不良くんと私の天敵
ざわざわと騒がしい校内に入り、三階へ。別室前まで来たが何故かまだ蒼汰が付いてくるので、女の子たちが横目でひそひそ話をする。
「なんで、あの子と歩いてるの?」
「噂、本当なのかな」
「まっさかぁ。遊びとか罰ゲームじゃない?」
心ない言葉は響かない。
これぐらいの陰口は実害はなく、無視すれば済む話だ。どうせ関わる予定もない人間たち、事実無根な話は痛みを伴わない。
そもそも噂話が半信半疑だったのだが、先ほどの凍てついた顔と目を見てから言って欲しい。あれは惚れた人間に向けるものではない。
「それかセフレとか? ウケる」
「誘惑とか、大人しい顔してやば」
それにしても下品だ。
子供が覚えたての行為や台詞をひけらかしているようで、共感性羞恥が働く。顔が熱くなるのを感じて、誤魔化すように咳払いをひとつ。別室に逃げ込もう。
だが、それまで無言だった蒼汰が重たいため息をつく。白雪が開けるのを、彼の苛立ちが含んだ声が阻んだ。
「おい、そこの女」
「……えっ?」
「汚ぇ言葉吐いてるお前だよ。本人がいるのに、こそこそ喋ってんじゃねーよ」
「き……っき、きた……ひど、いっ。わたしは本当のこと」
「その噂が本当だって自信があんなら直接言えよ。んな度胸もねーくせに、ガキみてぇに喚くな。見てるこっちが恥ずかしくなる」
舌打ち。
心底軽蔑した目に、女の子は泣き出してしまった。
辛辣すぎるだろ、この人。
敵意より残酷な対応である。
以前に目撃した殴り合い世紀末のときにあった喧嘩相手への敬意など全く感じない。
どうやら彼の逆鱗に触れたらしい、白雪はどうにか心に刻み学ぶ。絶対零度の眼差しなど生命の危機だ。
「入らねぇの?」
当の本人は、既に女の子に興味は失せたのか不思議そうに首を傾げた。一瞬だ、切り替えが早すぎて不気味がすぎる。
びくりと肩を揺らしてから扉にかけた手に力を入れた。
入るとも。こんな気まずい場所から一刻も早く離れよう。
がらりと開けて、暖房のついた部屋に踏み入って。
「あ、来た来た、蒼汰」
――地獄の声が、耳朶を打った。
可愛い、蜂蜜と砂糖を煮詰めた甘い声音。
何度も何度も、嫌になるほど、夢に出るほど忌々しい存在が。白雪の逃げた先を侵食した。
「誰?」
蒼汰の問いに反応する余裕はない。
冷や汗がじわりと滲んで、身体が震える。頭の中が白くなって何も考えられない。喉がかわいて、指先から凍り付いていく。
「酷いなぁ。クラスメイトの
「知らねぇよ」
「白雪ちゃんの友達なの」
「……へぇ」
ゆるく巻いて、ウェーブした黒髪をお嬢様結びにして、整えられた爪はコーラルピンクと清楚な印象をした女子。百都子は愛くるしい微笑みを浮かべて、蒼汰に近づいた。
「ねぇ、変な噂流れてるけど、本当なの?」
「噂って?」
「えー? 蒼汰がさぁ」
逃げ出したい――泣き喚く弱い自分に、何度もナイフを刺して殺す。頼むから死んでくれと懇願して、血みどろになりながら。
のろりと目線を巡らせれば、困った風に笑う別室担当の教師と、同じく別室通いの生徒。そしていつもはいない、人。数学教師だ、白雪を鋭く睨み付けていた。
「百都子がね、せんせぇに白雪ちゃんの話したの。そしたら言いたいことがあるって、白雪ちゃんの元に行っちゃうからさぁ。暇だしついて来ちゃった。そーれーよーりも、蒼汰もいるし、噂ってマジなのか教え」
「山本、授業が始まるから教室に戻りなさい」
話を遮るように数学教師が百都子の名字を呼ぶ。
当然素直に従う性格でもない、明らかさまに不満を表して、頬を膨らませた。
「ええー私もずる休みしたぁい」
「山本」
「……はぁい。じゃあ蒼汰、行こっか」
当然のように蒼汰の腕を掴み、伴って帰ろうと歩く。だが、その腕に触れた瞬間。
「触んな」
乱暴に振り払い、ぎろりと睥睨した。短い一言だったが、恐れを抱かせるには十分である。
百都子は大袈裟なほど、身体を震わせて顔を歪ませた。だがすぐさまに、うるうると瞳を潤ませる。
上目遣いで蒼汰に訴えるが、彼には効かないらしい。鬱陶しげに「俺も用事があんだよ。テメェと教室に行くつもりはねぇ」ときっぱりと切り捨てた。
