不良くんと、空っぽの箱

 広々とした廊下に、いくつもある部屋の内、突き当たり。彼の部屋だろう。


 中は、質素というより、ほぼ何もない。


 窓際に設置されたベッドとクローゼット。それのみ。極限にまで減らされた家具と黒で統一された一室は、生活感が皆無である。寝るためだけにあるようだ。


 寒々しい、もの悲しさが漂う。隣にいた彼は、先にベッドに腰掛けた。カーペットもクッションもない場所では、座るのはそこだけだ。


 彼の顔とベッドを見比べて、おそるおそる白雪も倣う。拳一個分あけた距離、ぎしりと二人分軋んで沈んだ。


「あれが母親とか吐き気がする」


 後ろに両手をつき、気怠そうに体勢を崩した蒼汰がぽつりと呟く。目線は何も飾られていない壁へと注がれていた。どこか遠い場所を見つめているようだ。


「お父さんは」


 一瞬悩んだ末、白雪は気になっていたことを遠慮がちに訊いた。


「死んだよ」


 一拍おいたあと、感情の読めない声で答える。


 ならば、あの母親と二人きりで暮らしているのか。我が子と肉体関係を結ぶのを躊躇わない人と。それは白雪には想像も出来ない生活だろう。


 何も置かれていない部屋を見渡す。気が休まらない、いつか帰らなくなっても問題ない場所。思い入れも、きっとないのだろう。そう思ってしまうほど私物がひとつも存在しない。


「ごめん」


「いや、気にすんな。そりゃ親父のことは今も辛いけど、お前になら話しても平気……いや、話したいって思う」


「話したい?」


「あぁ。親父のこと、俺だけが知ってるのは嫌っつーか。お前にも知ってほしい」


 かすかにふるえる声から伝わる感情。白雪は目をしばたたかせて、ほっと息をつく。


「……お父さんが大好きだったんだね」


 少なくとも父親には頼れていたのかもしれない。だからこそ亡くなっている事実は、白雪の胸をより強く突き刺した。ずきずき痛みを訴えるのを押さえ込む。


「あぁ、気が弱くて、服装がダサい」


 散々な言いようだが、慈愛に満ちた表情と声音のおかげで棘は一切ない。ひとつひとつ大切な宝物を取り出して眺めるように、言葉で思い出をなぞる。おそらく彼の目には父親との記憶が鮮明にうつっているのだろう。彼の横顔を、白雪は黙って見つめた。


「でもよ、一度決めたことはやり遂げるし、自立した男気のある人だったよ。優しすぎて損するタイプ」


「……そっか」


「正義感も溢れすぎてな。死んだときも、ガキに、いじめられていた猫を守ったらしい。生意気なガキどもを説得してるとき……隙を見て逃げ出した猫が車道に飛び出て、轢かれるのを身を挺してまで庇っちまうお人好しだ」


 彼は懐から光るものを取り出す。白雪が一度拾ったネックレスだ。直したのだろう、しっかりチェーンに通されており輝きは失われていない。彼の首で揺れていた。


「――これもな形見なんだよ」


 指の腹でハートの石をなでる。壊さないように丁寧な手つきに、自然と白雪の目線は吸い寄せられていた。


 しばしの沈黙の末、彼が言い淀む。悩むそぶりを見せて、戸惑いがちに俯いた。何度か口を開いて、閉じて。


 白雪は逡巡ののち「聞かせて」と、促した。たったそれだけでも、彼の背中を押すには十分だったらしい。ネックレスを握りしめて、白雪と向き直った。淡い瞳が揺らぐのを、静かに見つめ返す。


「昔はさ、母親に見向きされないのが嫌で。子どもながらに気を引きたくてさ」


 空いた手が、白雪のそれと重なる。酷く冷たく、体温を分け与えるように握り返した。苦しそうな吐息に、痛みが伝わる。


「親父と、どっかの店に入ったとき。きらきら光ってて、母親の持っているネックレスに似てる気がして。それをあげたら見てくれるかと期待した」


 馬鹿だよな。そんなわけないのに。


 自嘲めいた毒を吐いた蒼汰に何も言えず首を横にふる。


 白雪にも覚えがあった。見て欲しいというよりは、褒めて欲しかった過去だ。結局努力もむなしく徒労に終わったのだが。


 そのとき絶望は、今も血を流して心に刻まれている。蒼汰のはそれより、もっと辛いものだろう。諦めてしまうほどに。


「親父は勘違いしたらしくてな、単に俺が欲しがったと思って買ってくれたんだ。まぁ結局母親には捨てられたし、俺がつけるつもりもなくて、数日のうちに忘れたんだけどよ」


 でもな、とへにゃりと崩れたような柔らかい笑みを浮かべた。初めて見る、表情だった。


「親父がさ、ずっと持ってたんだよ。知ったのは亡くなる数日前なんだけど。んなもんどうして、って訊いたらさ」


 ――はじめて蒼汰が欲しいって言ってくれたモノだから。


 父親は、金庫の中に仕舞っておいたらしい。印鑑、通帳など大切なものと一緒に。


「記念だって。そんときの親父が、優しい顔しててよ、ほんとうに、ずっと見ていたくなるくらい、だらしない、しまりのない、かおだった」


「……形見に、なったんだね」


「あぁ。親父の遺品は、母親が全部売り払ったからな。これは金にならねぇって捨てた」


 さらっと流した話は重くのしかかる。


 蒼汰にとって父親は大切な存在なのだと、強く伝わるというのに。母親の手で父親のものを奪われるなど。


 彼の部屋には何もない。ベッドも新品同然で、からっぽな箱のようだ。失いたくないのは決して置かないのだろう。


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