26 ナイトメア
それは、唐突に起こった。
突然、艦隊の先頭を行く駆逐艦フェルプスの周囲に、水柱が発生したのである。
「本艦、射撃を受けています!」
「どこからだ!?」
先ほどまで、フェルプス以下の駆逐戦隊は後方の巡洋艦戦隊と共に、ジャップの前衛駆逐艦に対する射撃を行っていた。
その敵艦は煙幕を張ってすでに遁走している。この射撃は、別の敵艦からのものに違いない。
だが、見張り員が敵艦を発見するよりも、フェルプスの船体に衝撃が走る方が早かった。
轟音と共に、艦橋の床が跳ねる。アーリー司令官以下の艦橋要員が引き倒され、計器類に体を打ち付けて呻き声を上げる。
「ダメージ・リポート!」
いち早く立ち直った艦長が、そう叫んだ。
わずか一度の修正で、ジャップはこちらに命中弾を叩き込んできた。艦長の声に、焦燥が滲む。
「右舷七〇度方向に発砲炎らしきものを確認! 距離不明!」
「いかん! また来るぞ! 総員、衝撃に備えよ!」
艦長の警告から十数秒後、フェルプスはさらなる衝撃に襲われた。爆音と共に艦全体が揺さぶられ、爆炎が暗かった艦橋内を照らし出す。
「ダメージ・リポート!」
「レーダーは生きているか!? 生きていたら早く回せ!」
「魚雷発射管付近に火災発生!」
「消火、急げ! 何としても誘爆を防ぐんだ!」
「さらなる発砲炎を確認!」
フェルプス艦橋は、不慣れな夜戦のために混乱状態に陥っていた。こちらを撃ってくる敵艦の姿を確認出来ず、ただ一方的に損害が拡大していく状態である。
「リー少将に、右舷七〇度方向に星弾射撃を要請しろ!」
「駄目です! 先ほどの被弾で電路が損傷! TBSが使用不能です!」
混沌と化した艦橋の中で問答が続いている間に、三度目の衝撃がやって来た。それはフェルプスの船体を
「敵一番艦、炎上! 行き足、止まります!」
「目標、敵二番艦に変更! 照準出来次第、撃ち方始め!」
「宜候! 目標、敵二番艦に変更!」
一方、駆逐艦夕立の艦橋では統制の取れた怒鳴り声の応酬が響き渡り、次なる獲物を求めて主砲が旋回していた。
この時、夕立は僚艦春雨と共に、五月雨が発見した敵艦隊に向かって突撃していた。
前衛を務めていた第二駆逐隊の内、最北を担当していたのが春雨で、そこから夕立、村雨、五月雨の順で航行していた。
そして、最も南に位置していた五月雨が「敵艦見ユ」との警報を発したため、夕立駆逐艦長吉川潔中佐は躊躇うことなく、自らの艦に敵艦隊への突撃を命じたのである。
そこに、二五〇〇メートルほどの距離を空けて春雨が後続していた。
星弾に照らし出され、敵艦隊からの集中砲火を受けていた五月雨が煙幕を張って反転することは確認していたが、吉川は夕立に退避を命じなかった。
最初の命令のまま、敵艦隊への突撃を続けていたのである。
どうやら敵艦隊は五月雨を撃つのに夢中なようで、夕立に気付いた様子はなかった。これを、吉川は好機と判断していたのだ。
バリ島沖海戦では、四隻の駆逐艦で巡洋艦を含む強力な連合軍艦隊に立ち向かった経験がある。たとえ夕立一艦であろうとも、吉川には突撃を躊躇う理由などなかったのだ。
帝国海軍が誇る優秀な夜間見張り員は、暗い海上でもはっきりと敵艦の姿を視認していた。
そして、距離八〇〇〇メートルにて、夕立は敵一番艦(フェルプス)に対して射撃を開始した。
夕立の搭載する五〇口径三年式十二・七センチ砲は射程一万八四〇〇メートル、砲口初速九一〇メートル毎秒、発射速度は毎分十発。
他の列強諸国の駆逐艦の主砲に比べ射撃速度には若干劣るとされているが、射程や初速、精度などは勝っていた。