百都子が不可解そうに首を傾げる。
それでも何かと言い募ろうとしたが、教師が再び促せば渋々一人で出て行く。最後に「またね、蒼汰。白雪ちゃん」と手を振った。
トラウマの要因の一つである彼女が、ここにいた理由。
白雪には明瞭だ。一番苦手とする数学教師を焚きつけた。
つまりは、嫌がらせだろう。怒られる姿を見物――前にもやられた手口である。
目の前の数学教師は、白雪が別室に通うのを良く思っていない。教室に来いと引っ張られる度に黙った。
説明など意味がないのは、昔に嫌というほど痛感している。
――いじめられているのは聞いた。だが今はそんな話してない。私は教室に戻れと言っているんだ、逃げるんじゃない。
――いじめられている? それを私に言ってどうする。ちゃんと話し合いなさい。授業に出ない理由にはならないだろう。
頭の中で響く数学教師の声。 その言葉以来、助けを求めるのを止めた。
困ったら相談しろ。教師は笑う。そんなの全部、嘘だった。
他の別室通いの生徒は無視か、よく怒られて場の空気を乱す白雪を、目の敵にしている。別室担当の教師が、味方せず静観する。それが答えなのだ。
理由を話せと口では言いながらも、白雪の言い分は関係ない。教師は言い訳して逃げる生徒を、連れ戻す仕事を全うしているだけなのである。
「清川」
厳しく、高圧的な呼び方に白雪は声を失った。出なくなった、何を喋ればいいのかすら。ただ叱責を浴びせられるのを待つだけだ。
情けないと、思うことすらままならない。
「こんな場所には通うのに、教室には来ない。サボっていてどうする」
求められていない。数学教師が望む言葉以外は。おそらく教室に行きます、と。それだけで満足して、連れて行かれるのだろう。だが、それは叱責よりも恐ろしい。
「みんなは真面目にしているのに、自分だけは許されると思っているのか」
「わ、たし、は」
「何も言わず、だんまりか?」
激しい語調に、開きかけた口は再び貝のように、一文字に結んだ。聞く気ないのだ。前だってそうだった。幾ら説明しても、返ってきたのは同じだった。
必死に勇気を出して話しても、結局教師も親も聞き入れてはくれない。「そうか」の一言で済ませた後、機械のように教室に来いとだけ繰り返される。それに何の意味があったのだろう。
白雪はありったけの勇気を詰め込んだ。それでも適当に流されてしまう。
意味なんて、ない。
昏く淀んで、視界が塗りつぶされていく。重たいものが、この場の空気そのものが白雪を圧迫した。息すらままならない、すべてがとおく、とおく。つぶして。
数学教師が膠着状態に痺れを切らし、白雪の態度に辟易した様子で、吐き捨てた。
「ここで逃げて閉じこもるなら、来なくても一緒だろう!」
ぱりん、と何かが割れた音が体の中で響く。
なにかが、心を支えていた希望やら願望やら、己を鼓舞する力が、あっけなく踏み潰された。
怒鳴り続ける数学教師の声も、苦笑いをする別室担当の教師も、同じく通っている生徒の気まずそうで面倒くさそうな顔も。全部、きえて。
――そうか。
私の努力は、なんの意味もない。苦しくてたまらない気持ちを殺して。必死になったのも。教室には入れなくても、せめて学校には行こう、と重たい身体を動かすのも。ぜんぶ、無駄で、来る意味も、何もかも。みんなそう思っているから、周りの人も。何をすればいいのだろう、どうしたら終われるのだろう。
ああ、きっと、こんなときでも、わたしのかおは。
そのとき。消えかけた意識を、まるで引き上げるように、ぐいと乱暴に肩を掴まれて、よろけた。もう自分の気持ちすら靄に阻まれてしまった白雪は、ただ人形のようにされるがまま。
「すぐ黙って さっさと帰ればいい――うぉ!?」
ばちんと何が破裂するような音が鳴り響いた。
瞬間、視界が一気に鮮明になり強引に現実へと引き戻される。何かに包まれて、それが蒼汰の腕だと気付くのに数秒必要だった。
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