10 最初の破局

「ラムゼイ大佐(サラトガ艦長)より、先ほど総員退艦命令を発したとのことです」


「近くの駆逐艦に、乗員の救助を急がせろ」


 傾斜するヨークタウンの艦橋で、フレッチャー少将はそう命じた。

 ヨークタウンの速力は五ノットにまで低下しており、沈没の危険性はないものの、この海戦ではすでに役に立たなくなっていることは明白であった。

 一方、魚雷七本、爆弾六発を被弾したサラトガの状況は、ヨークタウンの艦橋から見ても絶望的である。ジャップの空襲が終わってから三十分足らずで総員退艦命令が出されたことも、やむを得ないことであった。

 他方、レキシントンの状況についても予断を許さないものであった。彼女は五本の魚雷を喰らい、傾斜を深めている。巡洋戦艦改造の船体はよく持ち堪えているが、艦全体が火災に覆われている様を見れば、被害の復旧が可能かどうかは判断がつかない。

 これ以上の浸水を食い止め、火災を鎮火させれば、真珠湾への曳航も可能かもしれない。フレッチャーはひとまず、レキシントンの近くにいる艦に消火を手伝わせると共に、やはり近くにいる重巡ポートランドに彼女の曳航の準備をするように命じていた。


「提督、アストリアへの移乗準備、整いました」


「うむ、ご苦労」


 そして自身の乗艦たるヨークタウンに、フレッチャーが別れを告げるときが来た。損傷した艦では、十分な指揮は行えない。

 彼はヨークタウンに近い位置にあった重巡アストリアに移乗することにしたのである。出来れば最新の通信設備を搭載している戦艦ノースカロライナにしたかったのだが、ヨークタウンとの位置関係上、やむを得なかった。

 やがてアストリアからのボートがヨークタウンの右舷に横付けされ、第十七任務部隊の司令部要員たちが舷側から垂らされたロープを伝って乗り込んでいく。フレッチャーも若い水兵二人に手伝ってもらいながら、ボートに乗り込んでアストリアに旗艦を移した。


「第十六任務部隊のスプルーアンス少将に伝えてくれ。後は貴官に託す。貴官に神のご加護があらんことを、以上だ」


 そしてアストリアに移乗して最初にフレッチャーが下した命令が、それであった。すでに第十七任務部隊に空母機動部隊としての能力はなく、あとはサラトガの乗員救助とヨークタウン、レキシントンを真珠湾に連れて帰ることだけが任務のような状況であった。

 ジャップの母艦航空隊は、あまりに強大過ぎた。たった一撃で合衆国海軍の誇る三空母が戦闘力を失い、その内一隻は沈没しかかっている。

 残る空母は、スプルーアンス少将の手元にあるエンタープライズとホーネットのみ。

 イギリスからの要請を受け入れて、ワスプを大西洋に残したままであったことが悔やまれた。真珠湾を壊滅させ、英東洋艦隊を屠ったナグモのタスクフォースに対抗するのに、空母を出し惜しみすべきではなかったのだ。

 フレッチャーが猛将ハルゼーの後を承けたスプルーアンスの奮闘を内心で祈っていると、レーダー室から緊迫の報告がもたらされた。

 新たな未確認機の大編隊が接近中であると言う。


「……」


「……」


「……」


 アストリア艦橋の誰もが、その報告に顔を強ばらせた。

 三空母の損傷によって、上空直掩機は弾薬不足、燃料不足に陥ってしまっている。すでに何機からの機体は駆逐艦の周囲に不時着して、搭乗員が救助されるような有り様であった。

 輪形陣自体も、そうした不時着機の救助やサラトガ乗員の収容、ヨークタウン、レキシントンの救援などで乱れてしまっている。

 この状況で再び空襲があれば、第十七任務部隊は護衛艦艇も含めて壊滅的被害を受けるだろう。

 フレッチャーは暗澹たる気分と共に、神の仕打ちを呪うかのような目で上空を見つめていた。






 友永丈市大尉率いる第二次攻撃隊は、零戦二十四機、九九艦爆三十六機、九七艦攻三十六機の合計九十六機からなる部隊であった。途中で、零戦一機、九七艦攻二機が発動機不調で引き返していたが、それでも傷付いた第十七任務部隊に対しては過剰な戦力であるといえた。

 友永の搭乗する九七艦攻からは、眼下から立ち上る黒煙がはっきりと見えた。

 若干、黒煙の所為で敵艦隊の様子が判りにくい。出来れば無傷の艦を狙って戦果を拡大したいところである。

 敵の上空直掩機の抵抗は微弱であり、零戦隊が瞬時にグラマンを片付けていた。どうやら敵機は弾薬不足に陥ってたようである。母艦が傷付いていれば着艦も出来ないから、機銃弾の補給も出来ないので当然かと友永は思う。

