探してたんだよー?」


 無垢な笑顔で彼女はするりと蒼汰の腕に絡みつく。花の香りを纏い、男を誘惑するように振りまいた。


 彼女は相手によって、雰囲気を変えるのは知っていたが、ここまで。甘える姿にゾッとする悪寒が走る。しかし。


 髪飾りが視界に入った。


 月に、いくつもの星が垂れきらきらと揺らめいていた。窓から入り込む太陽の光が反射して存在を主張するそれ。

 まるで彼女のものだったかのように、当然として髪を飾り立てている。


「みてみて。これ、貰ったの!」


 あくまで無邪気さは失わず、柔らかな胸を蒼汰の腕に押しつけて髪飾りを指さす。ピンクを薄く塗った唇が弧を描き、目を三日月にゆがめた。



「白雪ちゃんがね、いらないからって。勿体ないよねぇ、こんなに可愛いのに。私だったら宝物にするよ」



本人を目の前に、嘘を平然と真実として話す度胸に呆気にとられた。今までの白雪たちなら黙って、真実であると肯定しただろう。彼女を絶対の神様であると、黒も白と証言した。だが。


 ちらりと白雪は香奈恵を見る。表情が抜け落ちて恐怖どころか怒りすら浮かべていない。無感情は百都子への興味すら失せたことを示唆していた。軽蔑も侮蔑も。すでに見捨てたのだろう。彼女は百都子に何の期待も抱かない。


 おそろしく冷たい雰囲気にのまれて、白雪は幾分か冷静になれた。動揺で逃げ出しかけた足は止まる。が、まだ否定する言葉は喉の奥に張り付いて出てこない。


 それを知らずか百都子は、頬をかすかに桃色へと染めて蒼汰の肩に、こてんと頭を乗せた。


 白雪は咄嗟に蒼汰を伺ったが、すぐさま目をそらした。世にも恐ろしい、見なければよかったと後悔が襲う。


 こわい。隣の香奈恵も蒼汰も。挟まれた白雪は身を縮こまらせた。あるはずない冷気が頬を撫でた気がして、ぶるりと身体を震わせた。


「ほんと白雪ちゃんってものを大事にしないよねぇ、すぐ人にあげちゃうんだもん」


 ――あなたに買ってもすぐにあげちゃうから買わないわ。


 よみがえったのは母の呪いだ。


 嘘ではない。確かに白雪はすぐに百都子へあげていた。

 そうしなければ百都子にいじめられたから。もっとひどい結末になったから。身を守るための最善だったと言い訳して。


 事実だというのに、心は黒くよどみ沈んだ。軋んで悲鳴を上げる。


 蒼汰には、ペンをあげようとしたところを一度見られている。信じてしまうかもしれない。それが何より恐ろしかった。

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