幕間
彼の地獄
暗い夜。夜空から月が消え失せて明かりもない路地。
蒼汰は、誰といない道を滑るように進む。しん、と冷え切った肌を刺すような空気を取り込めば、幾分か冷静になれた気がする。
腹の底から湧き上がり、じりじりと脳を焼くような激情が冷めていく。
深夜二時。誰もが寝静まる住宅街にて自宅の前に辿り着く。
蒼汰はポケットに突っ込んでいた携帯電話を取りだした。液晶が点灯し、時刻を映し出す。メッセージも電話もない。
気楽だ。そんな感想が漏れ出たと同時に忌々しい母親の顔がよぎり、煮えたぎる怒りと嫌悪感がわきあがる。憎悪に近い黒い淀みを必死に押し留めた。
電気はついていない。試しに玄関のドアを引っ張れば容易く開いた。
不用心にもほどがある。……どうせ取られても困るものなど、この家には何一つ置いてはいないが。
「……あら、帰ってきたの」
中に入り、スニーカーを脱いでいると女の声。
舌打ちをしつつ見上げれば予想通り母親の姿。暗闇に、ぼぅと浮かび上がる。
きらきらと輝く目障りな母親。胸元が大きく開かれ、深く入ったスリットから白い肌をのぞかせた深紅のワンピースに身を包んでいる。零れそうな胸に下着が見える寸前まで晒された足。その他諸々デザインなど、かなぐり捨てて必要以上に露出する目的は明らかで下品だ。
顔面に施された化粧もケバケバしい。漂うのはファンデーションと香水の混じった臭い。嫌な女の臭いだ。
「どいて、邪魔よ」
耳元に大ぶりな赤い宝石のピアスをつけつつ、近づく母親に黙って道を譲る。細く白い足を、赤いピンヒールで飾る様を睥睨すれば、母親は不愉快そうに顔を顰めた。
「なに、自分は夜遅くまで出かけてるのに、私には説教する気?」
「んな訳ねぇだろ。クセぇからさっさと消えてほしいだけだ」
「可愛げのないガキ」
醜い。
毒々しいルージュを塗りたくった唇が弧を描いて、ストーンがついた指先を蒼汰へと伸ばす。さらりと前髪をつまんで耳にかける、熱い息を吹きかけるように顔が近づいて。
「キメェっつってんのが分かんねぇのか」
血の繋がった息子を誘惑するように蠱惑的な笑みを浮かべた母親に、心底嫌気が差す。乱暴に振り払い、肩を軽く押した。
どん、とよろけた母親が舌打ち。化けの皮がはがれている。
「アンタ、顔は最高に好みなのに。いいじゃない、ちょっとぐらい遊んだって」
「テメェの息子を誘惑するとか正気の沙汰じゃねぇよ。鬼婆」
「はぁ? 息子とか関係ないでしょ。結局男と女、ヤろうと思えば幾らでもヤれる」
「は。盛りのついた猿か? 見境のない、気持ち悪いんだよ」
「溜まってるなら抜いてやるって言ってんの。ほんと、アンタの顔は私のタイプなのに。アンタほど、好みドストライクな男いないわ」
「――いい加減失せろよ」
獣以下、いや獣に失礼か。清浄な倫理観など持ち合わせていないのだろう。ならばこれ以上の会話は無駄だ。さっさと寝てしまった方が有意義であろう。
ふと背後で車が止まる音がした。迎えが来たと母親が嬉しそうに笑い、意識をそちらに向けた。
その隙に二階へと駆けあげる。後ろで再び玄関が開く音、着飾った母親の行方など知りたくもない。興味もない。身を粉にして金を稼ぎにいく、などではないことぐらいは嫌でも理解している。
自室のベッドに飛び込む。制服と私服を詰め込んだクローゼット。余計なものを一切省いた殺風景な部屋。寝るためだけに用意された場所。
ふと耳に触れる。嫌なことがあれば開けていたピアス。専用器具など使用せず安全ピンを取り出そうとして、やめる。何もかもが怠くて仕方ない。
「反吐が出る」
唸り声は誰にも届かず。触れられた場所を乱暴にこすった。シャワーを浴びる気力など欠片もない。あの女に全て吸い取られたようだ。精気を奪うとは、いよいよ本物の化け物だ。
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