 そのために、彼は余裕をもって敵艦隊を上空から観察することが出来た。

 乱れた輪形陣、炎上する空母、巨大な戦艦。

 まずは敵空母に止めを刺し、戦艦や重巡を狙うべきか。

 友永は蒼龍艦攻隊に、炎上する敵空母への攻撃を指示、艦爆隊に対しては戦艦を中心に攻撃を行うように命じ、詳細な目標の選定は艦爆隊指揮官・小川正一大尉に任せた。


「全機、突撃せよ!」


 友永大尉の九七艦攻からト連送が発せられたのは、その直後であった。






 合衆国側にとって、日本側の第二次攻撃隊の来襲はまさしく悪夢であった。

 わずかに機銃弾を残していたF4Fがジャップ攻撃隊の迎撃に向かったが、そのことごとくが零戦ジークに阻止されて虚しく撃墜されていった。

 その中には、後に対零戦空戦術“サッチ・ヴィーブ”を合衆国海軍に広めることになるジョン・S・サッチ少佐も存在していた。この卓越した戦闘機乗りもまた、機銃弾を撃ち尽くした機体では零戦に立ち向かうことは出来なかったのである。

 上空にあるのは、ただジャップ機のみ。

 最初に突っ込んできたのは、九九艦爆ヴァルであった。狙われたのは、ノースカロライナ、ポートランド、アトランタであった。

 ノースカロライナとアトランタはその対空砲火の激しさから目立つ存在であり、ポートランドはレキシントンの曳航準備のために速力を落としていたことがジャップに狙われてしまった原因であろう。

 上空から逆落としに突っ込んできた固定脚の機体は、ノースカロライナとアトランタによる激しい対空砲火によって火球となって爆散するものもあったが、半数以上は投弾に成功して彼女たちの頭上を飛び越していった。

 ノースカロライナに命中した二五〇キロ爆弾は二発。一発は中央部に命中して五インチ両用砲二基と四〇ミリ機銃座を何基か破壊。もう一発は第一砲塔天蓋に命中して、十六インチ砲二門の仰俯角装置を損傷させた。

 ポートランドにも二発の爆弾が命中。第二砲塔付近に命中した爆弾の爆風と破片が艦橋に飛び込み、艦長以下多数の乗員を殺傷している。

 アトランタには一発が命中し、後部射撃指揮所が全滅した。

 そして、三隻がジャップ急降下爆撃機の攻撃で転舵を繰り返している中、九七艦攻ケイトが輪形陣内部に切り込んできたのである。

 最初に突入してきた雷撃隊は、洋上をのろのろと這うように進むヨークタウンとレキシントンに向かっていった。

 最早、二隻の空母はジャップにとって訓練の標的のような存在であった。

 その舷側に高々と水柱がそそり立った瞬間、二隻が真珠湾に帰還する可能性はまったく失われてしまった。

 すでに魚雷一本を被雷していたヨークタウンにはさらに二本、レキシントンにはさらに三本の魚雷が命中した。

 その上、運の悪いことに、ヨークタウンの消火活動に加わっていた駆逐艦ハムマンにヨークタウンに命中するはずであった魚雷が直撃、この衝撃で搭載爆雷が誘爆してハムマンは轟沈してしまった。

 当然、その爆発は至近にいたヨークタウンにも損傷を与えている。これにより、ヨークタウン艦上で消火活動に当たっていたダメージ・コントロール班が吹き飛ばされ、彼女の火災の鎮火はほとんど絶望的となってしまった。

 そして、追い打ちを掛けるように後続の雷撃隊がノースカロライナなど大型水上艦艇を目標に超低空で迫ってきたのである。

 この内、ノースカロライナの操艦は巧みであり、ジャップ雷撃機の射点を外すことに成功した。しかし、この転舵によってノースカロライナの船体が逸れたために、逆にそのジャップ雷撃隊は重巡ヴィンセンスに対して絶好の射点に付くことになった。

 九七艦攻の搭乗員は、ヴィンセンスも戦艦であると誤認して即座に目標を変更、彼女に三本の魚雷を命中させた(一発不発)。

 さらにアトランタにも二本の魚雷が命中し、炎上した一機の九七艦攻が駆逐艦ヒューズに体当たりを敢行していた。

 ジャップ第二次攻撃隊が去った後に残されたのは、乱れた輪形陣の中で黒煙を上げ、沈没寸前になっている艦艇たちであった。






「レキシントン、ヨークタウン、ヴィンセンス、アトランタ共に航行不能です。ヨークタウン以外の三隻ではすでに総員退艦命令が出されております。バックマスター艦長からも、ヨークタウンの復旧は最早絶望的であるとの報告が寄せられております」


「……終わった、な」


 かすかに残っていた、ヨークタウンとレキシントンを真珠湾に連れて帰るという希望。今やそれは完全に打ち砕かれていた。

 フレッチャーはアストリア艦橋で悄然と報告を受ける。

 第十七任務部隊は、今まさにレキシントン、サラトガ、ヨークタウン、ヴィンセンス、アトランタを失おうとしていた。これにすでに轟沈した駆逐艦ハムマンを加えれば、六隻の艦艇がジャップ航空隊によって撃沈されたことになる。

