利己的で傲慢な恋
窓辺に座り、ガラスに身体を預ける人間。月光に照らされ、外に向けられた虚ろな瞳が水晶のように輝き瞬いた。長ったらしい黒髪が頬にかかり、気怠げな様子で身動き一つせずいた。
一瞬よく出来た人形かと思うほど生気がない横顔に見覚えがあった。あの、気持ち悪い笑いを浮かべた女である。
だがしかし。今の彼女は、まるで別人のように感情が抜け落ちている。病的なほどに白い肌は体温すら感じさせず、ますます無機物であると錯覚させた。
息をのみ、眺めてから蒼汰は咳払いをした。それから皮肉交じりの棘を吐いた。
「帰らなくていーのかよ? 優等生」
きっとまた愛想と嘘で固めて、不愉快な表情を向けるだろうか。それか嘲りの眼差しに堪えきれず逃げるか泣くか。
しかし。
「――帰りたくないの」
全てを裏切った。
蝋人形のような感情がない表情、抑揚のない声。驚きすらなく、何もかも寄せ付けない。まるで死人の姿に、蒼汰はぞくりとする。
彼女は一切の感情を、おそらく意図的に消している。ガラスのような瞳は蒼汰など見ていない。蒼汰と似ているようで、違う。普通であるが――壊れようとしている。
興味がない。面倒。
そんなのは既に吹き飛ばされ、蒼汰は自然と口角がつり上がるのを感じる。は、と短く吐いた息は笑い声に聞こえた。
冷え切った心が、みるみるうちに沸騰して湧き上がっていく。うるさい心臓をおさえて、どうにか言葉を紡いだ。
「一人で帰ンの危ねぇじゃん。ダチとかいねぇの」
「友達なんていらない」
ナイフのように鋭さに、ようやく色が乗った。憎々しげで吐き捨てる口ぶりなのに、奥底に見え隠れする寂しさ。
彼女はおそらく教師や生徒の悪口が聞こえてないわけではない。今の発言から、蒼汰のように何も感じないわけではないはずだ。
ただ己の心を守るために、壊れようとしている。
蒼汰は目を細める。欠けた自分と欠けようとする彼女。
壊れようとするのに、壊れきれない。
中途半端で藻掻いている。
必死に人形になろうと、している姿。
なろう、とする時点で彼女は欠けていない。
彼女はまだ壊れていない。
「おくってやろーか」
一歩近づけば、彼女の肩が揺れた。横髪の隙間から凍りついた視線を投げてきたが、やがて三日月のように歪んだ。
「――ううん、平気です。ありがとう」
明らかな拒絶。踏み込んだ瞬間、彼女が仮面をはめたのがわかった。あの反吐が出る愛想笑い。泣き出しそうなのを取り繕って隠す歪な笑み。
ちがう。違うだろ。笑いたくないくせに、笑うな。
きっと泣き顔は、そんな貼り付けた笑顔よりも。
「さよなら」
するりと風のように横を通り過ぎて、去って行く彼女――白雪に蒼汰は顔を覆う。瞼の裏に焼き付いた彼女の表情に、呼吸すら奪われた。
自ら壊れようとしている、浅ましくも愚かな。
決め手は、そのあとだった。
大切なネックレスを落とした蒼汰を追いかけてきたときだ。
気味悪がることもなく、平然と渡してきた。あの夜の出来事をすっかり忘れた風で、蒼汰の風貌に怯えていた彼女。苛立っていた蒼汰に差し出した。
ネックレスを馬鹿にする奴や気持ち悪いと笑うのは数多く見てきた。だが気にもしないのは初めてで、茫然とした蒼汰に彼女は逃げるように立ち去る。
向かったのは、先ほどの下りたばかりの場所。電車を待つ姿に、最寄り駅でもないのにわざわざ降りて追いかけてきたのだと察した。他人で、怖いと怯える相手のために。
彼女は壊れていない。欠けていない。まだ間に合う。
何より――どこまでも正しい。
――欲しい。
たったひとつ。
浮かんだ願望は膨れ上がって蒼汰を支配した。
壊れる前に、手に入れて。それから。
どくりと心臓がはねる。長年、空いている――欠けた部分を埋める存在が欲しくてたまらない。彼女が壊れずにいてくれれば、間違いなく蒼汰を導いてくれる。正しく生きて、生きさせてくれる。
そのために、彼女は壊れてはいけない。必ず阻止しなければならない。
自覚した心に携帯電話を取り出す。惰性で登録させられた、言い寄る女の連絡先を全て断ち切った。携帯電話の電源を落として、深呼吸をする。ぐっとネックレスを握りしめた。
泣きたいくせに泣けない彼女が壊れる前に泣かしたい。
その後、幸せにして笑顔にしたら、きっと、とても。
彼女が壊れなかったら、その時に告げよう。
「……」
歪んだ、利己的な愛の告白はまだ声にはしなかった。
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