そして夕立の吉本謙一砲術長は、二度目の射撃にして敵艦に命中弾を出していた。三射目は全門斉射を行い、四射目で敵艦は炎上しつつ漂流を始めた。
第一射から、わずか一分弱で決着がついてしまったのである。
一方的な戦果を挙げた興奮も冷めやらぬ間に、吉川はただちに目標を敵二番艦に切り替えさせた。
未だ、敵艦隊からの反撃はない。
「目標、敵二番艦! 撃ち方始め!」
「てっー!」
吉本大尉の裂帛の命令を聞きながら、艦橋の吉川は不敵な笑みを敵艦に向け続けていた。
合衆国側が射撃を受けるまで夕立の存在に気付かなかったのは、一九四二年当時のレーダー・システムに原因があった。
この時、この海戦に参加したどの艦も射撃管制レーダーを搭載していない。また、対水上索敵レーダーであるSGレーダーも搭載していなかった。
必然的に、対空用のSCレーダーに頼らざるを得なかったのである。とはいえ、対空用に開発されたSCレーダーは、対水上捜索レーダーとしても一定の性能を持っていた。
少なくとも、日向に搭載されていた二二号電探とほぼ同等の性能は発揮出来るレーダーであった。
しかし問題は、これを射撃管制レーダーとして使用する際、測距儀などの射撃管制装置と同じ向きにレーダーアンテナを固定しなければならないことであった。
それまで回転させていたレーダーアンテナを止めてしまうわけであるから、当然、射撃を行う方向以外の探知が不可能となる。つまり、レーダー上の死角を作ってしまうことになるのだ。
そこに、合衆国海軍の夜間見張り能力が日本海軍に劣っていたことも加わり、夕立による一方的な射撃を許すことになってしまったのである。
結果、艦隊の先頭を航行していたフェルプスは炎上して航行不能に陥り、衝突を回避しようとした後続艦が転舵したことで、第一駆逐戦隊の隊列に混乱が生じることとなった。
炎上を続けるフェルプスが海上を照らし出す明かりとなり、それに艦影を浮かび上がらせた二番艦ウォーデンが次なる犠牲となった。
この時、合衆国艦隊と夕立との距離は七五〇〇メートルにまで縮まっていた。
しかも、互いに三十ノット以上の速度を出している。反航戦となっているため、相対速度は六十ノット以上。
あまりに早い戦闘の展開に、合衆国海軍の練度は応じることが出来なかった。
戦隊旗艦であるフェルプスが真っ先に戦闘不能となって通信が途絶したことも、第一駆逐戦隊の混乱を助長した。
炎上しながら徐々に速度を落としていくフェルプスを回避しようと、後続艦の艦長がそれぞれの方向に転舵してしまったのである。
そのため夕立とは反対側、つまり炎上するフェルプスを面舵で回避しようとした三番艦モナハン、四番艦エイルウィンは夕立を射界に捉えることが出来なくなってしまった。
彼女たちは仕方なく、その後方から現れた春雨を目標に射撃を開始するしかなかった。
その間に、夕立からの射弾がウォーデンに降り注ぐ。
フェルプスが撃破されてから二分と立たぬ内に、ウォーデンもまた大火災を起こすことになった。
この時、ウォーデンには初弾から夕立の主砲弾が命中していたのだ。日本海軍の夜戦技量の高さを示すような弾着結果であった。
そのため、第二射からは五門すべてを用いた斉射となり、夕立からの第三射でウォーデンは戦闘不能となってしまったのである。
「第一駆逐戦隊は何をやっとるのだ!?」
前方で隊列を乱し、ジャップ駆逐艦からの猛射を受けて右往左往しているように見える第一駆逐戦隊の醜態に、重巡アストリア艦橋でスミス少将は苛立ちを露わにしていた。
「リー少将にTBSを繋げ! ただちにジャップ駆逐艦に対する星弾射撃を要請しろ!」
