夏眠

石田明日

「夏眠」 曲 naniyue

「ただいま」

 私はいつもあなたが帰ってくる三十分前には目を覚ますようにしていた。季節を感じるためにベランダに出て、外の空気を吸って目を覚ますのが私の日課で、大好きな時間だった。

 聞こえた声に期待を込め、急いで振り返ったが何もなかった。ただ日差しに照らされた私の歪んだ景色だけがそこにいるだけだった。

 もう一度目を開けると、すっかり明るくなった天井が私の目の前にあった。また今日もこの夢かとため息を吐くことすらを諦めた。重たい体はきっとあなたのせいだと言い聞かせながら、体を起こした。

 一人になった夏は何も変わらない。涼しくなることもなければ、暑さが増すことだってない。特別なこの感情を抱かなくたって感じられる気温が毎日続くだけなのだ。

 それに寂しさすら感じられてしまう。また夏が来て、私は今もいや、きっとずっと前を向けない。

 人工的な風で失われた体温をゆっくりと戻すためにキッチンに行った。もう使われなくなったマグカップが一つ、埃を被ったまま眠っている。毎朝このコップに挨拶してお湯を沸かしているが、コップにではなく、あなたにおはようと言いたい。

 苦手だと言っていたコーヒーを淹れた。香りが強くて、何度も顔を顰めていたあなたを嫌でも探してしまう。

 今日も見た夢と同じようにベランダに出た。今度は夢じゃない。蒸し暑いし、蝉の声だってはっきりと私の耳に届いている。それに居心地の良さを感じられないのは都合の悪い現実だからだ。

 手で払いたくなる風で夏草が揺れていた。あなたが無邪気に飛び込んだあの場所はいつかなくなるのかもしれない。でもまだ、まだ私の中からは消えない。なのにあなたは消えてしまった。

 ただいまと優しく声にするあなたを思い出しながら、口の中が溶けてしまいそうなほど熱いコーヒーを一口飲んだ。


 もう私たちは終わるんだと確信したのは七月のあの日。まだ夏が始まったばかりの夕方で、少しだけ心が弾んでいた瞬間だったと思う。

 彼の中からとっくに消えてしまっていた私は、早く伝えてしまうべきだったと思う。たった四文字。何度も言葉をこぼそうとした。

 私が彼を必死に繋ぎ止めておくための嘘だって何度もついた。あれはもしかしたら本音だったのかもしれないが、私は信じたくなかった。

「あのさ、来週花火大会あるんだって。私花火大好きなの。一緒にいかない?」

「忙しいかも、ごめんね。花火好きだったっけ」

 うまく笑えている自信はない、声だってもしかしたら震えていたかもしれない。嘘なんかつけないのに、今は本音すら吐き出せない。

 行き場のなくなった言葉を私が忘れることなんてないが、彼は今日も明日もその先もずっと忘れていってしまうんだと思うと、いっそ伝えてしまえばいいのかもしれないと思った。

「そうだよね、でも今年こそは一緒に行こうね」


「さよなら。」

 いつも通りベランダに出ていない私に安心したのか知らないが、彼の声はどこか清々しかった。寝たふりを信じ切ったまま、私が伝えようと思っていた四文字を彼が落としていった。

 引き止めればよかったのかもしれない。そうすればまた隣で笑ってくれたのかもしれない。明日またただいまと私を抱きしめてくれたのかもしれない。

 でも引き止めなかったのはそんな未来、どう頑張っても来ないことが確信していたからだ。

もう私を愛していない彼の背中はやけに大きかった。明るいはずの朝は、私に合わせたのか珍しく暗く、雨が降っていた。


 今日も同じように何度もさよならを思い出した。憎いこの四文字を飲み込むことはできない。あなたに会いたいと叫ぶこともしなければ、前を向く気だってさらさらない。

 よく晴れた夏の空はキラキラしていて、眩暈がしそうだった。


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夏眠 石田明日 @__isd

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