 ノースカロライナの回避運動が失敗していれば損害はさらに拡大していたであろうから、戦艦を失わずに済んだことを喜ぶべきだろうか。

 だが、肝心の空母を失おうとしている以上、フレッチャーはノースカロライナの無事を素直に喜ぶことは出来なかった。


「各艦に、乗員の救助に全力を尽くすよう伝達せよ」


 それが、この海戦で自分が下す最後の命令になるかもしれない。そんなことを、フレッチャーは思っていた。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 レキシントン、サラトガの攻撃隊を退けた第一航空艦隊が新たな敵機の来襲を受けたのは、〇六一八時(現地時間:四日〇九一八時)のことであった。

 重巡筑摩の見張り員が、距離三万五〇〇〇メートルで敵機来襲を告げたのである。

 この時、第一航空艦隊を捉えたのはホーネット第八雷撃隊のジョン・ウォルドロン少佐率いるTBF隊十五機であった。

 ホーネットを発進した攻撃隊で第一航空艦隊を捕捉出来たのは、実はこのウォルドロン少佐率いる第八雷撃隊のみであった。

 ホーネット攻撃隊はリング飛行長から指示されていた針路を飛んでいたのであるが、発艦直前にエイカーズ航海長から日本艦隊の針路を聞いていたウォルドロンだけは、飛行長は針路の計算を間違えているのではないかと感じていた。そして発艦後に改めてウォルドロンが針路の計算をしてみると、当初の予定針路よりも十五度ほど南寄りに日本艦隊が存在していることに気付いたのである。

 そのため、ウォルドロンは戦闘機隊、艦爆隊に「我に続け」と指示を出して針路を変更したのであるが、どちらの部隊もこの指示にも、あるいはウォルドロン隊が針路を変更したことにも気付いていなかった。

 当時、攻撃隊の周囲に存在していた雲の所為で、ウォルドロンの指示を見落としてしまったのである。そのために、ウォルドロンの側も自分たちが単独で飛行していることに気付いていなかった。

 しかし、アメリカ先住民族スー族の血を引くこの雷撃隊長の判断は正しかった。日本艦隊は、確かに彼の導き出した針路上に存在していたのである。

 このため、ホーネット攻撃隊の中で唯一、ウォルドロン隊のみが日本艦隊の捕捉に成功したのである。残りの機体は会敵予定時刻になっても日本艦隊を発見出来ず、そのまま飛び続けて燃料不足に陥りミッドウェー島に不時着してその一部は失われることになる。

 一方、筑摩が敵機来襲を告げた時点において、第一航空艦隊は針路を第十七任務部隊の方に向けて東進を開始していた。第一次、第二次攻撃隊を出来るだけ早く収容し、その北方に存在すると思われる新たな米機動部隊への攻撃隊を編成するためである。

 また、〇六一八時はちょうど第五航空戦隊がミッドウェー攻撃隊の収容を完了させた時刻とも重なっていた。

 この結果、レキシントン、サラトガ両攻撃隊による空襲、第十七任務部隊に向けた針路変更、五航戦の攻撃隊収容などの要素が重なり、第一航空艦隊の陣形はかなり乱れることとなった。

 特に嶋崎重和少佐率いるミッドウェー攻撃隊を収容することとなった翔鶴、瑞鶴は針路を変更した一航艦主力部隊から落伍気味であった。

 周囲に存在するのは戦艦榛名に第五戦隊の重巡妙高、羽黒、それと第十六駆逐隊の駆逐艦雪風、初風、天津風、時津風の七隻であり、一航戦、二航戦の四空母からは五浬ほど引き離されていた。

 そのためウォルドロンが発見したのは、実際には五航戦に先行する一航戦、二航戦の四空母のみであった。

 一航戦、二航戦の上空にはこの時、三〇機あまりの零戦が存在していた。レキシントン、サラトガ攻撃隊による空襲後、母艦にて燃料と弾薬の補給を受けた機体や、本来であればミッドウェー占領後に同島に進出させる予定であった第六航空隊の機体の混合である。

 一方、ウォルドロン隊には戦闘機の護衛が付いていなかった。彼らはこれに最後まで気付かず、零戦の発見と共に救援を求める通信を送っているほどであった。

 実はこの時、進撃途中でウォルドロン隊を視認して、その後ろに付いていったエンタープライズのジム・グレイ大尉率いる第六戦闘機隊が付近に存在していた。

 しかし、母艦が違うためにウォルドロン隊が発した通信には気付かず、さらには海面付近にあった雲のためにウォルドロン隊が零戦隊に襲われていることにも気付いていなかった。グレイ大尉はエンタープライズ攻撃隊の到着までウォルドロン隊も攻撃を控えているだろうと思っていたため、一航艦東方の空域高度六七〇〇メートルで延々と待機を続けていたのである。

 こうして、スプルーアンスの放った攻撃隊最初の一手は、戦闘機の護衛なく第一航空艦隊への攻撃を開始することとなってしまったのだ。

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