未だ発展途上段階とはいえ、合衆国海軍はレーダーを用いた射撃が行える。
しかし、レーダー射撃とはレーダーだけに頼った射撃ではない。必ず、光学照準も併用しなければならない。むしろ、第二次世界大戦期においては光学照準が主であり、レーダーはあくまでも従でしかなかった。
レーダーは光学照準と比べて測距精度には優れていたが(遠距離になればなるほど光学照準よりも精度が高くなる)、それ以外の数値はすべて光学照準によらなければならなかったのである。
レーダーも目標を自動で追尾してくれるわけではなく、常にレーダー手によるアンテナ操作が必要だった。
そのためにも、レーダーで探知した目標の付近に星弾を撃ち込んで視界を確保し、その上で光学照準による射撃データを収集、その上で射撃諸元を求めなければならなかったのである。
特にこの時期、レーダー射撃はまだ緒に就いたばかりであり、練度不足から慣れない動作に手間取るレーダー要員も多かった。
そして、状況が刹那の間に変化してしまうこの瞬間、その遅滞は合衆国側にとって致命的であった。
夕立が敵二番艦を撃破して、吉川が新たな敵艦に射撃目標を変更するように命じようとしたその時、彼女の頭上で星弾が炸裂した。
「こいつはちと拙いか」
先ほど、星弾に照らされた五月雨は敵巡洋艦からの集中砲火を喰らっていた。この夕立にも、遠からず敵巡洋艦の砲弾が降り注ぐことになるだろう。
敵の前衛は混乱状態に陥れることが出来た。この辺りが潮時か、と吉川は思う。
しかし、このまますごすごと退避して四水戦本隊に合流するというのも癪である。
「おい、水雷長! 敵巡洋艦の一番艦は射界に入っているか!?」
このまま、すれ違いざまに今装填してある魚雷を敵巡洋艦に発射してしまおう。吉川はそう決断した。
「はい、入っています!」
水雷長・中村悌次中尉が青年らしい若々しい声で応じた。
「よし、そいつを敵巡洋艦一番艦にお見舞いしてやれ! 右魚雷戦、反航!」
「宜候! 目標、敵巡洋艦一番艦! 右魚雷戦、反航!」
「距離六○(六〇〇〇メートル)にて魚雷発射始め!」
夕立は敵の攪乱のために依然として主砲を発射しつつ、三十四ノットの速力で疾走する。
機関室から轟音が鳴り響き、主砲射撃の振動が艦を震わせる。
「敵巡洋艦、発砲!」
見張り員が緊迫の報告を寄せる。だが、それでも吉川の顔に動揺は浮かんでいなかった。
「距離六五(六五〇〇メートル)!」
目標とする敵艦との距離は、急速に縮まっている。相対速度は六十ノット以上。時速約一一〇キロですれ違おうとしているのである。
五〇〇メートルの距離ならば、二〇秒と経たずに詰められる。
恐らく、敵の弾着があり、それが修正されて第二射が来る前に、魚雷を発射し終えることが出来るだろう。
吉川は冷静にそう計算していた。
その直後、夕立の周囲に水柱が林立する。敵巡洋艦部隊からの射弾が降り注いだのだ。
轟音と共に、基準排水量約一七〇〇トンの船体が揺さぶられる。
「被害知らせ!」
衝撃はあったものの、爆音などはなかった。それでも、至近弾による損害は生じている可能性があったので、吉川は伝声管に飛びつく。
「ただ今の弾着による被害は確認出来ず!」
「よろしい、このまま突っ走れ! 航海長、絶対に針路を変えるなよ!」
水柱を突破するようにして、夕立はなおも突撃を続ける。
魚雷発射態勢を整えた以上、針路・速度の変更は出来ない。夕立はこのまま、三十四ノットで突っ走るしかないのだ。
彼方に浮かぶ米巡洋艦の隊列は、一時的に沈黙している。
緊迫の数瞬。
駆逐艦乗りにとって待ち遠しい時間が過ぎる。
「距離六〇!」
「魚雷発射始め!」
「宜候、魚雷発射始め!」
圧搾空気の音と共に、直径六十一センチの九三式魚雷が発射管から海へと飛び出していく。
四連装発射管二基から計八本、それぞれ一・五度の角度を付けて、二秒間隔で発射する。すべての魚雷の発射が終わるまで十六秒。
それまで、夕立は直進を続けていなければならない。
敵艦が装填と照準の修正を終えて発砲するのが先か、夕立が魚雷の発射を完了するのが先か。
艦橋の空気は、張り詰めていた。
「敵艦、発砲!」
「まだだ、堪えろ!」
航海長を押し止めるように、吉川は怒鳴る。入れ替わりで、中村水雷長が叫んだ。
「魚雷発射完了!」
「今だ! 取り舵一杯! 煙幕展開!」
ようやく、吉川は退避の命令を下した。夕立の舵が一杯に回されていく。
「総員、衝撃に備えよ!」
ここで夕立が被弾したとしても、すでに魚雷は発射し終えている。吉川の胸には、安堵と満足感しかなかった。
迫り来る敵弾など知らぬとばかりに、彼は泰然と艦長席に腰掛けていた。
やがて、夕立の艦首が左に振られ始め、それと同時に敵八インチ砲弾の弾着が生じる。
再び夕立は轟音と共に水柱に包まれ、取り舵を切りながらその中を突き進んでいく。
だが、船体は激しくかき乱された海面に揺さぶられながらも、被弾の衝撃も爆炎もない。
夕立は煙幕を張りながら、退避に成功したのである。
「ジャップ駆逐艦、煙幕を張りつつ退避していく模様!」
レーダー室からの報告を受け取ったスミス少将は、安堵の息をついた。
「まったく、ひやりとさせおって」
とはいえ、所詮は駆逐艦一隻である。第一駆逐戦隊を混乱に陥れたまでが、限界であったようだ。
巡洋艦六隻からの砲撃には、堪らずに逃げ出している。
「レーダー、索敵モードに戻せ」
これで、ジャップの前衛駆逐隊は完全に撃退出来ただろう。だとすれば、自分たち六隻の重巡はジャップ水雷戦隊からリー少将の戦艦戦隊を守らなければならない。
五十五門の八インチ砲を以てすれば、ジャップの水雷戦隊を圧倒することが可能だろう。
スミス少将がそう考えていた矢先のことであった。
巨大な振動と轟音と共に、アストリアの舷側に高々と水柱が立ち上った。
艦橋の床が跳ね、艦橋要員たちが姿勢を崩して転倒していく。
「ダメージ・リポート!」
呻き声が満ちる中、アストリア艦長フランシス・W・スカンランド大佐が怒鳴る。
衝撃が収まり、水柱が崩れると、アストリアは傾斜を深めながら徐々に速力を低下させていた。
「艦首、中部、後部に計三発被雷の模様! 艦首切断の模様! 浸水、拡大していきます!」
「機関停止! ダメコンチームは浸水の拡大阻止に務めよ!」
艦長とダメコンチームとの会話を聞きながら、スミス少将は「馬鹿な……」と呟いた。
見張り員からは、雷跡発見の報告がもたらされなかった。ジャップは、いつの間に魚雷を発射したというのだ? いや、もしかしたら連中はこの海域に潜水艦を潜ませていたのか?
現実逃避にも似たその思考が、頭の中を駆け巡っている。
重巡アストリアは、艦首からの大量の浸水によって前のめりに傾斜を深めつつ、やがて洋上に停止した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
どの作品でも、私は夕立を活躍させずにはいられないようです。
今回は、史実第三次ソロモン海戦における夕立と綾波の活躍を、足して二で“割らない”ような形で彼女に暴れ回ってもらうことにいたしました。
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